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第87話「雨音の密約と、作られた怪物たちの憂鬱」

 ――雨。

 灰色の空から絶え間なく降り注ぐ冷たい雨が、東京の街を黒く沈み込ませていた。

 都内某所、看板のない高級料亭の奥座敷。

 薄暗い間接照明の中、防衛省の氷室査察官は、国土交通省の事務次官、そしてトヨハタ自動車の専務とテーブルを囲んでいた。これまでのドタバタ劇が嘘のように、そこには冷徹で生臭い「大人の政治」の空気が充満していた。

「……週刊誌『真相追及』の橘という記者が、嗅ぎ回っています」

 氷室が、冷めた茶を口に含みながら静かに切り出した。

「先日の『宇宙カメがレタスで転んだ』件、そして『スマホのフラッシュで気絶した』件。ネット上では私の情報操作で何とかフェイク動画として火消しをしていますが、橘は現場の目撃者の証言を丹念に集め、『未確認巨大生物・虚弱体質説』の裏付けを取り始めているようです」

 国交省の事務次官が、忌々しそうに舌打ちをした。

「厄介だな。もし『怪獣は実は自衛隊の通常兵器どころか、素手でも倒せるほど弱い、ただの迷子動物だ』という真実が明るみに出れば、我々が『怪獣による被害と復興』と称してゼネコンに流している巨大な公共事業予算がすべて吹き飛ぶ」

「ええ。トヨハタとしても、GキャノンとGダムの開発費・維持費として国から引っ張っている数兆円の予算がストップすれば、株価はストップ安、即座に倒産です。我が社の機体が『ただ街を壊しているだけ』だとバレては困る」

 トヨハタの専務が、扇子で顔を煽りながら低く唸った。

「利害は一致していますね」

 氷室の眼鏡の奥で、氷のような光が反射した。

「防衛省と国交省。表向きは予算を奪い合う犬猿の仲ですが、この『巨大な嘘』を維持するためには、互いに手を結ぶしかない。橘の口は、そちらの圧力で封じてください。私は、ネットの世論操作と……『駒』の管理に専念します」

 国民の血税を喰い物にする巨大な陰謀が、雨音にかき消されながら密かに結ばれていく。

 氷室は、プレハブで毎夜勝手に機体が改造されていたこと(ハカセイダーの仕業)など一切知らない。彼女にとってアースディフェンダーの性能向上は、「鈴木という駒が死に物狂いで適応した結果」でしかなかった。だからこそ、その駒が壊れるまで使い潰すつもりだった。

 ――その頃。

 雨漏りのするプレハブ仮設司令室の片隅で、鈴木は一人、薄暗い裸電球の下に座り込んでいた。

『逃げちゃダメだ……でも、何から……?』

 鈴木は、己の身体を鏡に映し出し、絶望の淵に立っていた。

 異常なまでに肥大化し、血管が網の目のように浮き出た大腿四頭筋。極限の空気抵抗を減らすために固まり、常に前傾姿勢を強いられる湾曲した背骨と首。インコースを死守するために異常発達した体幹。

 もはや、市販の服など着られない。街を普通に歩くことすらできない。人間の骨格としての美しさは完全に失われ、ただ「自転車を漕ぐためだけの異形の怪物」へと成り果てていた。

「(あんな……飴玉で歯が欠けて泣くような、ハトのフンでパニックになるような……ただの弱い生き物を倒すために。どうして僕は、こんな『化け物』みたいな身体にならなきゃいけなかったんだ……?)」

 鈴木の手元のスマートフォンには、SNSの心無い声が滝のように流れていた。

【アースディフェンダーのパイロット、動きがキモすぎる】

【Gキャノンの邪魔ばっかりして、防衛省の税金泥棒が】

【壁登る時のあの腰の振り方、完全に変態だろ。早くパイロット引きずり降ろせ】

「……僕は、何のために戦っているんだ……?」

 平和を守るためだと信じていた。だが現実は違う。

 怯えているだけの無害な宇宙動物を、国交省と防衛省の利権のために、この異常な暴力(筋肉)で粉砕し続けているだけだ。国民を騙し、無垢な命を奪い、その代償として自分は人間としての形を失った。

「う、あ……あああっ……」

 鈴木が顔を覆い、しゃくり上げるように泣き崩れた時。

 不意に、プレハブのラジオから静かなクラシック音楽(J.S.バッハ『無伴奏チェロ組曲』)が流れ始めた。

「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ」

 振り返ると、そこには作業着姿の青年――巨大未確認生物3シルバーガイが、儚げな微笑みを浮かべて立っていた。ハカセイダーが星に帰ってから、彼は一人で地球に残り、鈴木の側にいた。

「……3号……」

「僕のことは、シルバァと呼んでくれていいよ、鈴木くん」

 3号は、まるで月明かりのような透明な眼差しで、鈴木の異形に膨れ上がった太ももにそっと触れた。

「やめろ……! 見ないでくれ……!」

 鈴木は怯えたように身を縮めた。

「僕はもう人間じゃない……! 嘘にまみれた防衛省の操り人形で、弱い怪獣を殺すだけの……醜い化け物だ!!」

 だが、3号は手を離さなかった。その瞳には、深い慈愛が満ちていた。

「君は、自分の身体を醜いと思っているのかい? ……そんなことはない。この筋肉は、君がこの残酷で理不尽な世界を生き抜くために手に入れた、純粋で美しい『進化の証』だ」

「違う! こんな筋肉、僕には必要なかった! 誰も僕なんか理解してくれない……みんな僕を『気持ち悪い』って言うんだ!」

「他者の言葉に怯えているんだね。人は、自分に理解できないものを恐れ、排斥しようとする。でも、僕は君を恐れない」

 3号は、鈴木の隣に座り、その歪んだ背中を優しく撫でた。

「君がどれだけ深く傷つき、どれだけ孤独な闇の中でペダルを回し続けてきたか……僕だけは、知っているから。君は悪くない。君はただ、優しすぎただけだ」

「……シルバァ……」

「僕は、君に逢うために地球に取り残されたのかもしれない。……泣きたい時は、泣けばいいさ」

 雨音と、静かなチェロの旋律だけが、冷たいプレハブの中に流れていた。

 怪物になってしまった青年は、宇宙から来た青年の肩に顔を埋め、声を上げて泣き続けた。これまで押し殺してきたすべての理不尽と悲しみが、涙となって溢れ出していく。

 しかし、その尊い静寂の裏側で、破滅の足音は確実に近づいていた。

 プレハブの窓の外。

 土砂降りの雨の中、傘も差さずに立ち尽くす一人の男がいた。

 週刊誌の記者、橘である。彼は望遠レンズ付きのカメラで、アースディフェンダーの機体と、その背後にある「防衛省の闇」をじっと見つめていた。

「……怪獣は弱い。防衛省も国交省も、すべてを知っていて隠蔽している。この国は、とてつもない嘘の上に成り立っている……」

 橘がシャッターを切る音が、雨音に混じって小さく響く。

 嘘で塗り固められた世界は、限界を迎えようとしていた。

 鈴木の悲痛な苦悩、暗躍する官僚たち、そして真実を暴こうとする記者。

 誰も笑えない、重厚で残酷な人間ドラマの幕が上がる。

 すべての虚構が崩壊し、日本中に決定的な真実が暴露される「その日」まで……破滅へのカウントダウンは、残り13話。

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