開会式と加藤亜樹
午前中は春季の研修会の開会式が大講堂で行われた。生徒職員合わせて五百名近い人間を収容できるこの大講堂は、聖麗の会のさまざまな行事でも利用されているが、交響楽団の演奏会にも使われるくらいの規模で、正面のステージに向かって座席が見下ろす形で配列され、そのかなり上段に腰掛けた真沙美からの眺めは壮大なものだった。
司会進行は福岡真里奈教務主任であったが、遠めで見ても目鼻立ちがはっきりとした美しい顔から透き通るような声が発せられるのも華麗で気品が感じられたが、見事なまでにきらきら光る白銀の修道服を着ており、彼女が全国でもたった十二人しかいない銀のシスターであることは紛れもなく、真沙美は初めて目にする銀の修道服に圧倒された。
開会式は、理事長、校長などの挨拶に始まり、学校法人の理事のみならず、聖麗の会宗教法人の理事までもお出ましになり、長い有難い言葉が手向けられた。こうした退屈な行事に慣れているとはいえ、真沙美はここまできて同じ話を何度も聞かされることになろうとは、正直考えてもみなかった。特に宗教法人の理事たちからの話ときたら、法人の歴史に始まり、聖麗の会法人についての理念、活動にいたるまで嫌というほど聞かされたものばかりで、客席の照明が比較的暗く落とされていたので、真沙美は目を閉じてじっとしていようと思ったほどだった。
周囲の様子を見ると、他の生徒たちはどう考えているのかわからないが、みな無表情にステージの方に顔を向けてじっとしているのだった。目立つのは福岡教官ともう一人いる白銀の修道服を着たシスターだけだった。もう一人のシスターは、遠くからで判別しづらいが、まだ会ったことのない人物のようだった。教官なら昨日の夕食会の時に紹介されているはずなのだが、教員ではないのだろうか。
ステージでは、昨日行われた新職員の紹介が始まっていた。すでに夕食会で紹介されていたので、目新しいものは見られないと思っていたら、教育実習生の紹介で、初めて男子学生が紹介された。その人物、百八十はゆうに超えるスレンダーな長身で、おそらく長髪茶髪であったのを今回の研修のために無理に短くカットしたと思われる黒髪のショートカットで、歩き方から何まで身のこなしがモデルのような雰囲気を漂わせながら、自己紹介の話し方は少しも臆せず、まるでこうした機会にすっかり慣れているかのようなよく透る声かつ滑らかな話し方、アナウンサーのように綺麗な発音、そのまま都会の繁華街を歩けば多くの女性達が振り返ってみるような、美少年にも美少女にも見える少し中性的なマスクの持ち主だった。
大講堂にどよめきが起こっていることを真沙美は感じている。誰も声には出していない。しかしひとりひとりの息遣い、ため息、それらが融合され増幅されて、この大きな講堂の屋根に向かって伝わっては跳ね返り、反響してここへ戻ってくるのだ。それは単に男性がこの女の園にいるからという動揺ではない。この長野本校の生徒たちが今まで遭遇したことのないような未知の生物が今目の前に降臨して、彼女らを幻惑している。それに対して彼女らはどう対処したものかわからず困惑し、大いに動揺しているのだ。
羽鳥周と名乗った東都大学の男子学生は、全ての聴衆の心を支配する影響力を垣間見せただけで、あっさりと壇上から姿を消した。
職員、実習生紹介は、羽鳥の余韻を残したまま終了し、また交響楽団の演奏とともに賛美歌の合唱が始まり、校歌を斉唱して終了した。一人の男性が女の園に異質な光と影をもたらし、それまでの均整のとれた調和に一つの渦を引き起こす一滴を投じたことは誰の目にも明らかだった。彼をこの場に呼んだのは果たして正解だったのか、真沙美は疑問に感じた。
大宮校においてでさえ、男性教師は珍しかった。ましてや教育実習生など聞いたことがない。しかも本校のように男性と接する機会がない特殊な環境で生活している生徒たちの前に、あのような都会でも珍しいくらいの美形の男子など、教官たちが決定したこととは思えなかった。
昼食のために寮の食堂へ移動する生徒達の間で、ひそひそと囁く声があちこちで聞かれた。
「食堂へ来られるのかしら」
「まさか、例がございませんわ」
「職員室で昼食を摂られるそうよ」
安達教諭と羽鳥実習生の二人は、職員室横の部屋へ食事が運ばれ、そこでとることになっているらしい。安心の声とある種の失望の嘆息が聞こえてくるようだった。
「大変な人気ね」と、加藤亜樹がいつの間にか真沙美の傍らに来ていた。手には一眼レフデジカメが握られている。開会式の様子を撮影していたようだ。腕には広報委員会の腕章が巻きつけられており、この撮影行為は学園が認めたものであるという証だった。
聖麗女学館には新聞部というものが存在しない。生徒が自由に記事を作成することは認められていなかった。かわりに教官監視下の広報委員会というものがあり、教官の指示に従って学園の広報が作成、発行されていた。記事は教官の指導の下、生徒会が主に作成する。写真は美術部内写真部門が撮影していた。
「この写真、値打ちものだね」と、亜樹はほくそ笑んでいたが、カメラ内の記録メディアはそのまま生徒会へ提出しなければならなかったので、勿論個人のものになることはなかった。メディアを読み込むパソコンが生徒の自由にできるところにないのだった。自室の端末はCDーR、USBクリップなどすべての媒体が使用できなくなっており、ワープロで作成した個人の文書なども、卒業時など外へ持ち出したい場合は、庶務課を通してディスクなどに焼いてもらうしかなかった。これはコンピューターのすべての情報を外へ持ち出せなくしているという面と、外からウィルスなどを持ち込まないためということによると説明されていた。
「写真部で撮影した作品はどうしているのよ?」
と、真沙美は亜樹に聞いてみた。
「写真部の作品は白黒フィルムに撮影したものを印画紙に焼くのよ。だからカメラも別。私の場合はレンズはフィルムカメラと共通なので、この一眼レフのボディだけ交換すればよいのだけれどね。」
亜樹が手にしている一眼レフカメラはレンズがデジカメとフィルムカメラで共通のものらしく、本体のみデジカメとフィルムカメラを用意しておけば、わざわざレンズを別々に買い揃えなくても良いらしい。家にあった旧式のカメラだという。
昼食は十二時から一時の間に適宜摂ればよいことになっているので、真沙美は亜樹と食事をともにした。写真の話を続ける。「それで写真部って面白いの? 何だか暗室にこもって暗いイメージがあるのだけれど」
「暗室は暗いわよ。白黒写真だから赤い灯りはついているけどね。これがカラー写真だと真っ暗。手探りでしなければならないし、色も上手く出ないからあまりやる人はいないわね」
「いまどき白黒というのがピンとこないわね」
「まあ、普通の人はそういうわね。もうフィルム現像の道具一式さえ手に入りにくくなっているし。でも白黒写真というのは単に色のついていない写真というのではなくて、光と影で表現する一種の芸術なわけ。記念写真というのと違うのよ」
「ふうん」とはいうものの、真沙美にはよく分からなかった。
「よかったら今度見に来たら? 写真だけやっている部員は私ともう一人しかいないけれど、かけもちや気まぐれでやっている人は結構多いのよ。絵画部門の人もやっているし」
大宮校にいた頃はバスケットをしていた真沙美は、ここにバスケット部がないので、特に何の部活をやろうという意識がなく、気が向いたら行くとだけ答えた。
「ところで、午後いきなり演習というのになっているけど、これって何をするのかしら」
真沙美は、予定表に書かれた午後一時から三時半までの演習という時間について、亜樹に聞いてみた。ガイダンスでは数学や英語、物理などの問題をマラソンのようにひたすら解いていくと説明を受けていたが、大宮校ではそのような形式がなかったのでいま一つイメージが沸かないのだ。
「今日は数学だったわね、数学ⅠA、ⅡB、ⅢCとあって、私たち二年生は二つ以上選択するのだけれど、問題が一問ずつ配られる。それをできるだけ早く解いて、採点担当の教官のところへ持って行き、正解していたら次の問題がもらえるの。もし不正解ならヒントだけもらってもう一度解きなおし。二時間半の時間内に難問とけるかで成績がでるというわけ。例によって優秀者は張り出される。特にこの春の研修会では一年生から三年生まで合同だから二百十六名いるのだけれど上位十名が張り出されるわね。そして成績不振者は呼び出されて宿題や補習がたっぷり出されて休み時間どころでなくなるのよ」
「それじゃ一年生が不利にならない?」
「もちろん、新一年生は本来まだ数学ⅠAすら授業を受けていない形にはなっているけど、大体中等部の三年あたりから始めているからⅠAの問題だけ解けばいいのよ。それに上位は学年に関係なく表彰されるけど、下位は学年ごとに五名ずつってきまっているのよ」
「じゃあ、下から五人に入らなければいいわけね」
「そうなんだけど、結構厳しいのよね、万一たまたま苦手な問題にあたって躓いたらそこから先へ進まないのよ。パスして次の問題をもらうことすらできない。いつまでも迷路に迷った状態になってあせるし大変なのよ。私一度演習で下位五名に入ったことがあるのだから」
亜樹がどのくらい数学ができるのか分からないから、判断できないが、罰ゲームのような課題山積状態だけは避けたかった。数学には自信があるがこの本校のレベルが肌で感じられないので少し不安でもある。
「採点担当は何人いるの?」
「数学と理科の教師で六名、あと教育実習生が二名」
「八名か。誰の採点にあたるかは選べるのかしら」
「もちろん自由だけれど、あまり人気のある先生だと列が長くなって採点に時間を取られる。かといって人気のない先生は採点が厳しかったり、不正解の時のヒントが少なかったりするから、だれに見てもらうかも成績につながるわね」
「まるでゲームみたい」
「そう、まさにゲームよ。しっかり罰ゲームも用意されているれっきとしたゲーム」と言ってから亜樹は思わせぶりに付け加えた。「今年は少し様相が変わるかもね。採点者に実習生の羽鳥先生が加わっているから」
それがどうしたというのか。怪訝な顔をしていると、亜樹は意味ありげに笑って、「あの先生がどんな採点をするのかわからないけど、若い男性と殆ど話をする機会のない生徒たちはきっと一度は男性教師の指導を受けてみたいと思っているでしょうね。結構好奇心旺盛な生徒がいるから」
「それって、あなたのことかしら?」と、真沙美は冷やかした。
亜樹は真っ赤になって顔を横に向けた。「まあ、否定はしないけど」
中等部からずっと本校に在籍している生徒たちが、そのようなミーハーだとは俄かには信じられないが、すっかり冷め切った精神状態でこの研修に参加している真沙美は、初めて自分の力を試してみたいと思い、同時に、男子禁制のお嬢様学校の生徒たちが羽鳥相手にどのような態度を示すのか一つの興味をもって観察してみることにした。




