真の最終話「ウェディング・ベルと、永遠のタンデム走行(無間地獄)」
――六月。ジューンブライド。
都内の一等地にある、荘厳なステンドグラスが輝く大聖堂。
パイプオルガンの神聖な旋律が響き渡る中、祭壇の前には一人の新郎が立っていた。
特注の純白のタキシード。
しかし、その姿はあまりにも異様であった。
太さ120センチを超える大腿四頭筋は、最高級シルクのスラックスを内側からはち切れんばかりに膨張させ、縫い目から「ミチミチッ」と悲鳴を上げている。
さらに、極限の【エアロフォルム】で完全に固まってしまった背骨と首のせいで、新郎は直立することができず、常に「神父に向かって90度の深いお辞儀(あるいは謝罪)」をしているような、異常な前傾姿勢のまま震えていた。
「(……どうして。どうして、こうなった……?)」
新郎――鈴木は、滝のような冷や汗を流しながら、自らの運命を呪っていた。
ギィィッ……と、重厚な扉が開く。
光の向こうから、純白のウェディングドレスに身を包んだ新婦が入場してきた。
息を呑むほど美しいその姿。しかし、ヴェールの奥で冷たい光を放つチタンフレームの眼鏡と、氷のように冷徹な瞳は、紛れもなく氷室元査察官(現JKA特別理事)その人であった。
彼女は、バージンロードをカツン、カツンと正確なヒールの音を立てて進み、鈴木の隣に並んだ。
「……似合っていますよ、鈴木さん。その前傾姿勢、まるで私への永遠の服従を誓っているようで、とても素晴らしい」
「ひ、氷室……! どうして僕が、あんたと結婚しなきゃならないんだ!! 冗談じゃないぞ!!」
前傾姿勢のまま小声で抗議する鈴木に対し、氷室は冷たい笑みを浮かべ、一枚の書類を突きつけた。
「冗談ではありません。これは、極めて合理的な『債権回収および資産管理の最終形態』です」
「資産管理……?」
「ええ。あなたは現在、私に対して1,000億円の負債を抱え、同時に競輪界の絶対王者として莫大な賞金を稼ぎ出している。しかし、他人のままでは、賞金の差し押さえや税金対策に限界があります。……ですが、『夫婦』となれば話は別です」
氷室は、美しいヴェールをわずかに持ち上げ、鈴木の耳元で悪魔の囁きを落とした。
「戸籍を統一し、私があなたの『法的な妻』兼『専属マネージャー』兼『資産管理会社の代表』になる。これにより、あなたが稼ぐ賞金は1円の無駄もなく、直接私の口座へと吸い上げられる合法的なパイプラインが完成するのです。もちろん、婚前契約により、1,000億円の借金は『あなた個人の特有財産』として据え置いてありますからご安心を」
「悪魔の契約書じゃねえか!! 誰がそんな婚姻届にサインするか!!」
「あら。サインなら、すでに済んでいますよ」
氷室が指差した先。
神父が立つはずの祭壇に、なぜか神父の服を無理やり着込んだ作業着姿の青年――シルバァ(3号)が、ボロボロと涙を流しながら立っていた。
彼の手には、きっちりとハンコが押された『婚姻届』と『連帯保証人承諾書』が握られていた。
「シ、シルバァ!? お前、なんでそこに! っていうか、勝手に僕のサインを!?」
「……ごめんよ、鈴木くん。うっ、ううっ……」
シルバァは、聖書ではなく『最新版・日本の民法・親族編』で顔を覆いながら泣き崩れた。
「彼女に、『サインしなければ、鈴木を再び防衛省の地下ダンジョンで、永遠にママチャリの自家発電機として監禁する』って脅されたんだ……! 僕には、君の自由(※バンクを走る自由)を守るためには、君を彼女に差し出すしかなかった……!!」
「お前は僕の味方じゃなかったのかよぉぉぉっ!!」
絶望する鈴木をよそに、氷室がシルバァから婚姻届を奪い取り、満足げに頷いた。
「素晴らしい。これで、あなたが落車して死んだ場合の『数百億円の生命保険』の受取人も、完璧に私のものとなりました。あなたが勝てば賞金、死ねば保険金。まさに、捨てるところのない究極の錬金術の完成です」
「(……終わった)」
鈴木は、もはや逃げ場のない完全な檻に閉じ込められたことを悟り、タキシードのズボンをミチミチと鳴らしながら、その場にへたり込もうとした(前傾姿勢なので、ただの奇妙なスクワットになった)。
「さあ、誓いの言葉を」
氷室が、冷たく言い放つ。
「病める時も、健やかなる時も、オッズが1.0倍の時も、観客から空き缶を投げつけられる時も。私への1,000億円の負債を完済するその日まで、永遠に時速120キロでペダルを回し続けることを誓いますか?」
「……ち、誓い……たく、ない……っ!!」
「『誓います』と確認しました。では、誓いのキスの代わりに、これを」
氷室は、ドレスの谷間から「ドスッ」と重厚な【純金製の実印】を取り出し、鈴木の額に朱肉ごと「ガァァァン!!」と力強く捺印した。
「これで、生命保険の特約追加も完了です」
「額にハンコ押す花嫁がいるかよ!!」
パンパカパーン! と、どこからともなく祝福のファンファーレが鳴り響く。
教会の扉が開き、外には「新婚旅行」へと出発するための車が用意されていた。
……いや、車ではなかった。
それは、後部座席に豪奢な天蓋とワインセラーを備え付けた、極めて歪な形をした【超巨大タンデム(二人乗り)ピストバイク】であった。
「さあ、あなた。愛の巣(次のレース場)へ向けて出発しましょう。私は後ろのシートでシャンパンを飲んでいますから、あなたは前のサドルで、いつものように風の壁を切り裂いてくださいね」
「ハネムーンまで僕の脚力頼みかよ!! というか、この自転車、ブレーキついてないぞ!!」
氷室は優雅に後部座席に座り、ヴェールを風になびかせた。
「さあ、踏みなさい。あなたが止まれば、私はすぐに離婚訴訟を起こし、莫大な慰謝料を上乗せしますよ。ケイデンス400で、時速150キロまで加速なさい!!」
「シルバァァァッ! 助けてくれええええっ!!」
鈴木が涙ながらに振り返る。
しかし、教会の前で参列者(かつての炎城司令官や佐藤など、全員氷室に弱みを握られた防衛省の元職員たち)と一緒にライスシャワーを投げているシルバァは、満面の笑みで親指を立てていた。
「いってらっしゃい、鈴木くん!! 愛という名の重いギアを、君のその美しい大腿四頭筋で永遠に回し続けるんだ! 君の筋肉は、人妻になっても最高だよぉぉぉっ!!」
「お前の愛は歪みすぎてるんだよおおおおおっ!!」
――絶望の果て。
もはや何一つ自分の意志で選べなくなった筋肉の化け物は、諦めと共にペダルに足を乗せた。
【等尺性静止】からの、【エアロフォルム】、そして【メテオ・ストンプ】。
ズガァァァァァァァァァァンッ!!!!
純白のタキシードを着た怪物が放った暴虐のペダリングが、凄まじい衝撃波を生み出し、教会のステンドグラスをすべて粉々に吹き飛ばした。
前傾姿勢のまま、時速150キロで爆走するウェディング・タンデム自転車。
後ろでは悪魔のような妻が高笑いし、前では筋肉の塊となった夫が血の涙を流してペダルを回す。
その光景は、日本の競輪史に、いや、人類の結婚史に永遠に語り継がれる最大級の悪夢の門出であった。
遠ざかる轟音と真空波の中。
青空に向かって、鈴木の生涯最大の、そして魂の底からの叫びが響き渡る。
「理不尽すぎるだろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」




