滅びない者たちの花
夕餉の匂いが漂い始める頃合いに、アステリアとルミナリアが家の戸を開けると、先に人がいた。
土間の椅子に腰を下ろして、テーブルに両肘をついて、組んだ指の上に額を乗せるようにして座っていた。アルベルは二人が入ってきた気配に顔を上げて、少し目を細めた。疲れているというより、どこか遠いところを見ていた目が、現実に引き戻されたような顔だった。
ルミナリアが肩から麻袋を外しながら声をかけた。
「お父さん、今日は早いのね」
「ああ。仕事を早めに終わらせたんだ」
アルベルの声は穏やかだったが、いつもより少し低く、速度がゆっくりとしていた。
「……セレニアの命日だからね」と付け加えたのは、どちらに向けてでもなく、ただ口から出てきたというような調子だった。
アステリアの視線が、父の背後の棚に向かった。
木の棚の上に、一枚の写真が置かれている。いつもそこにある写真だった。しかしこの時期だけは、傍に小さな花が一輪添えられる。今日も、白い小花が一本、水を張った小瓶に挿してあった。写真の中の女性は、正面を向いて微かに笑っていた。銀色の髪と、深い赤の瞳。アステリアが自分の鏡を見る時に感じる奇妙な既視感と同じものが、その写真にはあった。
セレニアは——アステリアの、ルミナリアにとっての——母は、この世界の人間の顔をしていながら、どこか別の時間の中から切り取られてきたような、そういう静謐さを持った女性だった。
ルミナリアが一度写真に目を向け、それから台所の方へ歩き出した。
「……そうだったね。ご飯、早く作っちゃうから待ってて」
声は明るく整えられていた。けれどその背中は少し丸く、足音が普段より一歩分軽かった。台所に入る前に扉の陰に消えた妹の後ろ姿を、アステリアはしばらく目で追った。
椅子を引いて、父の斜め向かいに腰を下ろす。テーブルに何かが乗っているわけでもなく、ただ木の目がある。アルベルはまた遠い目に戻りかけていたが、アステリアが座った気配でこちらを向いた。
「父さん」
呼びかけようとして、言葉が続かなかった。何か言うべきことが浮かばなかったのではなく、言葉を使う必要がある場面かどうか測りかねていた。
アルベルは特に急かすこともなく、しばらく黙ってから口を開いた。
「セレニアはとても優しい人だったよ。強くて、穏やかで……」
テーブルの上で指を解いて、組み直す。ゆっくりとした手の動きだった。
「時折、見えない何かと話してるような感じがあったんだ。誰もいない場所で、ふっと目を遣って、口元が少し動いてることがあった。不思議な人だった。誰も気にしないようなものを、全部拾って歩く人だったから」
アステリアの背筋に、気づかれないほど小さな緊張が走った。肩が僅かに引いて、手が膝の上で一瞬だけ固まった。
しかしアルベルはその変化を見ていなかった。写真の方を向いていた。
それからふと、視線が戻ってきた。アステリアの頭の上のあたりを見て、アルベルの顔が緩んだ。
「お前はセレニアによく似ている」
穏やかな声だった。
「彼女はルベリアの花が大好きだったんだ。この時期になると、必ず一本飾っていた——それ、とてもよく似合っているぞ」
忘れていた。頭の上に、まだヴァルが挿していったルベリアがある。アステリアは反射的に手を上げかけて、途中で止めた。似合うと言われることへの照れ臭さよりも、それを今外してしまうことの方が何か違う気がした。
アルベルが写真に向かってもう一度視線を戻す。その横顔は穏やかで、穏やかであるゆえに、奥の方に沈んでいるものを見せてもいた。アステリアは何かを言おうと口を開いた——その瞬間だった。
衝撃が、胸のあたりに来た。
拳大ほどの何かがアステリアの胸に飛び込んできて、衣服を掴んでいる。アルベルには何も見えていない。ただアステリアの体が僅かに揺れて、視線が胸元に落ちた。
葉っぱの翅がある。水滴をまとって淡く光る、丸い体。つぶらな緑の瞳が、真っ正面からアステリアを見上げていた。普段であれば悪戯の一つも仕掛けてくるような顔をしているのに、今は違った。翅が忙しなく震えていた。
(アステリア来て!アクエル達が危ないの!)
言葉というよりも、感情そのものが流れ込んでくるような伝達だった。「危ない」という輪郭だけがはっきりとしていて、それ以上の説明は、フォリアには今できないらしかった。余裕がないのだと分かった。これほど慌てたフォリアを見たことは、アステリアの記憶にほとんどなかった。
椅子を引く音が出ないようにして、立ち上がった。
「父さん、少し出る」
「え、今から?夕飯は——」
「すぐ戻る」
玄関に向かいながら、台所に声をかけた。
「悪い!すぐ戻る!」
「ちょっとお兄ちゃん!?ご飯もうすぐ出来るよ!豚肉のシチュー、お兄ちゃんの好きな奴!」
「後で食う!」
戸を引いて、外に出た。夕暮れは既に終わりかけていて、空の色が藍と紫の間になっていた。石畳に自分の影が薄く伸びていた。フォリアが胸の前から飛び上がり、先に立って飛び始める。翅の動きが速い。アステリアは周囲に人がいないことを一瞬で確認してから、フォリアの後を追って走り出した。
村の外れを抜けると、草の匂いが濃くなった。
人が通る道から外れて、アステリアは草を踏んで進んだ。足元がぬかるみに近い質感になって、磯の気配が混じり始める。村の南側、丘を一つ越えた先に、壊れかけた遺跡がある。子どもの頃から知っていたが、近づかない方がいいと大人たちが言っていた場所だった。
理由は「古い建物だから」と言われていたが、アステリアは昔から、その場所に近づくと大地の声が少し変わると感じていた。
フォリアが遺跡の方角に向かって飛び続けている。
丘の斜面を上りきったところで、遺跡が見えた。
石積みの壁が崩れかけたまま残っていて、かつて屋根があったらしい場所には今は空が通っている。苔が石の隙間を覆っていて、夕闇の中でその緑が黒に変わりかけていた。遺跡の向こうには海があった。エルダーヴェル村の南端にかろうじて接している、小さな湾だった。荒れた日には白波が立つが、今日は穏やかなはずだった。
しかし、穏やかではなかった。
水面が、騒いでいた。
複数の影が水の上に出たり沈んだりしていた。透き通った水色の体。星のような光がちらちらと揺れる。ぷっくりした頬がある。アクエルは何体もいて、水面から体を出しては何かを叫ぶように身を捩り、また水に戻り、また出てくる、その繰り返しをしていた。
アステリアはゆっくりと遺跡に向かって歩を進めながら、海の方に意識を向けた。
(何が起きている……?)
感じ取ろうとした瞬間、それは向こうから来た。
音ではなかった。鼓膜に届く言葉でもなかった。しかし何かが確かに来た——深いところから、圧迫するような声にならない何かが。水の底から押し上げてくるようなもの。異変の気配というより、もっと根の深いところに関わる、何かの軋みのような感触だった。アステリアは無意識に片手を胸に当てて、それから手を下ろした。
その時、気づいた。
遺跡の石壁の傍に、人影があった。
夕闇に溶けるような場所に立っていたため、最初は影が石壁に付いているのかと思った。しかし動いた。こちらに気づいて、向きを変えた。
アステリアは足を止めた。
距離がある。しかし近づく気になれなかった。人影はゆっくりとこちらに歩いてきた。暗い中でも最初に見えたのは、髪だった。金色だった。夕闇の残照の中でも際立つような、鮮明な金の色が、人影の輪郭に光を加えていた。
徐々に近づくにつれて、全身が明らかになっていく。白い服——白を基調とした、整えられた装いだった。金と蒼の刺繍が縁に施されている。どこか遠い場所から来た人間の格好をしていた。エルダーヴェル村の人間ではなかった。
二人は数メートルほどの距離で止まった。
片方は動かなかった。もう片方も動かなかった。アステリアは相手の顔を見た。三十代半ばほどの男だった。整った顔立ちと言えたが、特別に目を引くというよりも、どこにでもいそうなと言う方が近い印象を持たせる顔だった。しかしその目だけは、蒼くて、深くて、今この瞬間だけは、何か非常に強いものを浮かべていた。
男が、口を開いた。
「セレ——」
その先が来なかった。
遠くから、音が飛んできた。
乾いた破裂音だった。一発ではなかった。続いて、悲鳴が来た——女の声、子どもの声、入り混じって、夕闇の中を突き破るようにして届いてくる。方角は、村だった。
アステリアの体が動いた。思考より先だった。
振り返ることもせず、石畳を蹴って駆け出した。丘の斜面を下りながら、悲鳴の方向を確認する。一つではなかった。何かが起きている。何かが村で起きている。フォリアが後ろから追いかけてくる気配があったが、速度を落とす余地はなかった。草を踏んで、泥を蹴って、村の外れの道に出た瞬間、また銃声が来た。
今度はずっと近かった。
男は、動かなかった。
人が去っていった方向を、ただ見ていた。銀色のものが夕闇の中で遠ざかっていくのを、目で追った。金髪の男は表情を動かさなかった。驚いた顔は一瞬だった——「セレ」と言いかけた瞬間の顔は、もう消えていた。
波の音だけが残った。
アクエルたちが水面で騒ぐ音と、遠ざかる銃声と、夜の始まりの静けさが、奇妙に混ざり合って遺跡のあたりに漂っていた。男は動かずに立ったまま、アステリアが消えた方角を、しばらくの間、見続けていた。




