第6話 微笑んでいた人が、刃を向けた夜
妹が私を探している。その知らせを聞いたとき、ペンの動きが少し遅くなった。止まりはしなかったが、確実に鈍った。
サラという妹を、私はどう見てきたか。
一度目は純粋に信じていた。妹は私の味方だと疑わなかった。婚約破棄の後も、きっと姉の側にいてくれると思っていた。
二度目は裏切りに気づいて怒った。サラがライオネル殿下に取り入り、意図的に婚約破棄を誘導していたことを知った。怒りのあまり宮廷で声を上げ、処刑された。
三度目は憐れんだ。サラが自分の意志で動いているのではなく、誰かに利用されているのだと気づいた。しかし確かめる前に死んだ。
四度目の今、私はサラに対して何も感じていないかと言えば、嘘になる。
感情はある。ただ、感情で動く余裕がないだけだ。
(……動くなら証拠が揃った後だ。感情は後回しにする。)
翌々日──副長が殿下と約束した日が来た。
書記局地下の調査は予定通りに進んだ。
イーヴァン殿下の権限で地下保管庫に入ったカル副長が、閲覧記録の副本を確認した。
保管庫は地下二階にあり、石造りの小部屋に木製の棚が並んでいる。空気が冷たく、紙の匂いが濃い場所だと副長は言った。
副本の記録には確かに、ダグラスという名前があった。
日付は北部の権利書が消えた三日前。閲覧目的の欄には「確認作業」とだけ書かれている。
これで三つの証拠が揃った。
原本の通商契約書。偽造版との物理的差異。そしてダグラスの閲覧記録。
「三点が揃いました」
宿の部屋に戻って副長に報告すると、彼は静かに頷いた。
「これをどこに持ち込むか」
「公正委員会です。以前お話ししたベイン老侯爵の管轄です。あそこなら宰相家の手が及ばない」
(※豆知識:中世ヨーロッパには、国王の恣意的な権力行使を牽制する仕組みが存在した国もあった。例えばイングランドでは、王権を制限する大憲章が早い段階で成立し、司法の独立性が少しずつ確立されていった。完全に中立な機関は理想だが、その理想に近づこうとする制度設計の試みは歴史的に繰り返されてきた。)
副長はしばらく考えた。
「接触できますか」
「方法があります。老侯爵は毎週、城下の礼拝堂を訪れる習慣がある。三度目のループで確認しています。その日が近い」
「では早めに試みましょう」
その夜、私は宿の一階で夕食を取っていた。
ルースが向かいに座り、簡素なスープを飲んでいる。副長は壁際の席で別の客のふりをしていた。彼はこういう「気配を消す」ことが巧みだった。
扉が開いた。
入ってきた人物に、私は顔を向けた。
「サラ」
妹は私を見て、少し目を細めた。
相変わらず美しい。淡い金色の髪が肩に流れ、薄青の目が灯りに揺れていた。ドレスは上品だが控えめなもので、王宮にいるときとは違う装いだった。
しかし今の彼女からは、いつもの甘い香水の匂いがしなかった。
「ここにいたのね、お姉様」
「ええ。座りますか」
「少しだけ」
サラは向かいに座った。
ルースが立ち上がろうとしたが、私は目で制した。
「様子を見に来たの」
「ありがとう」
「追放令が出たって聞いて、心配で」
私はサラの顔を見た。
心配。
過去三度の経験を通して、妹の表情は研究してきた。
本当に心配しているとき、サラは右手の薬指を軽く握る。それが癖だ。
今、サラの右手は開いたままテーブルの上に置かれている。
「サラ、何か話したいことがある?」
妹は少し笑った。
「お姉様は昔から鋭いわ。そう、実は──」
サラは外套の内側に手を入れた。
「お姉様が持っている書類のことで、殿下から伝言を預かってきたの」
「どちらの殿下から?」
「ライオネル殿下よ。書類を返してくれれば、追放令を取り消してもいいって」
私は手をテーブルの上に置いたまま、動かさなかった。
呼吸を整える。吸って、吐いて、もう一度。
「サラ、私が書類を持っているという情報を、どこで知ったの」
「それは──」
妹が目を逸らした。
右手が、わずかに外套のポケットの方に動いた。
そのとき、私の視野の端で副長が音もなく立ち上がるのがわかった。
「お嬢様」
副長の声が低くなった。いつもより半音ほど低い。
「サラ様の外套の右ポケット、何か入っています」
サラは素早く椅子を引いて立ち上がった。
その拍子に、小さなガラスの瓶がポケットから落ちた。
床の木板に当たって、乾いた音を立てた。中の液体が少し揺れて、瓶の内壁を伝った。
私は立ち上がらなかった。
瓶を見下ろした。
無色に近い液体。量は少ない。
「何、それ」
「違うの。これは、私は──」
「サラ」
声を落として、静かに聞いた。怒鳴らなかった。怒鳴る必要はない。
「誰に頼まれたの」
サラは口を閉じた。
目が泳いでいる。唇が震えている。
答えよりも、今の沈黙の方が答えだった。
(※豆知識:中世ヨーロッパでは、毒殺は権力闘争で広く使われた手段だった。特に無色無臭の植物由来の物質は検出が困難で、王宮や貴族社会では食事や飲み物の毒見係が重要な職務として存在した。有名なメディチ家の時代には、毒の研究が一つの「技術」として発達したとさえ言われている。)
副長がゆっくりと瓶を拾い上げた。布で包んで外套のポケットにしまった。
「この瓶の中身は、専門の人間に調べてもらいましょう」
サラの顔が青くなった。
「お姉様、私は、私はただ──」
「誰に頼まれたかを教えてくれれば、あなたを守ります」
私は言った。
声は平坦だった。感情を込めなかった。
怒ることも、悲しむこともしなかった。
それが今の私にできる、最も正確な対応だった。
サラは震えながら、椅子に崩れるように座り直した。
しばらく黙っていた。
食堂の灯りが揺れて、妹の顔に影を落としていた。
「……オズウィン侯爵の秘書官の、ダグラスが来て……書類を取り返せなければ、姉ごと消せと……」
ダグラス。
文書の閲覧記録にあった名前だ。すべてが繋がっていく。
「いつ接触されたの」
「三日前。宿に人が来て……断ったら、ライオネル殿下に私の秘密を話すと言われて……」
「秘密?」
サラは小さく首を振った。
「今は言えない。でも……怖かった」
私は椅子に座ったまま、妹を見た。
許すとも責めるとも言わなかった。
「ルース、サラをこの部屋で休ませてあげてください。外には出さないで」
「はい」
副長が外套を手に取りながら言った。
「ダグラスの動きを、今夜中に確認します」
「副長」
彼は振り返った。
私は少しだけ迷って、言った。
「気をつけて」
副長は何も答えなかった。
ただ、頷いた。
その頷き方に、言葉よりも多くのものがあった。
私は一人になった部屋で、しばらく椅子に座っていた。
灯りの芯が短くなって、影が揺れている。
妹が刃を向けた夜。
それを恨む気持ちがないわけではない。しかし恨みよりも先に、別の感情がある。
(……サラは怖かったのだ。私と同じように。)
怖さの中で、人は判断を間違える。私も三度、判断を間違えて死んだ。
サラの間違いを責める資格が、私にあるだろうか。
答えは出なかった。
でも、答えが出ないまま動くことに、もう慣れていた。
翌早朝、ダグラスが王都から姿を消したのと同時に、公正委員会への書類が正式に受理されたという報告が届いた。




