土の精霊と詠唱なしの魔法使い
村に入った瞬間、空気が変わった。
石畳ではなく、踏み固められた土の道が続いていた。道の両脇には畑が広がり、葉の色が濃く、土の匂いが湿って濃密に漂っていた。
夏野菜の季節らしく、トマトやキャベツが畝の間にぎっしりと並んでいる。
遠くで鶏が鳴いて、牛の気配が風に混じった。都市部の石造りの建物とは全く異なる、木と土と草だけで出来ているような、そういう村だった。
「のどかな場所ね」
ルミナリアが空を見上げながら言った。雲が少なく、青が広かった。
「ここの野菜と果物は、甘くて美味しいって評判なんだぜ」
エクリシアが答えた時、道端で草むしりをしていた老婆が顔を上げた。
三人の姿を見て、特に警戒する様子もなく立ち上がり、畑の方へ歩いていったかと思うと、もいできたばかりのトマトを三つ持って戻ってきた。皮が張って、日差しを受けてまだほんのりと温かかった。
老婆は「旅人かい?どうかね、食べてみるかい?」と彼らに告げた。
受け取って、かじった。
果汁が口の中に広がった。酸みより甘さが先に来て、後から青くさい瑞々しさが鼻に抜けた。アステリアは咀嚼しながら、思わず目を細めた。
「本当だな」
「だろ?」
エクリシアが満足そうに頷いた。
アステリアがふと、畑の方に目をやった。
何かが動いていた。葉の陰で、葉ではない何かが。視線を定めると、キャベツの葉に半分埋まるようにして、丸い体が顔を出していた。頭から芽が生えていた。ほっぺが赤く、小さな葉っぱを胸元に大事そうに抱えていた。ずんぐりとした体が、土の色をしていた。
「……?」
ルミナリアが隣で首を傾けた。
「お兄ちゃん?」
答えずに、アステリアは畑の方へ歩き出した。エクリシアとルミナリアがその背中を見ていたが、アステリアは構わなかった。
キャベツの葉を一枚めくると、その奥でずんぐりした体がびくりと震えた。
「お前か」
声をかけると、その生き物が恐る恐る顔を上げた。まん丸の目がアステリアを見た。驚いた顔だった。
「おいらが見えるの〜?」
「ああ。お前はなんていうんだ?」
「おいら、テラ」
アステリアが手のひらを差し出した。テラがしばらく迷うように体を左右に揺らしてから、ぴょんと飛び乗った。思ったより軽く、土の匂いがした——腐葉土と根の入り混じった、深い土の匂いが、小さな体からふわりと漂った。
「おいらが見えるなんてオメー何者だぁ?」
「何者でもないさ。どこにでもいる一般人だ」
「普通は見えないんだけどなぁ……」
テラが首を傾けて、頭の芽をぷるぷると揺らした。アステリアは手のひらの上でその様子を観察してから、聞きたかったことを口にした。
「……それよりも、ここの作物が良いのはお前のおかげなのか?」
「そうさぁ〜。おいらは土のエレメンタルだからなぁ〜」
テラが誇らしげに胸を張った。抱えていた小さな葉っぱがずれそうになって、慌てて抱え直した。その仕草が妙に愛らしかった。
「お前たちはどこにでもいるのか?」
「それぞれ住処にしてる所があるぞぉ。おいらは土だけど、水のエレメンタルなら海や湖もしくは川だぁ。風なら渓谷、雪なら雪国だぞぉ」
「なるほど……」
アステリアは手のひらの上のテラを見ながら、川の水面で目が合ったアクエルのことを思い出した。
あの震えていた小さな体を。深く息を吸って、記憶を奥に押し込んだ。
少し離れた場所で、エクリシアとルミナリアが並んでアステリアを見ていた。
彼が畑の中央で立ち止まり、自分の手のひらに向かって話しかけていた。身振りもあった。時々頷いていた。
手のひらには何もなかった——エクリシアの目には、そう映っていた。
エクリシアがルミナリアの方へ顔を向けて、声を潜めた。
「アステリアっていつもこんな感じなの?」
「こんなって?」
「こう……何もないところを眺めてたり、自分の手と話したり」
ルミナリアが少し考える顔をした。
「うん……声が聞こえるだとか言って、花と話してたりするわよ」
エクリシアは三秒ほど沈黙した。
「………マジか」
常識人かと思っていたが、結構な電波かもしれない。そう思いかけた瞬間、アステリアが畑から戻ってきた。歩き方はいつも通りだった。表情もいつも通りだった。
「すまない。待たせたな」
「お、おう」
エクリシアが思わず目をそらした時、視界の端に何かが入った。
道沿いの家の前に、小さな花壇があった。その前で、幼い女の子が母親と並んでしゃがみ込んでいた。女の子の肩が、丸く落ちていた。
「おはな、げんきないの。ママ、どうして?」
「さぁ……きっともう寿命なのよ」
母親の声には、困った優しさがあった。花壇の花は確かに元気がなかった。葉が黄ばんで、茎が細く垂れていた。
エクリシアの頭の中で、何かが繋がった。
隣のアステリアの肩に腕を回した。
「ルミナリアから聞いたぜ。お前、花と話せるんだって?」
「話せるというか、声が聞こえるくらいだ」
「なら、ちょうどいいじゃん。あの子、花が元気ないって落ち込んでるぜ。助けてやれよ」
「お、おい」
気づいた時にはエクリシアがアステリアの腕を引いていた。抵抗する間もなく、花壇の前まで引きずられた。ルミナリアが小走りでついてくる。
母親と女の子が顔を上げた。アステリアは仕方なく花壇の前にしゃがんで、意識を集中させた。
花の声は、すぐに届いた。言葉ではなく、体の奥から来る感覚として。
根が、詰まっていた。水が溜まりすぎて、行き場をなくしていた。
「……そうか」
「何かわかったか?」
アステリアは答える代わりに、手のひらを花に翳した。魔力を、細く、丁寧に通した。ぽう、と手のひらが淡く光って、下を向いていた茎がゆっくりと持ち上がった。葉の黄ばみが、少しずつ緑を取り戻した。
「えっ!?すごい!おはなげんきになった!!」
女の子が声を上げた。目が丸くなって、花と、アステリアと、また花を交互に見ていた。
「水のあげ過ぎで根腐れが起きていたぞ」
アステリアが立ち上がりながら言った。女の子が小さな頬を赤くした。
「おみず、いっぱいあげたらよろこぶかなって思って……」
「土の表面が乾いてからあげればいい」
「わかった!ありがとう!」
女の子が満面の笑みを向けてきた。アステリアは少し間を置いてから、ごく小さく頷いた。
「さすがね、お兄ちゃん」
「このくらいどうってことない。エクリシア、これで満足か?」
振り返った。
エクリシアが固まっていた。口が半開きのまま動いていなかった。その隣で、女の子の母親も同じような顔をしていた。二人とも、アステリアを見ていた。
「……どうした?」
「……今、魔法使った?」
「ああ」
「……詠唱なしで?」
「……詠唱?」
アステリアが首を傾けた。心底、何を言われているのか分からない顔だった。ルミナリアも、同様の顔をして首を傾けていた。二人して、同じ方向に同じ角度で首を傾けていた。
エクリシアの中で何かが限界に達した。
「えっ、えっ、ちょ、ちょいタンマ!あんた、今のは見なかったことにして!」
母親に向けて叫んで、アステリアの腕を力強く掴んだ。
「来い!」
「なんなんだ一体?」
「いいから来い!」
人気のない路地に入った。
エクリシアが足を止めた。アステリアとルミナリアが並んで彼を見た。
彼は額に手を当てて、深く息を吸った。
「お前らマジで何もわかってない感じ?」
「なんの話だ?」
「詠唱だよ!魔法使う時に普通唱えるだろ!?」
二人とも、ピンとこない顔をしていた。揃って小首を傾げていた。エクリシアは目を閉じて、開いた。
「あんな……詠唱なしで魔法は使えないんだよ」
「……普通に使えるが」
「だから、それがおかしいんだって!!」
声が路地に反響した。エクリシアは拳を握って続けた。
「ピアノの鍵盤を指で押さずに、鍵盤の裏側にあるピアノ線と演奏者の意志だけを共鳴させて、存在しない楽曲を聴衆の脳内に直接書き込むようなもんだ!!」
「……例えがよくわからないが、とにかくすごいことはわかった」
ルミナリアが真剣な顔で補足した。
「えっと、つまり魔法を使う時は詠唱が必須だけど、お兄ちゃんは何故か無詠唱で使えるってことよね?でもお兄ちゃんは昔からそんなの唱えてないわよ」
エクリシアは頭を抱えた。指の間から二人を見た。
「はぁ……昔からって、村の人たちは何も言わなかったわけ?」
「私を気味悪がって近づかない者がいたからな」
「別にお兄ちゃんが魔法使っても誰も何も言ってこなかったわよね?」
アステリアが無言で頷いた。
「そもそも、そんなに魔法を使うこともなかった」
「水や火を使わないのか?」
「水道とガスがある」
エクリシアの瞬きが、一瞬止まった。
「……一瞬でお湯を沸かしたりも出来んだろ?」
「風呂に入る時はたまにそうしたが……だが、家の中だから村人に見られることはない」
「魔導書とか読まないの?」
「魔導士になるつもりはなかったから興味ないな」
「どうやって魔法使えるようになったの?」
「母に教えてもらった」
「母さん……?お前の母親、魔導士なのか?」
アステリアは少し間を置いて、首を振った。それだけだった。それ以上は言わなかった。言わないのか、言えないのか、エクリシアには判断できなかった。
路地に、しばらく沈黙が落ちた。
エクリシアが天を仰いだ。両手を頭の後ろで組んで、空を見た。雲が流れていた。のどかな空だった。状況がのどかでないのと、空があまりにものどかなのが、妙に腹立たしかった。
「あーーッ!!なんなんだよ、もう!!なんで二人してこんな世間知らずなんだよ!?」
二人が揃って黙った。
怒られていると理解しているが、何故怒られているかを完全には理解していない顔だった。それがまた絶妙に腹立たしかった。エクリシアは大きく息を吐いて、声を落とした。
「真面目な話……アステリア、人前で魔法使うのはやめろよ。厄介なことになっから」
「……そのようだな」
ようやく状況の輪郭を掴んできたらしく、アステリアが静かに頷いた。その目が少し遠くを見ていた。詠唱なしで魔法が使えることが、どれだけ異常なことなのか——今日初めて知った事実を、ゆっくりと飲み込んでいるようだった。
魔導士の存在自体、この世界では希少だった。
その中でさらに詠唱を必要としない無詠唱魔法は、国家機関ですら滅多に抱えられない規格外の能力だった。
それを、この男は「なんとなく使っていた」。
母親に教わったから使えた。それ以上でも以下でもない、というのが真相らしかった。
エクリシアは二人を見比べた。
揃って似たような顔をしている兄妹ではなかったが、こういう瞬間は不思議と似ていた——世界の常識というものを、どこか遠い場所から眺めているような、澄んだ顔をしていた。
「まあ……うん。わかったならいいや」
それ以上は言わなかった。言ってもしょうがないことがあると、エクリシアは知っていた。
「行くぞ。今日の宿を取りに行く」
二人を促して、路地を出た。
夕暮れの光が、土の道に長く伸びていた。
畑の向こうで、テラがキャベツの葉の陰からこちらを眺めているような気がしたが、エクリシアの目には何も見えなかった。
アステリアだけが、歩きながら一度だけその方向を振り返った。




