プロローグ
夏の盛りを少し過ぎたというのに、エルダーヴェル村の陽射しはまだ十分に力を持っていた。
広場の端に置かれた石のベンチは、ちょうど大きな栗の木の影に収まるようにして、午後の熱気からわずかに切り離された場所にある。風が吹けば葉擦れの音が降ってきて、光の粒が地面の上で揺れる。アステリアは背を丸めることなくベンチに腰を落ち着けて、膝の上に開いた本のページに視線を落としていた。
石の感触は素材のままに硬く、長く座れば骨に響いてくる類のものだったが、それを苦にした様子もなく、ただ静かに、文字を追っていた。ときおり風が銀色の髪を揺らして、そのたびに木漏れ日が反射して淡く煌めく。ベンチのそばには草が生えていて、その足元にはルベリアの赤い花が点々と咲いていた——この村のどこにでも当然のように根を張っている、見慣れた、しかしいつ見ても目を引く深紅の花だった。
読んでいる本は歴史書の類らしく、紙の端がほんのりと黄ばんでいた。アステリアが本のページを繰る指先は細く、しかし関節のあたりにかすかな傷跡が刻まれている。村の穏やかさの中に、それだけがわずかにそぐわない。本人はとうに気にも留めていないらしく、視線は静かに活字の上を泳いでいた。
広場の向こうからは子どもたちの声が聞こえていた。誰かが笑い、誰かが叫んでいる。犬が吠え、鶏が鳴く。村の夏の午後は音に満ちていたが、このベンチのあたりだけは穏やかに区切られていて、アステリアはその境界線の内側に静かにいた。
それが突如として、背後から崩れた。
重みが肩に飛びついてきた瞬間、アステリアの体が僅かに前へと押し出されたが、倒れるほどではなかった。本から目を上げることもなく、ただ体重の掛かり方と、首筋にかかる息の温度と、衣服を掴む小さな手の力加減を感じた。驚きの色は、面差しのどこにも浮かばなかった。
そういう飛びつき方をしてくる人間を、アステリアはひとりしか知らなかった。
本を閉じて膝の上に置く。それから右腕を後ろへ回して、背中に張りついてくる少年の頭の上にそっと手を乗せた。ざらりとした、少し乾いた、日に焼けた色の短い髪だった。指を緩やかに動かして梳くと、少年がくすぐったそうに首をすくめる気配があった。
「どうしたんだ。ヴァル」
声は静かだった。普段と変わらない低い響きの中に、しかし僅かばかり柔らかな何かが紛れていた。
「見て見てアステリア!今日すごいんだよ!」
背中から離れると思ったらベンチの隣に飛び移って、ヴァルはそのまま腕を大きく広場の方へ向けた。十七歳にしては幾らか童顔の、日焼けした顔に弾けるような笑みを浮かべている。視線の先を追うと、広場の入り口のあたりで荷車が一台、のっそりと止まろうとしているところだった。
荷台に積まれているのは花だった。正確には、花束の束と、鉢植えと、切り花を束ねた包みと——とにかく、あらゆる種類の花が所狭しと積み上げられていた。白と黄と赤と橙と紫が混在して、遠目にもはっきりと分かる色彩の塊が、午後の陽射しの下でむっとするほど存在感を放っていた。
荷車を引いているのはヴァルの父親だった。その後ろを、やや困り顔の母親がついて歩いている。二人とも、どう見ても「少し仕入れすぎた」という顔をしていた。
アステリアは荷車の方を見て、それからヴァルの方を見た。
「これは、随分と華やかだな」
「でしょ!父ちゃんと母ちゃんが今日いっぱい仕入れてきたんだ。俺、荷運び手伝ってて——ねえ、聞こえる?花の声」
唐突な問いだったが、アステリアは特段の戸惑いも見せなかった。少し、間を置いた。目を伏せて、広場の方を向いて、荷台の上で揺れている花の方へ意識を傾けるように、静かにしていた。
草の呼吸というのは、常に聞こえているわけではなかった。意図して耳を澄ませるようにすると、ようやく何かが届いてくる——言葉ではなく、もっと手前のもの。感覚の輪郭だけを持つような、かすかな伝達のようなものが。揺れていた。荷台の上の花たちは揺れていた。移動することのできない生き物が、珍しく動いている景色を通り過ぎていくのを感じている——そういう気配がした。
ふわりと、口元が動いた。笑みとも言えないほど小さな変化だったが、アステリアにとってそれは十分な表出だった。
「ああ。動いてる景色が見れて、楽しいようだ」
ヴァルが目を輝かせた。
「そっかぁ!花は自分じゃ動けないもんな!荷車に乗せてもらったら世界が変わって見えるだろうな。じゃあもっと見せてやろっかな、俺が担いで村中回ってやる!」
「花屋の仕事はどうした」
「荷下ろしはあとでいいよ!」
無邪気という言葉をそのまま人の形にしたような少年だった。にひひ、という擬音が実際に聞こえてきそうな、屈託のない顔だった。
アステリアがこの笑顔を苦手だと思ったことは一度もなかった——ただ、少し、眩しいと思うことはあった。
ヴァルが不意に何かを思いついたように手を叩いた。それから荷台の方へ駆け寄ると、何やらごそごそと探して、一本の花を抜き取ってきた。深い赤。他の花々の中でも一際はっきりとした色をした、村の外周にいくらでも咲いているルベリアの花だった。
戻ってくるなり、ヴァルはアステリアの隣に半ば乗り上げるようにして立ち、その花をアステリアの銀色の髪にさした。少し不格好に、でも真剣な顔つきで。
「これが一番似合うよ、アステリアには絶対」
アステリアは特に動じることなく、ただ自分の頭の上を意識した。
「村に咲いている花だな」
「うん!あのさ、見て見て——アステリアの目の色と同じだよ!すっごい綺麗!」
同じ赤。言われてみれば、と思いながらも、アステリアは視線をわずかに逸らした。自分の眼の色と花の色が同じだと指摘されたことは初めてではなかったが、こういう屈託のない言い方をされると、受け取り方に困る。照れ臭いという感情は日頃あまり持たない方だったが、ヴァルに対しては時折そういうものが顔を出した。
「……こういうのは、俺よりお前の方が似合うと思うが」
「ええ、違う違う」
ヴァルは首を大きく横に振った。
「絶対アステリアがつけた方がいいって。だってさ、俺、この花を見るたびにアステリアの目を思い出すんだよ」
「赤い花なら、どれもそうだろう」
「ううん」
きっぱりとした声だった。十七歳の少年にしては揺るぎない確信の込め方で、ヴァルは首を振った。
「なんでかわかんないけど、ルベリアだけなんだ。他の赤い花を見てもそうじゃないのに、ルベリアを見た時だけ、絶対アステリアのこと頭に浮かぶんだよ。だからたぶん——きっと、アステリアのために咲いてる花なんだ」
理屈はなかった。ただの子どもの思いつきと言えばそうとも言える。しかしヴァルがそれを言う顔は、からかっているのでも、おべんちゃらを言っているのでもなく、ただ純粋に、そう思っていることを伝えているだけだった。
ルベリアは夏でも冬でも咲く花だった。台風が来ても、雪が降っても、踏み荒らされても、翌日には何事もなかったように赤い花弁を開いている。エルダーヴェル村の特産品と言えばこの花のことで、時期になると都市部から観光客が来ることもあった。村の誰もが、この花が簡単には枯れないことを知っていた。しかしその理由を正確に知っている者は、おそらくこの村には一人もいなかった。
アステリア自身も、この花が何から生まれているのかを、この時はまだ知らなかった。
「……大袈裟だな」
口から出てきたのは、それだけだった。けれど数秒の間があって、アステリアは自分の頭の上に手を伸ばした。ルベリアの茎のあたりに指で触れて、落ちないように少し直す。
「……ありがとう。受け取っておこう」
「おう!」
ヴァルは満足そうに両手を腰に当てた。その顔があまりにも晴れやかで、アステリアはもう一度視線を逸らした——今度は明確に、笑みをごまかすために。
広場の向こうから、元気のいい声が飛んできたのはそれからしばらくして後のことだった。
「お兄ちゃーん!」
角を曲がって駆けてきたのはルミナリアだった。ピンク色の髪を後ろで無造作に括って、麻の袋を肩に提げて、息を切らしながら広場に飛び込んでくる。アステリアより頭一つ小さな体が、勢いを殺しきれないまま石畳の上を数歩滑るように止まった。
「あ、ヴァルもいた。こんにちは!」
「ルミー!こんにちは!」
ヴァルが手を振る。ルミナリアも手を振り返して、それからアステリアに向かって麻袋を掲げた。
「お兄ちゃん、頼まれてた薬草、ちゃんと買ってきたよ!薬屋のおじさんが、今日は上等なのが入ったって言ってたから、いつもより少し高かったけど——大丈夫だよね?」
「ああ、構わない。ありがとう」
「えへへ、お安い御用!」
ルミナリアは弾むようにベンチの隣に腰を下ろした。体の近くに座ることを自然にやってのける妹だった。アステリアがそれを遠ざけることは一度もなかった。
ルミナリアの目線がアステリアの頭の上に止まった。
「あ、ルベリア!お兄ちゃん、それ誰につけてもらったの?」
「俺がつけた!」
ヴァルが胸を張った。
「似合うだろ!」
「すっごく似合う!」
ルミナリアが即座に同意して、それからアステリアの顔をじっと見た。
「ね、お兄ちゃん、やっぱり私よりお兄ちゃんの方が顔整ってるの、腹立つんだけど」
「何が腹立つんだ」
「色々!見てよ、ルベリア一本さしてるだけで、なんかこう——絵になってるじゃん。私がやったら単なるお花つけてる人なのに」
「お前が花を挿せば十分に似合うと思うが」
「お兄ちゃんに言われてもあんまり嬉しくないんだよね——ありがとうだけど」
ヴァルがけたけたと笑った。ルミナリアも笑っていた。アステリアは苦い顔とも困り顔とも取れる表情で、少しだけ眉を寄せた。
夏の西日が少し傾いてきていた。栗の木の影が伸びて、ベンチのあたりがいくらか暗くなってきた。それでも、まだ日没には時間がある。
ルミナリアが麻袋をごそごそ探って、小さな紙包みを取り出した。
「そういえばね、帰りに菓子屋さんの前通ったら、今日限りのお試し品って言ってレモンの砂糖漬けくれたんだ。三人で食べよ」
「お、ラッキー!」とヴァルが顔を輝かせた。
「花屋の仕事は」とアステリアが言う。
「あとでいいあとで!」
ルミナリアが三等分した紙包みの一つをアステリアの膝の上に置いた。アステリアはそれを見て、それからルベリアの花を意識した——頭の上で、まだそこにある。受け取ったものを手放す気は、今のところなかった。
レモンの砂糖漬けは、思ったより甘かった。酸味が後から来て、そのバランスが悪くなかった。ルミナリアが「うわ、おいしい」と声を上げ、ヴァルが「お土産で買って帰ろうかな」と呟いた。アステリアは無言でそれを食べながら、西に傾いた光の中で揺れているルベリアの赤を見た。
花の声は、まだ楽しそうに揺れていた。
夕暮れが近くなると、ヴァルは花屋へ戻っていった。「父ちゃんに怒られる前に帰る!」と言いながら走り出して、広場の角を曲がる寸前に一度振り返り、大きく手を振った。アステリアが軽く手を上げて返すと、それを確認して角の向こうへ消えた。
ルミナリアは隣でぼんやりと空を見ていた。
「ヴァル、元気だね」
「ああ」
「いつ見ても元気だよね。ちょっと羨ましい」
「お前も大概だが」
「私は元気なんじゃなくてうるさいんだよ。違うの」
ルミナリアが唇を尖らせた。アステリアはその顔を横目に見て、何も言わなかった。反論しようとして言葉を探し、適切なものが見つからなかったわけでもなく、ただ言う必要がないと判断したのかもしれなかった。
西の空がオレンジと紫の中間色に染まり始めていた。村の屋根が逆光の中で影になって、煙突から細い煙が上がっている。夕飯の匂いが風に乗って流れてきた。焼いた肉の脂と、香草と、誰かの家のパンの焼ける匂い。
エルダーヴェル村の、夏の終わりかけの夕暮れだった。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「今夜のご飯、シチュー作ろうか。昨日からお肉とお野菜、煮込んでおいたやつ」
「ああ。頼む」
「うん」
それだけの会話だった。ルミナリアが立ち上がって、肩に麻袋をかけ直す。アステリアも腰を上げた。閉じたままだった本をわきに抱えて、ベンチを離れる。
足元のルベリアが、夕陽の赤の中で、日中よりも一層深い色をしていた。踏まないように半歩ずれて歩いた。頭の上には、ヴァルが挿していった一輪がまだある。夕風がわずかに花弁を揺らした。
アステリアはそれに触れなかった。ただ、妹の後ろについて、村の細い石畳の道を歩いていった。
夕暮れの光の中で、銀髪に挿された一輪の赤は、遠くからでもよく見えた。
それがこの夜以降、どれほどの意味を持つことになるのか——この時のアステリアには、まだ何も見えていなかった。




