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第39話「梅雨のスリップ地獄と、時給1300円のデリバリー騎士」

 六月。関東地方は本格的な梅雨に入り、防衛省の地下司令室には湿気とカビの匂い、そして新司令官・炎城烈火えんじょう れっかの熱すぎる鼻息が充満していた。

「ぬぉぉぉ! 湿気など気合で吹き飛ばせ! 鈴木ィ! 今日も元気にペダルを回しているかぁぁっ!」

 モニター越しに炎城が叫ぶ。ナビゲーターの佐藤は、新調したばかりの『motorola edge 60 pro』の滑らかな画面で、相変わらず『ファイナルファンタジーII』の熟練度上げに勤しみながら、「司令官、鈴木さんのペダル、湿気で滑って空転してますよ」と気怠そうに報告した。

 屋外演習場。土砂降りの雨の中、アースディフェンダーのコクピットにいる鈴木は、地獄の淵にいた。

「……滑る……足が滑って、トルクが伝わらない……!」

 ハカセイダーが設置した「自転車ペダル駆動システム」は、雨水の侵入により致命的な欠陥を露呈していた。鉄製のペダルと鈴木の安物の安全靴の相性は最悪で、一漕ぎするたびに足が『つるんっ!』と滑り、弁慶の泣き所を強打する。

「氷室査察官……! 助けてください、滑り止めのゴムを貼る予算を……」

『却下します。鈴木さん、予算管理のスプレッドシートがまた【#VALUE!】エラーを吐き出していて、それどころではないのです。原因は、あなたがペダルを漕ぐ際に発生する微細な振動で、基地の古いサーバーがバグを起こしているせいですよ。器物損壊で給料から引くか検討中です』

「俺の足のせいかよぉぉっ!」

 一方その頃。

 土砂降りの都内を、巨大な保温バッグを背負ったジャージ姿の青年――巨大未確認生物3シルバーガイが、原付バイクで猛スピードで駆け抜けていた。

(時給1,300円+雨の日インセンティブ! 稼ぎ時だぜ、デリバリーバイト!)

 3号は、阿佐ヶ谷の狭いアパートから一歩踏み出し、今や「デリバリー騎士」として、お腹を空かせた市民に温かい食事(主に二郎系ラーメン)を届けていた。雨の中、視界は最悪だが、彼の超感覚なら事故の心配はない。

(よし、次の配達先は……演習場の近くの工事事務所か。ん? あそこにあるのは……)

 3号の視線の先には、雨に打たれて「ギト……ギト……」と、泥沼の中で足を取られているアースディフェンダーの姿があった。以前の改造で「大地に立つ」ことはできたものの、雨の泥濘ぬかるみとスリップにより、巨神はまるで生まれたての小鹿のように膝を震わせている。

 その時。

 灰色の雲を割って、全長30メートルの巨大な【宇宙カタツムリ】こと、巨大未確認生物24号が降下してきた。奴は移動するだけで周囲に強力な「潤滑粘液」を撒き散らし、あらゆる摩擦係数をゼロにする厄介な怪獣だった。

「出たな、ぬるぬる野郎め!」炎城が叫ぶ。「鈴木ィ! その鋼の脚力で、奴をキックだ!」

「無理です! 一歩踏み出そうとするだけで、股関節の塩ビパイプが股裂き状態になりますぅぅ!」

 24号が放った粘液が演習場を覆い、アースディフェンダーはついに「おっとっと……」と、その巨体を大きく傾け始めた。

(おいおいおい! あのロボットが倒れたら、俺が今運んでる『野菜マシマシ・アブラカラメ』のラーメンが衝撃で台無しになっちまうだろ!)

 3号は即座に原付を停め、保温バッグを丁寧に地面に置いた。

(鈴木のおっさん、今助けてやるからな!)

 3号は人間の姿のまま、演習場の外周に積まれていた【工事用の巨大な砂利の山(数トン)】を、スコップも使わずに素手で一気に掴み上げた。そして、超音速のステップで24号の周囲を駆け回り、怪獣の粘液の上に猛烈な勢いで砂利を撒き散らしたのである。

『ザザザザザザザザッ!!!』

「……ん? 滑らなくなった!?」

 コクピットの鈴木が目を見開く。3号が撒いた砂利により、演習場の地面に強力なグリップ力が復活したのだ。

「よし、今だおっさん! 漕げぇぇぇ!」

 3号は誰にも見られない角度から、アースディフェンダーの巨大なカカトをドロドロの泥の中から力任せに引き抜いた。

「いっけぇぇぇぇぇ!!」

 鈴木が渾身の力でペダルを立ち漕ぎする。

 グリップを得た巨神の右足が、24号の殻の隙間を完璧に捉えた。

『必殺! スリップ・ストップ・マッハ・キック!!』

 ドゴォォォォォン!!

 24号は殻ごと粉砕され、自らの粘液で滑りながら、遥か彼方の海上まで一気に滑走して消えていった。

「……おおおおおっ!!」

 司令室の炎城が、感涙にむせぶ。

「見たか! 豪雨の中、一瞬にしてグリップを取り戻し、摩擦を支配したあの動き! まさにアースディフェンダー、ハイドロプレーニング現象をも味方につけたか!!」

 広報の広瀬が、即座にキーボードを叩く。

「完璧です! 『ED、最新のナノ砂利散布システムにより、雨天時の機動力を1000%向上!』でリリースを出します!」

 司令室は勝利の熱狂に包まれた。

 一方、現場。

 3号は慌てて原付に戻り、再び保温バッグを背負った。

「ふぅ、間に合った。さあ、冷めないうちにラーメンを届けないと!」

 しかし、彼が目的地に到着した時、スマホに「注文キャンセル」の通知が届いた。

『到着予定時刻を3分過ぎたため、返金とさせていただきます』

「……3分……3分遅れただけで……」

 3号は土砂降りの雨の中、膝から崩れ落ちた。

「俺の雨の日インセンティブと、時給1,300円が……。このラーメン、自腹かよ……」

 そして、コクピットの鈴木にも、氷室査察官からの非情な連絡が入っていた。

『……鈴木さん。お疲れ様です』

「氷室査察官! 勝ちましたよ! 滑りませんでした!」

『ええ。しかし、あなたが演習場に勝手に撒き散らした【砂利】の撤去費用、および砂利の私物化に伴う使用料として、今月の給料から【2万5千円】を天引きします』

「俺が撒いたんじゃないのにぃぃぃぃっ!!」

 宇宙人のタダ働きと、パイロットの天引き。

 梅雨の空に響く二人の叫びは、激しい雨音にかき消され、今日も誰にも届くことはなかった。

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