不穏な足音
新大陸レグドの中心部に、周囲の空間を拒絶するようにひっそりと佇む魔神王の居城。その薄暗い謁見の間に据えられた円卓に、魔神将の一人、ミリアが頬杖をついて座っていた。
「いつになったら人間は攻めてくるのよ……。退屈で死んじゃいそう」
贅沢な椅子に深く腰掛け、彼女が不満げに天を仰ぐ。
「そんなに気になるのでしたら、様子を見に行かれてはいかがですかな、ミリア様」
影から音もなく進み出た執事のセバスチャンが、慇懃に頭を下げて提案した。
「なんで私がわざわざ行かなきゃいけないのよー! めんどくさい!」
子供のように唇を尖らせるミリア。
「左様でございますか。ですが……いまこの大陸に攻めてきているのは、そんじょそこらの普通の人間ではございませんよ?」
「なあに? まるで見届けてきたみたいに言うのね」
ミリアが怪訝そうに目を細めると、セバスチャンは「その通りですよ。ホホホ……」と不気味に笑いながら、懐から何かを取り出し、円卓の上へと転がした。
――コト、コト……。
卓上で乾いた音を立てたのは、レンズが激しく割れ、赤黒い血にまみれた眼鏡。そして、根元から無残に叩き切られた、歪な形状をした獣の角の先端だった。
それらを目にした瞬間、ミリアの退屈そうな顔が、一転してゾクリとするような恍惚の表情へと変わる。バロンとライガ。自分たちと同格であるはずの二人の魔神将が、人間の手によって無残に葬られたという紛れもない証拠だった。
「ねえ……ベノム……。私が見てきてもいいかしら?」
ミリアの声のトーンが、それまでの子供っぽさから地を這うような低い色へと一変する。
円卓の最奥、最も深い闇が渦巻く席に座っていた男――『炎柱のベノム』が、ここで初めて重い口を開いた。
「だめだ」
一言。だが、場の空気を一瞬で凍りつかせるほどの圧倒的な圧を孕んだ一言だった。
ミリアはしばらくの間、不満げに押し黙っていたが、やがて「ちぇー。わかったわよ……」と拗ねたように椅子の上でだらしなくひっくり返った。
「貴様には、今現在の世界情勢を探らせているはずだ。そちらを優先しろ」
ベノムの冷徹な指摘に、ミリアはぶつぶつと文句を並べる。
「だって、キュレムのやつが全然帰ってこないんだもん……」
そこで、ミリアの脳裏に何かが閃いた。彼女はパッと上半身を起こすと、目を輝かせる。
「あっ! じゃあさ、人間の国に行って、少しあっちで遊んできてもいい?」
「……いいだろう。魔神の軍勢も、好きに使うが良い」
「えっ? いいの!? ベノムったらやっさしー!」
さっきまでの狂気が嘘のように、ミリアは無邪気に歓声を上げた。
しかし、ベノムの鋭い眼光が彼女を強く射抜く。
「……ただし、あの『女神』にだけは気づかれないようにしろ」
「大丈夫よ。私の能力、知ってるでしょ?」
ミリアはフフッと妖しく微笑む。その瞬間、彼女の両目が不気味な血の赤色に怪しく明滅した。
そのまま窓を蹴り、夜の闇へと飛び立っていくミリア。その背姿を見送りながら、セバスチャンが静かに尋ねた。
「よかったのですかな? ベノム様」
「ああ、全ては予定通りだ。そろそろ、カオス様もお目覚めになられる……。その時こそ、我ら魔神が真にこの世界へ復活する時となるだろう」
ここは、港町アクエリアの冒険者ギルド。
先日のレグド遠征という大事件によって、この街のギルドは非常に多くのベテラン冒険者を失っていた。その打撃は、もともと規模の小さかったアクエリアギルドにとって死活問題となっていた。
「おーい、依頼を完了してきたぞ……。さすがに1日5件はキツいぜ……」
髭面の冒険者が、泥のように疲れ切った様子で受付カウンターに突っ伏した。
「本当にどこも冒険者不足で大変なのよ。よりによって、ここ唯一のS級パーティ『アリスティ』もこんな大事な時に街にいないし……」
受付嬢が深刻そうにため息をつく。
二人がそんな深刻な世間話をしていた、まさにその時だった。
――バタン!!!
ギルドの重厚な木製の扉が、信じられないほどの勢いで跳ね開けられた。
「すいませーん! 冒険者希望なんですけど!」
よく通る元気な声と共に、一人の女の子が入り口に立っていた。見た目は15、16歳ほど。年間を通して常に気温の高いアクエリアには、およそ不釣り合いなほどの、厚手で黒いゴシック調のドレスに身を包んでいる。
近くにいた年配の冒険者が、すぐに呆れたように声をかけた。
「お嬢ちゃん、ここがどこだか分かって言ってるのかい? ここは君のような若い子が遊び半分で来るところではないよ」
「大丈夫! あたしは強いから!」
少女は胸を張り、満面の笑みで即答した。
「なんだい、あの子は……」
遠巻きに見ていた受付嬢が困惑する。カウンターに這いつくばっていた髭面の冒険者も「いくら冒険者不足だからって、あんな小さな女の子を雇うわけにはいかねえだろ」と苦笑した。
「お嬢ちゃん、悪いことは言わないから、な? ここへ来たいなら、あと5年経ってから出直しな」
諭すように言う冒険者。すると、少女は人懐っこい笑みを浮かべたまま、とんでもない提案を口にした。
「じゃあさ〜……ここにいる誰かをぶっ飛ばせば、登録してくれる?」
その瞬間、ギルド内の空気が一変し、ピリついた緊張感が走った。いくら子供相手とはいえ、荒くれ者たちのプライドを逆撫でするには十分すぎる言葉だった。
「ちょ、あんたたち! いくら疲れてるからって、そんな子供の戯言に構ってんじゃないよ!」
受付嬢が慌てて制止の声を上げる。
だが、その警告は無意味だった。別の席で朝から酒を煽っていた、体格の良い冒険者が椅子を蹴立てて立ち上がった。
「よぉ、お嬢ちゃん。今の言葉、本気で言ってんのか? ならよぉ……!」
男は凄むと同時に、手に持っていた酒の入った重いジョッキを、少女の顔面目がけて乱暴に振りかぶった。
しかし――それは、本当に一瞬の出来事だった。
――バギィ!!!
ギルド内に、鈍く不快な「何かがへし折れる音」が激しく響き渡る。
次の瞬間、全員がその場で凍りついた。
少女は、手に持っていた黒い日傘を、目にも留まらぬスイングスピードで一閃させていたのだ。男の振り下ろしたジョッキごと、その巨体を真横へと弾き飛ばした。
吹っ飛ばされた男は、ギルドの壁に叩きつけられ、口からぶくぶくと泡を吹きながら、ピクリとも動かなくなった。
「これで大丈夫?」
少女は、何事もなかったかのように日傘を肩に立てかけ、再び満面の笑みで尋ねた。
その圧倒的な「暴力」を見せつけられたアクエリアのギルドは、事前の約束通り、震えながら彼女を冒険者として登録することを即座に認めた。
「じゃ、じゃあ……ギルドカードを作るから、名前を教えてくれるかしら……?」
受付嬢が引き攣った笑顔でペンを握る。
少女は嬉しそうに微笑み、その可愛らしい唇から、不吉な名を告げた。
「私の名前は、キュレムだよ」
魔神将ミリアの言う「帰ってこない探索役」。その本尊が、今、人間の国の喉元へと、深く入り込んでいた。




