第7話 王国が揺れるとき、真実は地下から這い上がる
ダグラスが逃げた。それは彼らが追い詰められているということだ。逃げる人間は、証拠を持っていない人間ではない。むしろ多くの場合、持ちすぎている人間だ。
公正委員会への書類提出から二日が過ぎた。
ベイン老侯爵からの返答は、予想より早く届いた。城下の礼拝堂で老侯爵に直接渡した書面を、彼は翌日のうちに読み、即日返答を出した。
「申立を受理し、調査を開始する」
それだけの一文だった。
しかしその一文の重みを、私は知っている。
これまで一度も、公正委員会に書類を持ち込めたことはなかった。一度目は存在すら知らなかった。二度目は証拠が足りなかった。三度目は持ち込む前に死んだ。
四度目にして初めて、この一行にたどり着いた。
私はイーヴァン殿下にこの報告を伝えた。
殿下は城外の拠点で書面を受け取り、少し目を閉じた。
「これで表に出せる。宰相家も侯爵も、委員会には手を出せない」
「はい。ただし一点、懸念があります」
「何ですか」
「オズウィン侯爵は、追い詰められたとき必ず別の手を打ちます。直接的な妨害ができなければ、間接的に混乱を作ります。これまでの記憶で確認しています」
殿下は私を見た。
その目に、探るような色があった。
「あなたの記憶について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
私は少し間を置いた。
この話をすべきかどうか、ずっと迷っていた。信じてもらえない可能性が高い。狂人だと思われるかもしれない。
でも殿下の目は真剣だった。そして今後の動きを正確に伝えるには、この説明が必要だった。
「信じてもらえなくても構いません。ただ──私はこの状況を四度経験しています。死ぬたびに最初に戻り、記憶を持ったまま繰り返しています。そのため、彼らの行動パターンをある程度予測できます」
沈黙が落ちた。
殿下はしばらく私を見つめた。
表情は変わらなかった。驚きも疑いも見せなかった。
「証拠がある話をする人の目ではない。けれど、あなたの行動は確かに未来を知っている人間のそれと一致している」
「信じていただかなくて構いません。ただ、私が言うことを選択肢の一つとして聞いていただければ」
「わかりました。で、侯爵の次の手は何だと」
「民への負担を増やします」
私は説明した。
「交易路の規制を強めて、物資の流通を意図的に滞らせる。北部の民への影響が出れば、それを王家への不満に変換しようとする。混乱を作ることで、委員会の調査を遅らせることが目的です」
殿下の表情が変わった。眉間にわずかな皺が寄った。
「すでに一部で始まっている。昨日、北部の商人組合から陳情書が来ていた。交易路の通行料が突然倍になったと」
「では急ぐ必要があります。民に被害が広がる前に、委員会の調査を加速させなければ」
殿下は頷いた。
「私の方からも、委員会に情報を提供しましょう。北部の通行料の変動は、侯爵の指示によるものだという証言が取れます」
(……敵だと思っていた人が味方だった。そしてその人は、最初から静かに動いていた。)
その夜、カル副長が戻ってきた。
外套に夜露が降りていた。顔に疲れの色がある。
「ダグラスの足取りを追いました」
「見つかりましたか」
「見つけました。北部に向かう街道の中継宿にいた。しかし──話をする状態ではありませんでした」
私は副長の表情を見た。
「誰かに口を封じられた」
「おそらく。宿の主人によると、ダグラスが着いた翌日の夕方に見知らぬ二人組が来て、その後ダグラスは部屋から出てこなかった」
副長は外套を脱ぎながら、机の上に一枚の書類を置いた。
「ただ、ダグラスの部屋で見つけました。書きかけの手紙です」
私は書類に目を通した。
走り書きで、一部しか書かれていない。
インクの染みがあり、途中で中断されたことがわかる。
「これは──サイクス宰相への書状の下書きです。内容は、侯爵との取引の配分に異議を申し立てる文面」
(※豆知識:歴史的に権力犯罪が暴かれるケースの多くで、内部からの告発や書き残された記録が決定的な証拠になっている。特に中世の宮廷政治では、実行を命じられた下位の者が恐怖や良心の呵責から記録を残すことがあった。ナポレオン時代のフランスでも、密偵たちが独自の記録を保管していたことが後の裁判で重要な証拠となった例がある。)
「ダグラスは侯爵の命令に限界を感じていたようだ」
「内部の亀裂が表面化していたんですね。イーヴァン殿下が言っていた通りだ」
「この書状は証拠として使えますか」
「筆跡の照合が必要です。ダグラスの過去の公文書と比較して、同一人物の手になるものだと証明できれば」
私は書状を丁寧に折り畳んだ。
「委員会に追加で提出しましょう」
そのとき、窓の外で馬の蹄の音がした。
複数の馬だ。等間隔に響いている。整列した騎馬隊の音だ。
副長が素早く窓に近づいた。
「王宮の紋章。馬車が三台。騎兵が四騎」
「今夜、動いてきましたか」
私は立ち上がった。
「ルース、サラを奥の部屋へ」
「はい」
「副長、書類は全部私が持ちます」
「あなたが?」
「私に何かあっても、副長が証人として残れます。書類と証人が同時に消えては意味がない。分散させることが重要です」
副長は一瞬、何か言いかけた。
口が開きかけて、閉じた。
代わりに、彼は私の隣に立った。
「一緒に行きます」
「危険ですよ」
「知っています」
それ以上は何も言わなかった。
私も、それ以上は求めなかった。
馬車が宿の前に止まった。
扉が叩かれる前に、私たちは裏口から路地に出た。
城下の夜の路地は暗い。
石畳が濡れていて、靴底が滑る。
書類を胸に抱えて走りながら、私は思った。
三度、私は孤独に戦った。
人を巻き込むことが怖かった。アデル伯爵の死が、その恐怖を裏付けている。
(……それでも、一人の力には限りがある。認めたくなかったが、今は認められる。)
路地を抜けた先の広場に、馬車が一台止まっていた。
イーヴァン殿下の使者が、外套のフードを被って立っている。
「殿下が安全な場所を用意しています。こちらへ」
殿下が先回りしていた。
私たちの行動を読んで、あらかじめ退路を準備していたのだ。
「行きましょう」
副長が短く言った。
私は馬車に乗り込んだ。
副長が後に続いた。
馬車が動き出すと、息をついた。
夜の城下が窓の外を流れていく。
石造りの建物が暗闇の中に沈み、時折、酒場の灯りが橙色に滲んでいた。
三度のループで、こうして誰かと逃げたことはなかった。
いつも一人だった。一人で走り、一人で隠れ、一人で死んだ。
今、隣に人がいる。
その事実が、暗い馬車の中で妙に温かかった。
隣に座った副長の体温が、外套越しに伝わってきた。
夜が明ける頃、馬車は城外の小さな館に着いた。
殿下が用意した安全な場所は、古い石造りの農館だった。壁は厚く、窓は小さい。守りに適した構造だ。
副長が先に降りて、周囲を確認した。
それから振り返って、手を差し出した。
私はその手を取った。
温かかった。
翌日、オズウィン侯爵が公正委員会から正式に召喚されたという報せが届いた。そしてその日の昼過ぎ、侯爵が移送中に馬車の中で倒れ、そのまま息を引き取ったという知らせが続いた。




