『俺』が死んで、『私』が生まれた夜
夢の中では、夏だった。
空が高く、光が白く、草の匂いがした。幼いアステリアは村外れの草地に座って、空中の一点に向かって話しかけていた。
言葉というより、感覚のやり取りに近いものだった。フォリアが目の前でくるくると回りながら、水滴をきらきら散らしていた。その光の粒を目で追ってから、足元の草花に視線を落として、また何かを伝えた。草が、微かに揺れた。
「あいつ、また一人で喋ってるぞ」
声がした。振り向かなかった。振り向く必要がなかった。いつもそこにある声だったから。
数人が集まってこちらを見ていた。気味悪そうな顔をしていた——それも、いつものことだった。
「花の声が聞こえるって言ってたぞ」
「花が喋るわけないじゃん。本当変わってるよな」
「どうせ嘘だよ。おかしなこと言って気を引こうとしてるんだ」
口々に言った。アステリアは答えなかった。答えることに意味を見出せなかった。花の声は聞こえる。それは事実だった。事実であることを、言葉で証明する方法が分からなかった。
一人が地面から石を拾い上げた。
それが飛んできた時、アステリアは避けなかった。避ける間がなかったというより、まさか石を投げてくるとは思っていなかった。腕の外側に当たって、鈍い痛みが走った。
「痛ッ……!」
笑い声が来た。「ナイス〜!」と誰かが言った。
「石の声は聞こえねーのかよ?」
「お得意の不思議な力で避けてみろよ!」
次の石が来た。腕でガードした。また来た。今度は肩に当たった。笑いながら石を拾い、笑いながら投げる——その顔を見ることが、石が当たる痛みよりも、どこか奇妙に遠かった。どうしてこの人たちはこういうことをするのだろうと思いながら、腕で顔を庇った。
突然、一人が悲鳴を上げた。
「ぎゃっ!」
「頭に何か当たったぞ!?」
石をひとつ持ったまま、子どもが頭を押さえてきょろきょろしていた。その周辺の空中で、フォリアが仁王立ちならぬ仁王浮きをしていた。翅をばたつかせて、小さな体で体当たりした直後の顔をしていた——満足そうな、しかしまだ怒っている顔だった。
(フォリア……)
声に出さずに呼んだ。フォリアがこちらを見た。やった、という顔をしていた。
「おまえ何かしたのか!?」
一際大柄な少年が、大股でこちらへ向かってきた。背が高く、肩幅があった。胸倉を掴まれた。殴ろうと腕が上がった——。
何かが飛んできた。
少年の頭に当たって、ぼんっと跳ね返った。サッカーボールだった。少年が悲鳴を上げて頭を押さえた。
「くだらねーことやってんなよ」
声がした。
ボールを小脇に抱えた子どもが立っていた。日焼けした顔に、短い髪。アステリアより少し年下に見えた。しかし立ち方が違った——ここにいる誰とも、何かが違った。子どもたちを睨んだその目が、アステリアの方を向いた。
「大丈夫か?」
手が差し出された。
アステリアは、その手を見た。見て、躊躇した。差し出された手というものを、これまでの経験がうまく処理させてくれなかった。受け取り方を知らなかった。
少年は待たなかった。気にした様子もなく、アステリアの手首を掴んで歩き出した。後ろで子どもたちがギャーギャー騒いでいたが、一度も振り返らなかった。アステリアも振り返らなかった——振り返る必要がないと思ったのは、この少年に引っ張られていたからかもしれなかった。
人気のない場所まで来て、少年は手首を離した。
「俺、ヴァルってんだ!よろしくな、アステリア」
「……なんで名前を」
「お前有名だもん!変わった奴だって」
変わった奴。その言葉が、またいつもの言葉として来るかと思った。しかし少年——ヴァルの声には、揶揄する響きがなかった。ただ事実として言っていた。
「花の声聞こえるって、本当?」
来た。どうせ次はそこだと思った。馬鹿にされる。気持ち悪がられる。それがいつものことだった。
「……ああ」
それでも、嘘をつく気にはなれなかった。こくんと頷いた。
ヴァルの目が輝いた。
先ほどまでとは全く違う光り方をした。顔全体が明るくなった。口が開いた。
「俺んち、花屋なんだ!花の声聞いてみてくれよ!」
花咲く笑顔、とはこのことか——と、幼いアステリアは思った。
言葉を持たない感想だったが、確かにそう思った。こんな顔をする人間がいるのかと、少し驚いていた。
目が、覚めた。
天井があった。木の天井だった。どこかの建物の中にいた。体の各所に鈍い痛みがあった。消毒の匂いがした。包帯の感触が腕と肩と腹にあった。
声が聞こえた。ルミナリアの声と、男の声が、低く真剣に言葉を交わしていた。意識が覚醒しきる前から、反射的にそちらへ顔を向けた。
男がいた。
黒髪だった。整った顔立ちをしていて、体格がよく、アステリアより少し年下に見えた。傍らに蒼く光る剣を立てかけていた。金と青の装飾が施された黒い装備が、薄暗い室内でも目を引いた。その顔を見た瞬間、意識より先に体が動いた。起き上がった。腹の傷が引き攣ったが、構わなかった。男に向かって腕を伸ばして、抱きしめた。
「ヴァル!!」
「うわあっ!?」
男が上ずった声を出した。
「無事だったのか。心配させるな、悪い子だ」
「えぇっ!?あの、ちょ……」
「お兄ちゃん!その人はヴァルじゃないよ!」
ルミナリアの声が来た。
アステリアは腕の中の男を見た。
似ていた。確かに似ていた。しかし、違った。ヴァルよりいくつか年上に見えた——いや、顔立ちの系統が近いだけで、別人だった。体格が一回り大きかった。完全なる、人違いだった。
じわじわと、頬に熱が上がってきた。
「す、すまない……」
腕を解いて、距離を取った。アステリアが赤面するのは珍しいことだったが、この状況でそれを気にする余裕は本人にはなかった。
男は困った顔をしていたが、笑いをこらえた様子でもなく、ただ穏やかに言った。
「いや、いいんだ。まだ混乱してるだろうしな」
それだけ言って、一度仕切り直すように息を吐いた。
「俺は、エクリシア・アルゼリウス」
「……アステリア・マッグフォードだ」
「妹のルミナリア・マッグフォードよ」
「兄妹なのか?あんまり似てないな」
「私たちの親は再婚してるの。お兄ちゃんはお母さん、私はお父さんの連れ子なの」
「ああ、どうりで——」
エクリシアが頷きかけて、すぐに表情を変えた。笑顔が消えた。真剣な顔になったと思ったら、深く頭を下げた。勢いがあった。
「悪かった!!守れなくて!!」
「……」
「遠目から機構がどこかへ行くのが見えて追いかけたんだけど、間に合わなかった。お前達を川から引き上げるのが精一杯だった……」
アステリアは答えなかった。
視線が、下に落ちていた。膝の上の自分の手を見ていた。包帯が巻かれていた。白い布が、清潔に巻かれていた——エクリシアが巻いたのだろうと、どこか遠いところで理解した。
「貴方のせいではない」
声は、静かだった。抑えた静かさではなく、感情がどこか別の場所へ移動してしまったような、質の違う静けさだった。
エクリシアが顔を上げた。アステリアはまだ下を向いていた。
「……まだ、息は止まっていないな」
呟くように言った。独り言に近い声量だった。しかしそこに込められているものを、ルミナリアは聞き取った。眉を寄せた。
「……お兄ちゃん?」
「これほどの規模を動かして仕留め損なうとは」
アステリアの声が続いた。低く、均一で、温度の変動がなかった。
「あの大企業も存外、大雑把な組織のようだ」と言った。
ルミナリアがエクリシアを見た。エクリシアが微かに眉を動かして、アステリアを見た。
「生憎だが、殺す唯一の好機を、奴らは逃した」
言葉の選び方が変わっていた。口調が変わっていた。朝と夜のように、切れ目なく、しかし確かに変わっていた。
「これからは『私』が、あの傲慢な牙城を切り裂く、見えない破片になる番だ」
(……『私』?)
ルミナリアの口が、小さく動いた。声にならなかった。
アステリアが、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。エクリシアと目が合って、ルミナリアと目が合った。その目の色は変わっていなかった——赤いままだった。
しかし、その奥にあるものが違った。さっきまでと違った。夢の中の、草地に座って花の声を聞いていた子どもと、今ここにいる人間が、同じ顔をしているとは信じがたいほど、その目は冷たく、静かで、深く凍っていた。
「見せかけだけの巨大な砂の城だ」
口元は動いていた。声は出ていた。しかしそれが誰のものかを、ルミナリアはうまく理解できなかった。
「どこから崩せば最も美しく瓦解するか、じっくりと品定めさせてもらおう」
沈黙が落ちた。
エクリシアは何も言わなかった。言える言葉を、この瞬間には持っていなかった。ルミナリアは唇を結んで、膝の上で手を握った。握った手が、微かに震えていた。
あの頃の彼が死んだのは、この夜のことだった。
村が燃えた夜に、ヴァルが死んで、アルベルが消えて、そしてアステリアも——『俺』のままでいたアステリアも、静かに、誰にも気づかれないままに、死んだ。
『私』は、その灰の上から立ち上がった。




