第4話 敵だと思っていたあの方は、なぜ私を庇うのか
追放令というものは、不思議と人を軽くする。失うものが決まれば、守るべきものが明確になり、怖いものが減る。
城下に出てから三日が過ぎた。
私とルースとカル副長の三人は、城下の東区画を拠点にしていた。宿を二日ごとに変えながら動く。目立たないこと、同じ場所に留まらないことが、今の私たちの生命線だ。
副長は騎士団に休暇届を出したと言った。
「理由は何と書いたんですか」
「散歩が好きなので、しばらく城下を歩きたいと」
「休暇届にそう書いたんですか」
「はい」
真顔で言う。
この人の冗談なのか本気なのかわからない言い回しに、私は少しずつ慣れてきていた。
(……核心を外した物言いをする人だ。でも行動だけは、いつも正確だ。)
四日目の早い時刻、宿の食堂で軽い食事を取っていると、扉が開いた。
入ってきた人物を見て、私は椅子を引いた。
背の高い男。三十代前後。黒い外套を着ているが、襟の縫い取りに小さな王家の紋章が刺繍されている。仕立ては上質だが、派手ではない。目立たないことを意図した装いだ。
第二王子、イーヴァン殿下だった。
(……この方は過去の記憶では、常に遠くにいた。宮廷の宴で一度言葉を交わしただけで、それ以上の接点はなかった。)
「座っていてください」
殿下は落ち着いた声でそう言い、向かいの椅子に腰かけた。
護衛らしき人物が一人、扉の外に立っているが、中には入ってこない。
食堂には他に客がいなかった。
「驚かれましたか」
「はい、正直に申し上げて」
「正直な方ですね。宮廷ではなかなかお目にかかれない」
殿下は微笑んだが、目は笑っていなかった。
何かを探している目だ。
値踏みとは違う。むしろ──確かめている目だ。
「シェルトン令嬢の動きを、少し追わせていただきました」
「追っていたのですか。殿下自ら」
「部下を通じてですが、はい。北部の通商路に関心がありまして。あなたが書庫で何かを取り出したと聞いたとき、無関係ではないと思いました」
私は彼を観察した。
外套の内側の折り返しに、紙の折り跡がある。地図か書類を折って持ち歩いていた形跡だ。靴の底には泥が付着していた。王宮の石畳では付かない泥だ。城外の土の道を歩いてきたことを示している。
護衛の靴にも同じ泥が付いていた。つまり二人とも、王宮からではなく城外の拠点から来ている。
「殿下は、北部の商業ルートが現在どのような状態にあるかをご存じですか」
「宰相家のサイクス家が実質的に管理している。私が知っているのはそこまでです」
「民への影響はご存じですか」
殿下は少し間を置いた。
テーブルの上の湯気を見つめている。
「詳しく教えていただけますか」
「北部の交易拠点は、本来は複数の商人が利用できるものでした。しかし現在はサイクス家の息のかかった商人だけが優先的に使用し、地方の小商人は締め出されています」
私は続けた。
「その結果、北部では競争が失われました。独占状態では価格は売り手の言い値になります。この三年間で、北部の穀物と布の価格は大幅に上がり続けています」
(※豆知識:中世の交易拠点では「市場権」と呼ばれる特権が存在した。特定の場所で市を開く権利であり、これを独占することで価格を操作できた。歴史的に、市場権を握った領主が自分に有利な価格設定を行い、農民や小商人が苦しむ構図は各地で見られた。市場権の独占が反乱の引き金となった例も少なくない。)
殿下の目が変わった。
表面の穏やかさが薄れて、その奥にある鋭さが見えた。
「根拠はありますか」
「書類があります。ただし現在、安全な場所に預けてあります」
「私が預かってもいい」
私は首を横に振った。
「今はお断りします。殿下を信頼していないわけではありませんが、信頼するには情報が足りません。殿下がどちらの側にいるのか、まだ確認できていませんので」
率直すぎたかもしれない。
しかし殿下は不快そうな顔をしなかった。
むしろ少し、口元が動いた。
「正直な方だ。気に入りました」
「それはどうも」
「では一つだけ情報を差し上げましょう。オズウィン侯爵はサイクス宰相と連携していますが、完全には信頼し合っていません。北部の権益の配分で対立が生じている。そこに亀裂があります」
私の中で、記憶が動いた。
これまでの記憶では、侯爵と宰相は常に一枚岩に見えた。しかし内部に亀裂があるなら、そこを突ける可能性がある。
「詳しく教えていただけますか」
「条件があります。あなたが持っている書類を、適切な場面で公に開示すること。それを私も使いたい」
「具体的にどのような形で」
「書類の内容を写した副本を、一部私に渡してほしい。原本はあなたが持ち続けてかまいません。そして開示のタイミングは、あなたが決めていい」
合理的な提案だ。
原本を手放さなくていい。タイミングの主導権も握れる。
殿下にとっても、自分の手で証拠を出すよりも、第三者が出す方が政治的に動きやすいのだろう。
「副本を作ること、そして証人を一人追加することを条件に承りましょう」
「証人とは」
私はカル副長を見た。
副長は食堂の壁際に座り、静かにこちらを見ていた。
「この方です」
殿下は副長を見た。
副長は殿下を見た。
しばらく二人の視線が交差した。
「騎士団副長殿か。面識はありませんでしたが、名前は聞いています」
「恐縮です」
「信頼できる方ですか」
その質問は私に向けられた。
「私が今、最も信頼している人物です」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
副長はわずかに目を逸らした。
「では合意しましょう」
殿下は立ち上がり、外套を整えた。
扉に向かいかけた殿下に、私は声をかけた。
「一つ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「殿下は、今回の婚約破棄とシェルトン家への処置を、事前に知っていましたか」
殿下は一瞬だけ目を伏せた。
その動きは意図的ではなく、自然なものに見えた。
「知っていました。しかし、止める力がなかった」
「ライオネル殿下の決定ですか」
「兄の判断というより、宰相と侯爵が兄を動かした結果です。兄は──自分で決めることが苦手な人間です」
それは嘘かどうか、まだわからない。
でも目を伏せたのは本当のことだと思った。
殿下が出ていったあと、ルースが私の袖を引いた。
「あの方、本当に信じていいんですか」
「まだわかりません。でも──情報は確実に使える。信じるかどうかは、次の行動で判断します」
副長は食器を片付けながら、ぽつりと言った。
「殿下の護衛の靴底が、泥で汚れていた。王宮の石畳では汚れない。城外から来ている」
私は思わず彼を見た。
「それを言うなら、外套の内側の折り返しにも紙の折り跡がありました」
副長はわずかに目を細めた。
「よく見ていますね」
「あなたもですよ」
少しの間、視線が合った。
それだけのことだったが、何かが通じた気がした。
今夜、王宮の東棟から煙が出るという噂が城下に広まった。それは煙ではなく、書類が燃やされているのだと、翌日わかった。




