第8話 黒幕の最期と、副長の横顔
オズウィン侯爵が死んだ。天寿ではない。誰の目にもそれは明らかだった。しかし公式の診断は「持病の心臓疾患による急変」とされ、それ以上の調査は行われなかった。
これが四度目に変わったことだ。
一度目から三度目まで、侯爵は常に生き延びた。
追い詰められても言い逃れをし、部下に責任を押しつけ、したたかに権力の座に留まり続けた。
今回は、委員会への召喚という圧力が限界を超えたのだろう。
侯爵自身の行動か、あるいは彼を「使い捨て」にする誰かの判断か。
いずれにせよ、黒幕は消えた。
しかし消えたことで、別のものが動き始めた。
侯爵の下にいた人間たちは、保護者を失った。
今まで侯爵の権力に守られていた者たちが、急に裸になった。
そういう人間は、生き残りのために二つの選択をする。
逃げるか、寝返るか。
翌日には侯爵家の側近三人が、相次いで公正委員会に出頭した。
自発的な出頭であり、侯爵との関わりについて証言する用意があると申し出た。
ダグラスの書状と合わせて、文書偽造の全貌が少しずつ明らかになっていった。
偽造は五年前に始まり、宰相家のサイクス家と侯爵家の共謀によって、北部の権益がシェルトン家から移し替えられていた。
(……思っていたより根が深い。五年間、誰もこれに気づかなかった。あるいは気づいても声を上げなかった。)
「カル副長」
私は彼に声をかけた。
副長は宿の部屋で書類を整理しながら顔を上げた。
窓からの光が彼の横顔を照らしていた。
「サイクス宰相への調査が広がっています。侯爵との共謀が証明されれば、宰相の地位は」
「なくなる」
「はい。そうなると、北部の権益はシェルトン家に戻ります。爵位の停止も解除される可能性があります」
副長は書類を机に置いた。
「それはあなたが望んでいたことですか」
「一部は」
私は窓辺に立ち、外を見ながら言った。
「でも最初から望んでいたものは、少し違います」
「教えてもらえますか」
私は少し考えた。
言葉を選ぶのに、時間がかかった。
「何度繰り返しても、毎回同じことに気づきました。私が本当に怒っていたのは、地位を奪われたことでも、財産を失ったことでもなかった」
窓の外で、鳥が飛んでいた。
「──誰も、真実を知ろうとしなかったことに対してです」
副長は黙って聞いていた。
「ライオネル殿下も、サラも、宮廷の人間も。みんな都合のいい話を信じることを選んだ。私の言葉を聞く前に、結論を決めていた。調べもしなかった。それが、ずっと悔しかった」
「今は」
「今回は──見てくれる人がいました」
私は副長の方を見なかった。
窓の外を見たまま言った。
副長も何も言わなかった。
でも少し、椅子を私のいる窓辺の方に向けた気がした。
(※豆知識:中世の裁判制度では、証拠よりも身分や評判が重視されることが多かった。いわゆる「宣誓補助者」制度では、被告の人格を保証する人間が十二名集まれば無罪とされることもあった。証拠に基づく裁判が一般的になるのは、ずっと後の時代のことだ。真実を「調べる」文化は、当たり前のものではなかった。)
◇
その夜、ルースが私の部屋に来た。
「お嬢様、妹様が話したいと言っています」
「通して」
サラが入ってきた。
顔色が悪い。目が赤い。眠れていないのだろう。
「お姉様、私は──」
「聞きます。座って」
サラは椅子に座った。
手を膝の上で組み、少し間を置いてから話し始めた。
あの夜、ダグラスに脅されていたことは既に聞いていた。
しかし今夜のサラは、もう少し奥の話をした。
ダグラスとの最初の接触は、宮廷の作法指南という体裁だったこと。
それが徐々に情報提供へと変質していったこと。
そして──恋文を盾に脅された経緯の、もう少し詳しい事情。
婚約中の姉の相手に手紙を書いた。
その罪悪感が、サラの足を縛り続けていたのだ。
私は黙って聞き終えた。
窓の外で、夜風が木の葉を揺らしていた。
灯りの芯がじりじりと音を立てている。
サラの声は途切れ途切れだったが、最後まで止まらなかった。
以前のサラなら、途中で泣いて話をやめていただろう。
この妹は、少しずつ変わり始めている。
「お姉様、私は──愚かだった」
「愚かだったかどうかは、これからの行動で決まります」
「サラ、あなたは委員会で証言できますか」
妹は顔を上げた。
「証言?」
「ダグラスに接触された経緯を、正式に述べること。脅迫を受けていたことを含めて。それができれば、あなたの状況は大きく変わります。被害者として認められる可能性がある」
サラは長い間、俯いていた。
灯りの影が彼女の頬に落ちていた。
「……できます」
「では準備を整えましょう」
それだけ言った。
許すとも責めるとも言わなかった。
ただ、次の手順を示した。
今の私にできることは、感情ではなく手順で応えることだった。
サラが部屋を出たあと、ルースが小さく言った。
「お嬢様は、妹様のこと……」
「許すとか許さないとか、そういう話ではないんです。サラが自分の足で立とうとしている。それを見届ける方が先です」
ルースは少し目を細めて、頷いた。
窓の外で風が吹いた。
季節が少しずつ変わり始めていた。
◇
翌日、私はイーヴァン殿下と面会した。
殿下は城外の拠点を引き払い、王宮の東棟に戻っていた。侯爵の死によって宮廷の力関係が変わり、殿下が表に出られるようになったのだ。
「侯爵の死について、何か聞いていますか」
殿下は首を横に振った。
「公式には心臓疾患による急死とされている。それ以上のことは、今の段階では調べられない」
「調べる必要はありますか」
殿下は少し考えてから言った。
「今は、生きている者の処置が優先です。死者の真相は、後から記録に残せばいい」
合理的な判断だった。
感情に流されず、手順を優先する。殿下のそういうところは、信頼できた。
「委員会の審理は順調に進んでいます。侯爵家の側近の証言が加わったことで、宰相家への調査も始まるでしょう」
「サイクス家が抵抗する可能性は」
「あります。しかし侯爵という後ろ盾を失った宰相家は、単独では委員会に対抗できない。組織的な妨害は難しいはずです」
殿下は窓の外を見た。
王宮の庭園に、季節の変わり目を告げる風が吹いていた。
「シェルトン令嬢、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「四度目の今回、あなたが最も恐れていたことは何ですか」
私は少し考えた。
「また一人で死ぬことです」
殿下は黙った。
「でも今回は──一人ではありませんでした。それが、三度目までとの違いです」
殿下は小さく頷いた。
「あなたの隣にいる副長殿は、いい目をしている。信頼に足る人間だと思います」
「はい。私もそう思います」
それだけの会話だった。
しかしその短いやり取りの中に、殿下の不器用な優しさが見えた気がした。
委員会での審理が進むにつれ、ライオネル殿下に向けられる宮廷の視線も変わりつつあった。そしてそれは、王宮の権力構造そのものを問い直す話になりつつあることを、私はまだ完全には理解していなかった。




