ルベリアが、燃える夜に
走りながら、異変を感じた。
足裏が伝えてくる地面の感触が、普段と違っていた。石畳を踏むたびに微かな振動が上がってきていた。草を踏んでいた時からそれはあったのかもしれないが、走ることに意識を向けていたアステリアが気づいたのは、村の外れの道に踏み込んだ直後だった。
フォリアが後ろから追いかけてきている気配があった。翅の音が、いつもより必死な響きを持っていた。
村の入り口が見えた瞬間、地面が来た。
縦に揺れた。横に揺れた。どちらでもない方向に、全てのものが同時にずれた。アステリアの体が石畳の上に崩れ落ちて、両手をついた。膝が石に当たった痛みが走ったが、起き上がろうとしてまた揺れに押された。立っていられなかった。
周囲の建物が軋む声を上げていた。木材が裂ける音、石が崩れる音、何かが倒れる音——音という音が一度に来て、その全てに人の悲鳴が混じっていた。
(地震……!?)
いや、違う。地震というものを知っていた。この村でも年に一度か二度は揺れることがあった。しかしそれとは質が違った。揺れの始まり方が、地中で何かが爆発したような——下から突き上げるような衝撃に近かった。
大地の声が、叫んでいた。
言葉ではなく、ただ激烈な痛みのような何かが、アステリアの感覚の奥底を貫いていった。
揺れが収まる前に、立ち上がった。
膝の痛みは無視した。石畳に手をついて体を起こして、走った。村の中心部へ。悲鳴の方へ。炎の匂いが来た——煙ではなく、焼けた木材と布と、もっと嗅いではいけないものが混じった匂いが。
角を曲がった瞬間、目に飛び込んできたものを、最初はうまく認識できなかった。
戦闘服だった。見慣れない格好をした人間が、複数いた。手に銃を持っていた。そして村人が走り、倒れ、逃げていた。逃げきれずに——。
全部を見た。見てしまった。
石畳の上に倒れている人がいた。動いていなかった。アステリアの知っている顔だった。肉屋の老爺の顔だった。呼吸をしていなかった。
胃の底から何かが上がってきそうになった。しかし足を止める暇がなかった。走りながら状況を処理した。戦闘服の人間が銃を持って村人を撃っている。建物が倒壊している。炎が上がっている。炎は一箇所ではなかった。地震による倒壊で火の粉が飛んだのかもしれなかったし、誰かが意図的に火を放ったのかもしれなかった。どちらにしても、村が燃え始めていた。
小さな影が視界の端に映った。
五歳ほどの少女だった。転んだ。石畳の上で膝を打って、起き上がれずにいた。泣いていた。声が出ないほど泣いていた。
その少女に向かって、銃口が向いた。戦闘服の男が引き金に指をかけていた。躊躇する様子はなかった。
アステリアの体が、思考より先に動いていた。
少女と銃口の間に立ちはだかった。足を踏ん張って、右手を前に突き出した。魔力が手のひらに集まって、空気が震えた——防護壁が展開した。銃声が来た。弾が壁に当たって弾かれた。少女が体を縮めて泣き声を上げた。
「早く逃げろ!」
低く、しかし届くだけの声量で言った。少女が顔を上げた。アステリアと目が合った。アステリアは少女の方を見ずに前を向いたまま、もう一度言った。「走れ」と。
少女が立ち上がる気配がした。石畳を蹴る小さな足音が遠ざかっていった。
「何者だ、貴様ら。何故こんな事をする」
銃を持った男と向き合って、声に出した。言葉遣いを整えている余裕はなかった。男は答えなかった。代わりに、アステリアの目が男の胸元に向いた——戦闘服の左胸のあたりに、文字が刺繍されていた。
アストラル総合機構。
「機構……!?何故……」
知っていた。世界中が知っていた。魔法資源の管理から国家間の治安維持まで、この世界のあらゆるインフラを束ねている巨大組織のことを。産業も政治も軍事も、その多くをこの組織が動かしていた。各部門の統括官は国の大臣に匹敵する権限を持ち、グランシェルの街の中心には超高層の本社ビルが聳え立っている——そういう組織のことを、アステリアは知識として知っていた。
しかし、この村に来る理由が分からなかった。エルダーヴェル村は辺境の小さな村だった。機構が目をかけるような場所ではなかった。
「くっ……」
考えている間に、周囲の気配が変わった。気づけば戦闘服の男が一人ではなくなっていた。三方向から近づいてくる気配があった。アステリアは一歩引いて、足の重心を変えた。
右手に魔力を集中させた。
火炎魔法は詠唱なしで来た——アステリアの魔法はいつもそうだった。炎が右手から展開して、前と左前の兵士を飲み込んだ。悲鳴が上がった。逃げる暇も構える暇も与えなかった。熱波が周囲に広がり、アステリアの銀髪が後ろへ流れた。
その時、頭の上で何かが光った。
アステリアは気づかなかった。頭に挿したルベリアが、深い赤から更に深い——熾き火のような輝きを放って、一瞬だけ鮮烈に光ったことを。周囲の炎の中に溶けて、誰が見ても炎の反射と思ったかもしれなかった。あるいは、そこにいた全員が今は炎に気を取られていて、花の光を見ていなかったかもしれなかった。
炎が収まった後、兵士たちはいなかった。
しかし火はまだ、あちこちにあった。
「ルミナリア!!ヴァル!!父さん!!」
声を張り上げた。炎と煙の中で、声がどこまで届くか分からなかった。煙が目に染みた。袖で顔を覆いながら、声を頼りに進もうとした、その時だった。
「お前……その花……」
後ろから来た声だった。
振り向いた。煙の中に、人影がいた。金髪だった。遺跡にいた男だった。白い服が煙と炎の光の中で奇妙に映えていた。
アステリアは即座に距離を測った。魔力はまだある。必要があればすぐ動ける。
「……何者だ」
問い返した。男は答えなかった。その代わり、目がアステリアの頭の上を見ていた。ルベリアを見ていた。表情が、奇妙だった。恐怖でも怒りでもなく、何か——長い間探していたものを見つけたような、昂揚と確信が混ざり合ったような、そういう顔をしていた。
「特定の魔力に反応し、光る花……ようやく、見つけた」
呟くような声だった。しかしその静けさの奥に、何か圧縮された感情が詰まっているのが分かった。
アステリアは答えなかった。男の目を見ていた。蒼い目だ。
こちらを見てはいるが、アステリアという人間を見ているのではなく、彼の中にある何かを見ているような目だった。
「アステリアー!」
「お兄ちゃーん!」
声が来た。
煙の中から走ってくる二つの影が見えた。ヴァルだった。ルミナリアだった。二人とも無傷ではなかった——ヴァルの額に細かな傷があり、ルミナリアの膝が石畳で擦れて汚れていた。しかし走れていた。動けていた。
アステリアの全身から、気づかないうちに入っていた力が一度抜けた。
二人が駆け寄ってきた。ルミナリアがアステリアの腕を掴んだ。
ヴァルが「よかったー!!」と息を切らしながら言った。
アステリアは答える代わりに、一度だけ二人の顔を確認した。怪我の深さ。意識の明瞭さ。立っていられるかどうか。全部を一瞬で見た。
「ゼファー様!!」
高台から声が飛んできた。
見上げると、高台の縁に数人の兵士が立っていた。銃を構えていた。金髪の男——ゼファーと呼ばれた男——に向けてではなかった。アステリアたちに向けていた。
「やめろ!!撃つな!!」
ゼファーの声が飛んだ。鋭く、命令の形をしていた。しかし高台の兵士たちはその声が届かなかったのか、聞こえなかったのか——銃声が来た。乱射だった。一発ではなく、連続して。狙いが定まっているわけでもなく、とにかく弾をばらまくような撃ち方だった。
ヴァルが動いた。
アステリアより先だった。ルミナリアより先だった。花屋の息子が、魔力も武器の心得も何も持たない十七歳が、思考より速く体を動かした。アステリアとルミナリアの背中に両手をかけて、全力で押した。二人が物陰へと飛び込んで、石壁に背中をぶつけた。
石壁の向こうから、複数の音が来た。
肉に何かが当たる音というのは、知識として知っていたが、実際に聞いたことはなかった。しかしその音が何なのかを、アステリアの体は瞬時に理解していた。
「ヴァル……!!」
物陰から体を出した。出ようとした。ルミナリアが腕を掴んできた。
「だめ、お兄ちゃん!!今出ると危ない!!」と叫んでいた。
ヴァルが石畳の上にいた。
倒れていた。顔が、こちらを向いていた。目が、アステリアを見ていた。口元が、動いた。笑顔だった——にひひと笑う、あの顔だった。今日の昼間と全く同じ顔が、今ここで、石畳の上で、そういう形をしていた。
「ヴァル────!!!!!!!」
ルミナリアの手を振り払って、物陰から出た。一歩踏み出した瞬間に、肩に衝撃が来た。続いて足に来た。体が傾いた。膝が石畳に落ちた。痛みが来た——来るはずだったが、痛みより先に、ヴァルの顔が視界を占めていた。
「お兄ちゃん!!」
ルミナリアの声が来た。走り寄ってくる足音が来た。石畳に落ちた血が、アステリアの視界の端に見えた。自分のものだと分かるまでに、少し時間がかかった。
「アステリア、ルミナリア!!」
声がした。アルベルだった。煙の中から走ってきた。顔が青かった。二人を見て、ヴァルを見て——その全てを一瞬で見て、何かを呑み込む顔をした。
「早く逃げなさい!私が時間を稼ぐ!」
「時間を稼ぐって……」
ルミナリアが聞き返した。
「そんな、お父さん——」
「早く行きなさい!!」
アルベルの声が裂けた。子どもたちに向けてこれほどの声を出したことが、今まで一度もなかった。
ルミナリアが体を固めた。アステリアは膝をついたまま、ヴァルのいる方を見ていた。
「ヴァル……ヴァル……!!」
声が出た。抑えた声のつもりだったが、途中で何かが欠けた。ヴァルに触れることができなかった。声を届けることができなかった。
名前を呼ぶことしか——名前を呼ぶことしかできなかった。
アルベルが、アステリアの腕を引いた。ルミナリアの手を取った。川の方向へ押しやった。足がもつれながら、アステリアは立ち上がった。走った。走りながら振り返った——父が、兵士の方へ向かっていくのが見えた。手に石を握っていた。武器にもならないようなものを握って、ルミナリアそっくりの顔で、躊躇なく兵士の前に出ていった。
「お父さん!!」
ルミナリアが叫んだ。アステリアが妹の腕を掴んだ。走った。走らなければならなかった。走ることしかできなかった。
川が見えた。水音が聞こえた。しかし後ろから足音が来ていた。剣を持った兵士が追いかけてきていた。川縁の石の上で立ち止まって、ルミナリアを背にして魔力を集め始めた——その瞬間、肩に衝撃が来た。続いて胸に。腹に。高台からの銃弾だった。
体がよろめいた。
前のめりになるところをルミナリアが支えようとした、その瞬間に、追いついてきた兵士の剣がルミナリアの腹を掠めた。薄い、しかし確かな切り傷の深さがあった。ルミナリアが小さく呻いた。
遠くで、誰かが息を呑んだ気配があった。
金髪の男、ゼファーが遠くからこちらを見ていた。
アステリアには今、選択肢が一つしかなかった。
ルミナリアを抱きかかえた。負傷した腕で、体重を預かった。川面を見た。流れは速くなかった。深さは、対岸まで出られる程度のはずだった。
飛び込む直前、水面に目が行った。
水の中に、何かがいた。小さな影が、川底の石の間で丸くなっていた。透き通った水色の体が、ぶるぶると震えていた。星のような光が、怯えるように明滅していた。目が合った——アクエルだった。遺跡の海で暴れていた仲間たちとは別の、この川に一人だけいたアクエルが、アステリアを見ていた。
目が合ったのは、一瞬。
アステリアはルミナリアを抱えたまま、川へ飛び込んだ。水が全身を包んだ。冷たかった。銃弾の傷から血が滲み出るのを感じた。ルミナリアを離さないように腕に力を込めて流れに乗った。
頭の上で、ルベリアの花が水に濡れる。
後ろでは、村が燃えていた。
フォリアが川面の上を飛んでいた。翅に水滴をまとって、二人の後を追って飛んでいた。泣いているのか笑っているのか判別できないような顔をして、ただ飛んでいた。
彼女にとってアステリアは生まれた時から知っている唯一の人間だった。何百年も誰にも見えない存在として生きてきた彼女が、初めて声を届けられた相手だった。
その背中が、炎の光の中で遠ざかっていく。
フォリアは川の上で止まった。翅を止めることなく、ただ浮いたまま、燃える村を見た。それからアステリアが流れていく方向を見た。
小さな体が、震えていた。




