第3話 爵位を剥がされても、私には見えています
心臓が一瞬止まる感覚というものを、私はよく知っている。三度死んだ人間は、その瞬間の感触を身体が覚えている。アデル伯爵の訃報を聞いた瞬間、私の胸の中でそれが起きた。
だが涙は出なかった。
(……泣いている時間がない。泣くのは、全部終わってからでいい。)
オズウィン侯爵の邸での「お呼び出し」は、三時間で終わった。
表向きは茶会だった。侯爵の邸は王宮の南に位置し、広い庭園を持つ優雅な屋敷だ。応接間には高価な絨毯が敷かれ、壁には風景画が飾られている。
しかし実質は尋問に近かった。
侯爵は穏やかだった。
声を荒げない。顔色も変えない。
白髪を整え、にこやかに茶を勧めてくる。その穏やかさの裏に、計算が透けて見えた。
それが怖かった。
「シェルトン令嬢、昨日の書庫の件を少し聞かせてもらえますか。何か面白い書類でも見つけましたか」
「書庫の利用は認められた権限の範囲です。何かお気に障りましたか」
「もちろん、問題はありません。ただ、あなたが持ち出した書類について」
私は首を傾けた。
「書類とおっしゃいますと」
「書庫の記録によると、封筒一点を持ち出したとありまして」
(……書庫の利用記録には名前を残しておいた方がいい──カル副長が言った理由が、今になってわかった。)
記録があれば、逆に私が堂々と書類を持ち出したことが証明される。
こっそり盗んだのではなく、正式な権限の下で取得したと。
副長は、それを見越して言ったのだ。
「ああ、あれですか。家の古い記録書類で、私の名前が入っているものです。相続の手続きに必要かと思いまして。内容に問題があれば、確認いただいても構いませんよ」
侯爵は少し目を細めた。
茶碗を持つ手が一瞬止まった。気づかなければ見逃す程度の反応だったが、私は見逃さなかった。
「どこに保管されていますか」
「シェルトン邸に置いてあります」
嘘だ。
でも邸を捜索させれば、時間が稼げる。
書類がないことに気づいたとき、侯爵はもう一手打たなければならない。その一手が、次の手がかりになる。
三度目のループで学んだことがある。追い詰められた人間の次の手を読むには、一つだけ嘘を混ぜておく。相手がその嘘にどう反応するかで、本当の狙いが見える。
三時間後に邸に戻ると、侍女のルースが青ざめた顔で待っていた。
「お嬢様、宮廷から使者が来ています。シェルトン家の爵位に関する勅命だと」
(……これも来た。)
三度目の記憶では、この勅命はもう少し後だった。
今回は早い。
オズウィン侯爵が動きを加速させている。私が書類を持ち出したことで、計画の順序を前倒しにしたのだろう。
「通して」
勅命の内容は簡潔だった。
シェルトン家の爵位の一時停止。北部の権益の暫定管理を王宮が引き受ける。理由は「書類の不備」。
消した書類を理由にして、権利を取り上げる。
自分で消しておいて、ないことを口実にする。
あまりにも鮮やかな手口だ。一度目と二度目の私なら、気づけなかった。
「お嬢様……」
ルースが声を震わせた。
「大丈夫です」
そう言いながら、私は窓の外を見た。
庭の隅に、見慣れない男が立っている。外套を着て、柵の近くで何かを見ている。
監視だ。
(……全部わかっていた。でもアデル伯爵の死は、計算が違った。)
伯爵は三度のループで、一度も死ななかった。
一度目は関わりが薄く、二度目も三度目も遠くから見ているだけだった。
今回は違った。伯爵は私の味方として、初めて動いてくれた。
証人になると言ってくれた。書類を預かると言ってくれた。
だから狙われた。
私のせいで、死んだ。
その事実は、胸に重く沈んだ。
呼吸が浅くなるのを感じた。手を握って、ゆっくり開いた。
「ルース、荷物を最小限にまとめてください。シェルトン邸を出ます」
「どちらへ行かれるんですか」
「城下の宿を借ります。知人の名義で。あなたは一緒に来なくていい。危険ですから」
ルースは首を横に振った。
「私はお嬢様のそばにいます」
揺るぎない目だった。
迷いがない。私よりも、よほど覚悟が決まっている。
私は少し迷ったあと、頷いた。
夕方になって、馬車を一台手配した。
小さな辻馬車で、御者を頼んで城下の東側の宿へ向かう。監視の男の目を避けるために、裏門から出て二度馬車を乗り換えた。
宿の部屋に落ち着いたのは夜になってからだった。
簡素な木の椅子に腰かけて、私は考えた。
アデル伯爵は書類を懐にしまっていた。
急逝したなら、書類はどこへ行ったか。
伯爵家の遺品として管理されているか、あるいは黒服の男たちに回収されたか。
(※豆知識:中世ヨーロッパの貴族社会では、当主の急逝時に遺品の管理は領地の家令が行うのが通例だった。しかし王宮の介入があれば遺品の接収が優先されることもあり、重要書類の保全は家臣たちの判断に委ねられた。信頼される使用人は主人から「もしもの時」の指示を受けていることが多かった。)
「失礼します」
扉が静かにノックされた。
声を聞いて、私は立ち上がった。低い声、落ち着いた調子。
扉を開けると、カル副長が立っていた。
騎士団の制服ではなく、薄い外套を着ている。
雨に濡れた髪が額に貼りついていた。
「手紙が届きました」
「わかっていたんですか、ここを」
「書庫の利用記録を確認して、そこから辻馬車の動きを追えば、そう難しくない」
(……この人は、答えを教えてくれるのではなく、調べ方を知っている人だ。)
私は一歩引いて、中へ入るよう促した。
副長は部屋に入り、外套の内側から羊皮紙の封筒を取り出した。
「アデル伯爵の使用人が騎士団の宿舎に届けに来ました。主人が死ぬ前に、もしものときはこれをシェルトン令嬢に渡すよう言い残していたそうです」
封筒だ。
伯爵の印章が押してある。
赤い蝋封が、暗い部屋の灯りに鈍く光った。
手が震えた。
震えを止めようとしたが、止まらなかった。副長に見えただろうと思う。
「私が証人になります」
副長はそれだけ言った。
余計なことは言わない。慰めの言葉もない。ただ、必要な一言だけを言った。
私は封筒を受け取った。
中には書類と、短い手紙が入っていた。
伯爵の筆跡は少し乱れていたが、読める。
「これを証拠として使え。そのための証人は必要なだけ集めよ。君の目は正しい。老いぼれの義理立てが、少しでも役に立てば本望だ」
私は手紙を畳んだ。
指先で紙の端を撫でた。
「副長」
「はい」
「なぜ私を助けるんですか」
副長は少し間を置いた。
「あなたは書庫で証拠を探していた。泣くでもなく、怒るでもなく。手順で動いていた。そういう人間を、放っておけなかった」
はぐらかされているようで、どこか核心を突いている。
この人の遠回りな物言いには、いつも誠実さが滲んでいる。
「放っておけなかった、ですか」
「はい」
短い返答だった。
しかし声の中に、揺るぎないものがあった。
翌日、宮廷からシェルトン令嬢追放の布告が出された。しかし宮廷の書記局で、一枚の書類が密かに写し取られていたことを、まだ誰も知らなかった。




