銀の軌跡と三人の出発
眠れなかった。
エクリシアは天井を見つめたまま、何度か寝返りを打って、それでも駄目だと悟って体を起こした。
宿の寝台は悪くなかった。枕も清潔で、毛布の重さも丁度よかった。眠れない理由は、寝床の問題ではなかった。
あの夜のことを、目を閉じると思い出した。川から引き上げた時の、二人の体の軽さを。間に合わなかったという事実の重さを。師匠ガルドがいつか言っていた言葉——「守れなかった後悔は、守ると誓い直す燃料にしろ」——を、暗闇の中で何度も繰り返していた。
廊下に出た。
宿の中は静まり返っていた。他の客の気配も、宿の人間の気配もなかった。窓の外では虫が鳴いていて、遠くで梟が一度だけ鳴いた。
ランプも灯さずに廊下を歩いていると、突き当たりの窓のそばに人影があるのが見えた。
思わず、足が止まった。
月が出ていた。雲一つない夜空に丸く白い月が高く上がって、その光が窓から差し込んでいた。その光の中に、人が立っていた。窓に背を向けるでもなく、窓枠に寄りかかるでもなく、ただ真っ直ぐに外を向いて、夜空を見上げていた。
銀色が、動いた。
膝の下まで届く長い髪が、夜風を孕んで揺れた。一本一本が意思を持っているかのようにしなやかに流れ、男の背を伝いながら、溶け出した水銀のような重みのある光沢を放っていた。
雲間から降り注いだ月光が白銀の髪に吸い込まれ、一斉に逆光を浴びたように白く発光する。無機質でどこか人間離れしたその輝きは、月光を一身に集めることで輪郭を幽玄かつ危うい美しさで際立たせていた。毛先が揺れるたび、夜空を流れる星の尾のように銀の粒子が闇の中に溶け込んでは消える——その幻惑的な光景が繰り返されていた。
「……わあ」
声が漏れた。止める間がなかった。
その声でアステリアが振り向いた。月光を正面から受けた顔が、こちらを向いた。赤い目が、廊下のエクリシアを捉えた。
エクリシアは一瞬固まって、それから窓を開けて外に飛び出した。
宿の外壁沿いの細い通路に着地して、アステリアがいる窓の真下に回り込む。彼が窓から顔を出してこちらを見下ろした。
「アステリア!」
名前を呼びながら走り寄った。我ながら犬みたいだなと思ったが、足は止まらなかった。
「すっげー綺麗だな!」
「……月が、か?」
アステリアが窓枠に肘をついて、わずかに首を傾けた。
「お前だよ、アステリア!」
「……私?」
眉が寄った。訳が分からないという顔だった。エクリシアは構わずに続けた。
「月光でお前の髪がキラキラしてて、すっげー綺麗だったんだ。銀髪って珍しいよなぁ。いいもん見れたぜ」
打算も照れもなかった。ただ綺麗だと思ったから言った。それだけだった。アステリアがどう受け取るかより先に言葉が出ていた。
それからエクリシアの目が、アステリアの髪に飾られた花を見つけた。昼間から挿さったままになっていた、深い赤のルベリアだった。
「そういえばさ、その花と目の色、同じなんだな。似合ってるぜ、それ」
アステリアの表情が、微かに変わった。
眉が寄るより先に、何か別のものが目の奥を通り過ぎた。感情というより、記憶に近いものが。次の瞬間には俯いていた。顔が下を向いて、銀髪が前に流れて、表情が隠れた。
「どうした?まだ傷が痛むか?」
「……そのようだ」
声が、かすかに違った。質が、変わっていた。エクリシアはそれ以上聞かなかった。何があったかは分からなくても、今は聞く場面じゃないということは分かった。
アステリアが顔を背けた。窓枠の向こう側、月の光の届かない暗がりの方へ。肩が、ほとんど動かないほど小さく震えていた。声は出なかった。泣くという行為を人に見せることを、この人間は許していないのだろうと思った。
だからエクリシアも、見なかった。
外壁に背中をもたせかけて、空を見上げた。月が白かった。星がちらちらしていた。虫の声が遠くから来ていた。風が通るたびに、頭上の窓から銀色が揺れる気配がした。
どれくらい経ったか分からなかった。気配が落ち着いてきたのを感じて、また窓を見上げた。
「これから行くところないならさ」
アステリアがこちらを見下ろしていた。目が赤かった。目の縁がわずかに赤みを帯びていたが、声はもう静かに均されていた。
「俺と一緒に来る?」
「一緒に……?」
「俺、いろんなとこ旅してんだ。困ってる人を助けたり、好き勝手やる機構を懲らしめたりな」
アステリアの目が、かすかに動いた。
「つまり、お前と一緒に行けば、自ずと機構にも出くわすということか」
「復讐するんだろ?力になるぜ」
月光がエクリシアの顔に当たっていた。笑みが、唇に浮かんでいた。作った笑みではなかった——こういう時に自然にそうなる顔だった。その笑みのまま、すらりと手を伸ばしてアステリアの銀髪を一筋、掬い上げた。月明かりの中でその一筋が光った。
アステリアの口端が、上がった。
わずかな動きだったが、確かに上がった。
「同行しよう」
自分の部屋に戻ると、胸の中に何かが飛び込んできた。
「アステリア!」
フォリアだった。翅を震わせて、小さな体でアステリアの胸に頭を押しつけてきた。水滴が、衣服に転がった。
「フォリア……!?無事だったのか!」
「慌てて追いかけて来たの!貴方がいなくなったら私どうしたら……」
声にならない感情の塊が、直接流れ込んできた。フォリアはいつもそうだった。言葉より先に感情が来た。アステリアはその小さな体を、手のひらにそっと乗せた。丸い頭を、指の腹で静かに撫でた。
「すまない。心配かけた」
フォリアが翅を畳んで、手のひらの上で落ち着いた。それから顔を上げて、先程とは違う色合いの感情を送ってきた。伝えたいことがある、という気配だった。
「そういえばね、アクエル達が忙しなかったでしょ?海の結界が壊れかけていたからだと思う」
「海の結界……?」
「アビサル族がナイアルクっていう巨大なモンスターを海の底に封印したの、何百年も前に」
「アビサル族?ナイアルク?なんのことだ?」
「私たち精霊と仲良くしてた古代民族。みんなナイアルクに殺された」
アステリアは黙って聞いた。窓の外では月が西へ傾きかけていた。フォリアの声——正確には感情とイメージが混ざり合ったもの——が続いた。
「人間がナイアルクの封印周辺に蓄積したアビサル族の魔力に誤って掘削器具を打ち込んでしまったらしいの。それで圧縮魔力が解放されて爆発事故が発生、地上まで衝撃が伝わり村の建物が倒壊して、封印が緩み始めたってアクエルが言ってた」
「そういえば、数日前から見慣れない者たちが村と遺跡周辺をうろついていたな」
「その人達で間違いないと思う。……なんでそんなことしたのか理由はわかんないけど」
アステリアの目が、細くなった。胸の中で何かがゆっくりと固まっていく感触があった。
「機構の連中か……」
「私、アクエル達が心配だから一旦戻るけど、何かあったらすぐ呼んでね!」
「……呼ぶ?」
「心の中で唱えて。どこにいても駆けつけるから」
「テレパシーでも送れと?そんな力、私にはないが」
フォリアがにっこりとした。言葉ではなく、暖かみのある感覚が手のひらから伝わってきた。
「大丈夫。私達はずっと繋がっているから」
よく分からなかった。しかしフォリアがそう言うなら、そういうものなのだろうと思った。長年の付き合いの中で、フォリアが嘘をついたことは一度もなかった。
「わかった」
フォリアが翅を広げた。窓の隙間から夜風が入り込んで、その小さな体を外へ連れていくように吹いた。
フォリアが振り返って、手のひらほどの大きさの笑顔を向けてから、夜空の中へ消えた。きらきらとした水滴の軌跡だけが、しばらく窓の外に残って、それも風に消えた。
アステリアは窓を閉めた。月が傾いた夜空を、少しの間見てから、寝台に横になった。
翌朝、ルミナリアに話した。
朝食の席で、エクリシアの話と、これからの方針と、機構についてフォリアから聞いた断片を、簡単にまとめて伝えた。ルミナリアは黙って最後まで聞いて、食器を置いた。
「私はエクリシアについて行こうと思う。ルミナリア……お前は、無理して来なくていい」
「何言ってるのよ」
即座だった。迷いが欠片もない声だった。
「私も行くわよ!」
「危険な旅になるぞ」
「エクリシアにお兄ちゃんを任せておけないもの!」
向かいの席でエクリシアが噴き出した。
「ははっ、決まりだな」と笑いながら立ち上がって、二人の姿を上から下まで見た。川に飛び込んで、泥と血に汚れたままの服だった。
昨夜、傷の手当てで精一杯で、着替えまで頭が回らなかった。
「行くか!……と、その前に服を用意しないと」
エクリシアが苦笑しながら言って、二人を連れて宿を出た。
服屋の扉を開けると、店の中から初老の男が顔を出した。カウンターの向こうで帳簿に何か書き込んでいた手が止まった。
「おや、エクリシアじゃないか!どうしたんだ?」
「この二人に服を買ってやりたくて。魔法と物理の耐久性がある丈夫なやつちょーだい!」
「はいよ!」
店主が元気よく返事をして、店の奥へと消えた。布を捌く音と、棚を引く音が奥から聞こえてきた。
エクリシアが店内をぶらつきながら、吊るされた服を一枚取ってアステリアに合わせた。
「これなんていいんじゃね?」
「エクリシア、こんな上質な物を買ってもらう訳にはいかない」
「そうよ。自分の物は自分で買うわ」
「いいって。ここの店主と仲がいいから多少値引きしてもらえんだ。なっ?」
エクリシアが振り返って店主に向けて笑顔を向けると、戻ってきた店主が困ったように頬をかいた。
「まぁ、エクリシアには世話になってるからな〜。いいぜ、好きなの持って行きな!」
「やりぃ!」
エクリシアが嬉しそうに声を上げて、積み上げられた服の中から手際よく選び始めた。
アステリアには黒を基調に金の装飾が入ったものを。ルミナリアにはシャープで動きやすい、戦いに適した一揃えを。体格を一目見ただけでサイズを判断する目が、なかなか確かだった。
試着を終えた二人が出てきた。
エクリシアが目を細めた。
「お、いいじゃんいいじゃん!似合ってんぜ、二人とも!」
「すごく動きやすい!」
ルミナリアがくるりと一回転してみせた。
「ああ……そうだな」
アステリアが答えながら、自分の胸元をちらりと見た。開きが思ったより大きい。気になることは気になったが、機能面では申し分なかった。文句をつける理由としては弱かった。結局何も言わなかった。
「それじゃコレにすっか!改めて、よろしく頼むぜ」
エクリシアが二人に向けて言った。蒼い目が、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「ああ、よろしく」
「よろしくね!」
店の外に出ると、朝の光が石畳に落ちていた。風が通って、アステリアの銀髪を揺らした。頭の上では、昨夜から挿さったままのルベリアが、朝日の中で深く赤かった。
三人が歩き出した。
それが、始まりだった。




