第2話 消えた証人と、残された蝋封
書状の最後の一行を三度読み直した。「シェルトン家の後見として、王宮は関与しない」──つまり、どこからも守られない。放り出されたということだ。
便箋を折りたたんで、暖炉の横に置いた。
手が少し冷たい。
呼吸を整える。一度深く吸って、ゆっくり吐いた。
(……予想通り。でも一つ、予想外がある。)
差出人が、宰相ではなかった。
副宰相のオズウィン侯爵の名前が入っていた。
王宮の実務をほぼ掌握している人物で、宰相のサイクス家と表向きは協力関係にある。しかし侯爵自身は常に裏方に徹し、署名を避ける男だった。
一度目から三度目まで、彼は決して表に出なかった。
宰相の後ろに立ち、耳元で意見を述べるだけで、自分の名前を文書に残さなかった。
なのに今回は、最初から署名している。
それが意味するのは二つだ。
一つは、侯爵がこの件に深く関わっていること。
もう一つは──侯爵が焦っていること。
焦りは隙を生む。しかし焦った人間は、同時に危険でもある。
「お嬢様、アデル伯爵様がお見えです」
侍女のルースが扉を開けた。
ルースは幼い頃から私に仕えている。黒い髪を低く結び、いつも落ち着いた目をしている。
「通して」
すぐに入ってきたのは、五十代の小柄な男だった。
白髪交じりの髭、しわの深い顔。外套の肩に雨粒が残っている。急いで来たのだろう。
アデル伯爵。
シェルトン家と旧来からの付き合いがある家門で、父の古い友人だ。
父が病で倒れてからも、折に触れて書状をくれた。
「エリアナ嬢、大変なことになった」
彼は席につく前に言った。
普段は穏やかで、声を荒げることのない人だ。しかし今日は呼吸が速く、額にうっすらと汗が浮いている。
「婚約破棄のことですか」
「それだけではない」
アデル伯爵は声を潜めた。
椅子に座り、両手を膝の上で組んだ。
「シェルトン家に関する文書が、宮廷書記局から消えた。五年前の土地権利書だ」
私は顔を動かさなかった。
ドレスの裾に指を押し当てて、表情を整えた。
(……知っている。)
三度目の記憶で、その書類の消失は把握していた。
だが消えた時期までは特定できていなかった。三度目の私は、逃亡の準備をしていて確認する余裕がなかったからだ。
「いつ消えたのかはわかりますか」
「昨日だ。婚約破棄の宣言の、ちょうどその後で」
(……タイミングが計算されている。)
婚約破棄の宣言で宮廷中の注意がそちらに向いている隙に、書記局の文書を処理した。
二段構えの計画だ。
「伯爵、一つ確認させてください。その土地権利書は、元々どのような内容でしたか」
アデル伯爵は少し考えてから答えた。
「シェルトン家が王家より拝領した北部の交易拠点に関するものだ。あの土地は三つの街道が交差する要衝で、関税収入だけでも年間かなりの額になる。書類が消えれば、権利の法的根拠がなくなる」
つまり、土地を実質的に取り上げられる。
婚約破棄で社会的地位を奪い、書類を消して財産の根拠を消す。
一つずつ、私の足場を崩していく手口だ。
「伯爵、この封筒をご覧になれますか」
私はドレスの内側から昨日の封筒を取り出した。
アデル伯爵は蝋封を見て、目を細めた。老眼鏡を取り出し、印章を丁寧に確かめた。
「シェルトン家の古い印章だ。先代の──いや、先々代のものか。これは」
「五年前に交わされた通商契約書の原本だと思います。私はまだ中身を確認していません」
「なぜ開けなかった」
「開封するなら、証人が必要です。蝋封が無傷であることを第三者が確認した上で開けなければ、後から『中身を入れ替えた』と言われる余地が残ります」
アデル伯爵は私を見た。
若い令嬢がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。しばらく間があってから、彼はゆっくりと頷いた。
「わかった。私が証人になろう」
封筒を丁寧に開ける。
蝋封を崩さないように、ルースが持ってきた薄いナイフを使った。蝋の端を少しずつ剥がしていく作業は、慎重さを要した。
中から出てきた書類は、羊皮紙二枚と布紙一枚だった。
布紙に書かれているのは補足条項だ。
(※豆知識:中世の重要文書では、羊皮紙が本文に使われたのに対し、補足や注記には麻や綿でできた布紙が使われることがあった。布紙は羊皮紙より安価だが耐久性が高く、修道院や商業都市の記録で広く活用された。紙の種類が混在する文書は、一度に作成されたものではなく、後から条項が追加された証拠にもなり得る。)
私は布紙を先に読んだ。
「これは」
思わず声が出た。
「どうした」
「この条項には、北部交易拠点の管理権限が二十年間シェルトン家に帰属すると書いてあります。そして──現宰相家のサイクス家への転売は無効と明記されています」
沈黙。
アデル伯爵の顔が、白くなった。
老いた手が、膝の上で小さく震えた。
「それは、つまり」
「現在の宰相家が主張している北部の権益は、この文書があれば法的に無効です。だからこそ彼らは書記局から権利書を消した。この原本の存在を知って、先手を打ったのでしょう」
私は書類を丁寧に畳んだ。
「伯爵、あなたにお願いがあります。この書類を安全な場所で保管してほしいのです。シェルトン邸は、今夜にでも捜索されるかもしれません」
「私の邸なら安全だ。金庫がある」
「はい。お願いできますか」
アデル伯爵は立ち上がりかけた。
そのとき侍女のルースが急ぎ足で戻り、扉を叩いた。
「お嬢様、外に見知らぬ馬車が止まりました。紋章のない黒塗りの馬車です」
私は立ち上がった。
「伯爵、裏口から出てください。庭を抜けて北側の小門へ」
「わかった」
アデル伯爵は書類を懐にしまい、足早に廊下を抜けていった。最後に振り返って、小さく頷いた。その目は覚悟を決めた人間の目だった。
私は窓の外を見た。
黒い馬車。御者台に紋章がない。御者は外套のフードを深く被っている。
(……これも予想の範囲内。でも、もう一人証人が必要だった。)
扉が開く前に、私は机の引き出しから小さなメモを取り出した。
書庫で利用記録を残すように言ったカル副長への、短い手紙だ。
書いてある内容は二行だけ。
「通商契約書の原本を確保しました。証人が必要です」
ルースに託した。
「これを騎士団の宿舎に届けてほしい。カル副長宛に」
「はい。すぐに」
ルースは外套を羽織って、裏口から出ていった。
黒塗りの馬車から、黒服の男が二人降りてきた。
一人は背が高く、もう一人は小柄だが目つきが鋭い。
「シェルトン侯爵令嬢に、オズウィン侯爵閣下からお呼びがかかっております」
私は立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
「参りましょう」
笑顔を作った。
手は冷えたままだったが、震えはしなかった。
馬車の中は暗く、革の匂いがした。窓の外が流れていくのを見ながら、私は考えていた。
侯爵が私を呼ぶということは、書類の存在を疑っているということだ。
しかしまだ確証は持っていない。だから「呼び出し」であって「逮捕」ではない。
この差は大きい。
翌日の夕刻、アデル伯爵が急逝したという知らせが届いた。




