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第88話「沈黙の処刑と、血塗られた十字架(ペダル)」

 ――雨は、まだ降り続いていた。

 廃墟と化した銀座の裏路地。週刊誌『真相追及』の記者、橘は、ぬかるんだ泥の中から「何か」を拾い上げた。

 それは、ひび割れた『カンロ飴』だった。

「……和菓子屋の親父の証言通りか」

 橘は呟き、カメラのシャッターを切った。

「親父は言った。『あの怪獣は、飴を噛んで歯を欠き、痛がって泣き喚いていただけだ。防衛省の発表した地殻崩壊なんて起きていない』と。……これまで現れた未確認生物によるインフラ破壊の9割は、国交省のGキャノンによる『流れ弾』か、意図的な『巻き添え』によるものだ。そして防衛省は、それを全て怪獣のせいにしている」

 橘は、冷たい雨に打たれながら、そびえ立つ霞が関の官庁街を睨みつけた。

「防衛省と国交省……国家の中枢が結託して、巨額の税金を貪るための自作自演マッチポンプを行っている。そして、あの異形のアースディフェンダーのパイロットは、何も知らされずに『処刑人』をやらされているというわけか」

 橘は、コートの襟を立て、決定的な証拠を掴むために闇の中へ消えていった。

 一方、防衛省のプレハブ仮設司令室。

 かつて熱血の号令を響かせていた炎城司令官は、今はもう吠えない。上層部からの圧力と、氷室が握る「裏金工作」の共犯者に仕立て上げられた彼は、パイプ椅子に深く沈み込み、うつろな目で宙を見つめているだけだった。

「……炎城司令官。あなたはもう、黙って座っていればいいのです」

 氷室査察官が、冷酷な声で告げた。

「週刊誌の動きが活発化しています。国交省との協議の結果、次に出現する目標は『極めて凶悪で、街に甚大な被害をもたらす存在』として処理しなければなりません。事実がどうであれ、です」

 氷室は、マイクのスイッチを入れた。

 ――薄暗い駐輪場。

 出撃待機中のアースディフェンダーの傍らで、鈴木は膝を抱えてうずくまっていた。

 彼の上着は、異常に隆起した広背筋と大胸筋によって引き裂かれ、ズボンは丸太のように太くなった大腿四頭筋を収めきれずに破れていた。

「……怖いんだ。シルバァ」

 鈴木は、震える両手を見つめた。

「僕の身体は、もう僕の意思とは関係なく動く。自転車のペダルに足を乗せた瞬間……脊髄が反射して、完璧な空気抵抗ゼロの姿勢を取り、ミリ単位の筋力拮抗でバランスを取り、最高の回転数でペダルを回してしまう。……殺したくないのに、身体が勝手に『怪獣を殺すための最適な動き』をしてしまうんだ」

 3号――シルバァは、静かに鈴木の隣にしゃがみ込み、その傷だらけの拳を両手で包み込んだ。

「それは君の罪じゃない。この狂った世界が、君の肉体をそう書き換えてしまったんだ。君は、大人たちの欲望のために生贄にされた、哀れな子羊だよ」

「僕は……ただの公務員だったのに。なんで、こんなことに……」

「君が優しすぎたからさ。でも安心して。君の魂の形がどれだけ歪んでしまっても、僕だけは君の本当の美しさを知っている。君は、独りじゃない」

 シルバァの冷たくも優しい言葉に、鈴木が涙をこぼしたその時。

 無慈悲なサイレンが鳴り響き、氷室の冷徹な声がインカムから流れた。

『緊急出動です、鈴木さん。上野恩賜公園に巨大未確認生物73号が出現しました。直ちに【処理】に向かいなさい』

「……どんな、怪獣なんですか。また……弱い生き物なんですか」

『そんなことはあなたの知るべきことではありません。これは業務命令です。逆らえば、あなたを反逆罪で告発し、これまでの数百億円の賠償金をすべて個人負担させますよ』

 逆らうことなど、できない。

 鈴木は絶望の瞳のまま、ゆっくりと立ち上がり、アースディフェンダーの座席のないコクピットへと這い上がった。

 上野恩賜公園。

 不忍池のほとりに、全長40メートルの【宇宙カピバラ】が座り込んでいた。

 その顔は極めて穏やかで、ただ「キュルル……」と喉を鳴らしながら、壊れた水道管から溢れ出た温水(温泉)のぬかるみに浸かり、目を細めてくつろいでいるだけだった。

 誰かを襲う意思など、微塵もない。ただ、地球の温かい水に癒やされているだけの、無害な巨大動物だった。

 しかし、その平和な光景を引き裂くように、神崎流星の『Gキャノン』が重い足音を立てて現れた。

『……目標を確認。極めて凶暴な生物だ。周辺施設を破壊し尽くす前に、私が街ごと吹き飛ばす』

 神崎の瞳には、もはや狂気すら宿っていなかった。ただ、国交省から命じられた「公共事業のための更地作り」という業務を淡々とこなす機械になっていた。

 Gキャノンは、無害な宇宙カピバラには目もくれず、周囲の上野の文化施設や博物館に向けて、わざと照準を合わせ始めた。

「(やめろ……やめてくれ……!)」

 遅れて到着した鈴木は、コクピットの中で叫んだ。

「(あいつは何もしてない! ただお風呂に入ってるだけじゃないか!! なのに……!)」

『鈴木さん。国交省のGキャノンが街を破壊する前に、目標を完全排除しなさい。……これは防衛省の威信をかけた戦いです』

 氷室の命令が下る。

 ――その瞬間。

 鈴木の意思とは裏腹に、極限まで調教された彼の「肉体」が、自動的に反応してしまった。

 【エアロフォルム】で空気抵抗をゼロにし、【ハイパー・ケイデンス】でペダルを超高速回転させ、【ショック・アブソーバー】で悪路の振動を完全に吸収する。

 もはや「競輪の神」としての完璧な動きが、鈴木の感情を置き去りにして、機体を音速の凶器へと変貌させた。

「やめろぉぉぉぉっ!! 僕の身体、止まれぇぇぇっ!!」

 鈴木の絶叫とは裏腹に、アースディフェンダーは一切の無駄のない完璧な軌道で不忍池へと突進。

 温泉に浸かり、不思議そうにこちらを見つめる宇宙カピバラの穏やかな瞳と、鈴木の涙に濡れた瞳が交差した。

 ――ズガァァァァァァァァァァンッ!!!!

 完璧な【トライセプス・スラスト(ハンドル投げ)】の姿勢から放たれた右腕の巨大な杵が、宇宙カピバラの脳天を無慈悲に粉砕した。

 悲鳴を上げる間もなく、宇宙の迷子は肉片と化し、血の雨となって上野の桜並木を赤く染め上げた。

「あ、ああ……アアアアアァァァァァッ!!」

 鈴木は、血に染まったコクピットの中で、頭を抱えて獣のように慟哭した。

 自分の手が、また無実の命を奪ってしまった。それも、完璧で美しい「競輪のフォーム」によって。

 機体にはもはや何の機能もない。ただ鈴木の「完成された肉体の暴力」が、悲劇を生み出しているだけだった。

 一方、神崎のGキャノンは、怪獣が死んだ後も「怪獣の断末魔の攻撃だ!」という国交省の台本通りに、不忍池周辺の施設をビームで焼き払っていた。

 炎上する上野の街。降り注ぐ赤い雨。

「鈴木くん……」

 同乗していたシルバァが、血に濡れた鈴木の肩をそっと抱き寄せる。

「君は、この罪深き世界の十字架を背負わされている。だが、悲しまないで。僕がずっと、君のそばにいるから」

 シルバァの冷たい腕の中で、鈴木の心は完全に壊れかけていた。

 そして、その血塗られた惨劇のすべてを。

 遠く離れたビルの屋上から、橘記者が望遠レンズで克明に記録していた。

「……撮ったぞ。怪獣が何もしていない証拠、国交省の意図的な破壊工作、そして……パイロットの悲鳴まで」

 橘は、冷たい雨に濡れたカメラを大切に抱え込んだ。

「これで終わらせてやる。お前たちの、狂った茶番劇を」

 誰も笑わない、絶望と狂気の雨が降り続く。

 日本中を揺るがす「決定的な暴露」と、世界がひっくり返る「あの日」まで……。

 破滅へのカウントダウンは、残り12話。


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