風の魔神将
「綺麗な顔で寝てるね……」
横になって静かに息を立てている広臣の顔を覗き込みながら、愛多がぽつりと呟いた。
「スキルの使いすぎでそんなんなるわけ?」
萌が不思議そうに眉をひそめる。
「わからない。だけど、あんな力、そう簡単に使えないのかも……」
愛多はそう言って視線を落とした後、「――ねえ、桐生くんは大丈夫?」と尋ねた。
「こいつは頑丈だから大丈夫っしょ。一応、愛多の回復魔法で傷は塞がってるよ」
萌は太一を見下ろしながら、少しホッとしたように息を吐いた。
それから二人は、焚き火の残骸のそばでこれからのことについて話し合った。
「これからどうする?」
萌の問いかけに、愛多は現実的な判断を下す。
「さすがに二人はすぐに戦えないし、一度船に戻ってカインさんに報告しよ」
「そうね。あいつ、自分のことを魔神将なんて言ってたから、まだあいつほどの力を持つ奴がいるのかも。それにカオスってやつはあいつより強いわけでしょ?……無理だな、あたし」
萌が肩をすくめると、愛多は「じゃあ、早朝になったらここを出よっか」と頷いた。
――その時だった。
地響きのような、重苦しく大量の足音が遠くから響いてきた。
「魔物っ!?」
二人は同時に弾かれたように反応した。
急いでテントから飛び出す愛多。荒野の奥の方、暗闇でよく見えないが、地平線いっぱいに巨大な土煙が激しく立ち上っているのが見えた。
愛多はすぐさまテントへと引き返す。
「萌っ! 魔物の大群がこっちにきてる! 早く荷物をまとめて逃げよう!」
「まじ!? やばいじゃん!」
萌は悲鳴を上げながら、横になっていた太一と広臣を魔法でふわりと持ち上げた。その間に、愛多が手際よくマジックバッグへと残りの荷物を詰め込んでいく。
準備を終え、二人は夜の荒野を必死に走り出した。
「なにか飛べる魔法とかないの!?」
走りながら愛多が叫ぶ。
「さすがに全員は飛ばせないよ!」
萌が息を切らしながら返した。
愛多が走りながら後ろを確認する。迫り来る土煙は確実に距離を詰めていた。
(どうしよ! このままじゃ、みんな追いつかれて……)
愛多は少しの間、走りながら思考を巡らせた。そして、意を決したようにピタリと走るのをやめた。
「え? え? 愛多!?」
突然のことに驚き、萌も引きずられるように足を止める。
「止まらないで! 走って!」
愛多が鋭く叫んだ。
「え? なんで!?」
「私がここで食い止める。だから、二人を船に運んで!」
愛多の言葉に、萌は目を剥いた。
「は!? 何言ってんのよ! 置いてけるわけないでしょ!」
そんな萌に向かって、愛多はいつもと変わらない、優しい笑みをニコッと浮かべてみせた。
「大丈夫! 私は死なないから!」
その強い瞳に、萌は唇を噛み締め、覚悟を決めた。
「わかった……。船で待ってるから!」
萌はそう言い残すと、二人を浮かせたまま再び前を向いて全力で走り去っていった。
一人残された愛多は、魔物の群れが迫る方へと振り返る。その顔から、先ほどの笑みは完全に消え去っていた。
彼女は両手を前に突き出し、全身から目も眩むような青白い神力を一気に解放した。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「萌たち、無事に逃げられたかな……」
愛多が掠れた声で呟いた。
彼女の目の前には、見渡す限りの魔物の死体の山が築き上げられていた。
「はあ……はあ……」
激しく息を切らし、愛多はその場にガクリと膝をつく。全身から溢れていた青白いオーラは、もうほとんど消失しかけていた。神力を使い果たしたのだ。
「まさか、これほどとはね」
静寂の戻った荒野に、パチパチと場違いな拍手の音が響いた。
愛多がハッとして声のする方向へと顔を上げる。死体の山の上、月明かりを背に受けて、一人の影が立っていた。
「誰……!?」
愛多が警戒を強めると、影はかけていた眼鏡を片手で器用に直しながら、優雅に一礼した。
「これは失礼。私は魔神将が一人、風柱のバロンと申します」
「魔神……将……」
その不吉な名に、愛多の胸に冷たい絶望が走る。
バロンは死体の山から滑るように降りてくると、淡々と語りかけた。
「ライガたちとの戦闘は見ていましたよ。四人とはいえ、あのライガを打ち倒すとは……。実にありがたい!」
その言葉を聞き、愛多は怒りを滲ませてバロンを睨みつけた。
「あなたも……。あなたも仲間を何とも思わないのね」
「仲間?」
バロンは心底おかしそうに首を傾げた。
「ライガが仲間なわけがないでしょう? 彼のことは、魔神将の中でも一番死んでほしいと思っていましたよ」
「なんて……人なの……」
「人? 私は魔神ですよ。おっと、少し喋りすぎましたね。あなたを早く倒さないと、部下に怒られてしまいます。――逃げたあなたの仲間を追っている、部下にね」
その言葉に、愛多は限界まで目を見開いた。
「萌!?」
思わず後ろを振り返り、駆け出そうとする愛多。しかし、バロンは冷酷にそれを遮った。
「おおっと! 追いかけても無駄ですよ? その前に私があなたを殺しますしね?」
バロンは静かに右手を天へと掲げた。その手のひらの上には、目に見えるほど高密度に圧縮された風の塊が、キチキチと音を立てて現れる。
「知ってますか? 極限に薄く伸ばした風は、たとえそよ風であっても容易に肉体を切ることができる。そして、それを高速で放ったらどうなるか?」
愛多は残された力を振り絞り、急いで防壁の構えを取る。
「無駄ですよ。どんな防御も綺麗に切り裂くのが私の風ですからね。死んだことすらわからないでしょうから、感謝してほしいくらいですね」
バロンの目が冷たく光る。
「では、さようなら」
バロンが手を振り下ろすと同時に、手の上に出していた不可視の凶刃が、猛烈な速度で愛多に向かって放たれた。
死の風が愛多の身体に到達する、まさにその寸前――。
空間を割って、一人の男が愛多の目の前に立ち塞がった。
男は手にした刀を一閃させる。黄金に輝くその大刀は、あらゆる防御を切り裂くはずのバロンの風を、正面から跡形もなく一刀両断に切り伏せた。
爆風が吹き抜ける中、愛多はその広い背中を見つめ、目から大粒の涙を溢れさせた。
「空井……くん……?」
男――奏多は、刀を構えたまま後ろを振り返ることなく、静かに答えた。
「大丈夫か? 委員長」
突然の乱入者、それも自身の風を容易く打ち消した男を前に、バロンの余裕に満ちた表情が初めて崩れた。
「な、何だ貴様!? どこから現れた!」
奏多は黄金の刀を緩く構え直し、鋭い眼光で魔神将を見据えた。
「俺はアリスティアの魔王、空井奏多だ」




