女神イリス
虚空が歪み、そこから現れた人物は、まるで見えない階段を降りるように空を歩いてきた。
いつの間にか空中に豪奢な椅子とテーブルが浮き上がり、そこへ優雅に腰を下ろす一人の少女。
「こないだぶりね。オウちゃん」
鈴を転がすような声で少女は言った。
奏多はその光景に言葉を失っていた。眼前にいる少女の顔が、自分のよく知る人物にあまりにもそっくりだったからだ。
「ア、アリス……?」
奏多の呟きに、広臣の浄化を必死に続けていたアリスも顔を上げる。
「え……? 私と同じ顔……?」
「いいえ。私はそこにいるアリスちゃんとは別人よ」
少女は人差し指を顎に当て、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「うーん、簡単に言うなら、アリスちゃんは私の末裔みたいなところかしらね?」
「なんだって?」
奏多とクルスが同時に声を上げる。
「……ってことは、あんたが先代の魔王なのか?」
奏多の問いに、少女は小馬鹿にしたように肩を震わせた。
「そんなわけないじゃない。先代も、私の末裔よ」
「あやつは、人間たちが女神と崇める存在――イリスだ」
オウが忌々しそうに吐き捨てた。
「イリスだって!?」
一同に戦慄が走る。
「そう。女神イリス様よ。あんまり顔は出したくなかったんだけど、今回は仕方なく来ちゃった」
イリスは可愛らしく舌を出して見せる。
「おそらく、あやつが勇者になんらかの干渉をしたのじゃろう」
オウの言葉を聞いた瞬間、奏多の心に激しい怒りが燃え上がった。
「お前が……甲斐をあんな姿にしたのかっ!!」
「なによぉ。私が直接手を出したわけじゃないからいいじゃない。あくまで『加護』の範疇でしょ?」
ヘラヘラとした態度のイリス。だが、その瞳の奥には冷酷な光が宿っている。
「私に害を与えかねない存在がこの島にいるんだから、少しは力を貸さないとね」
「その加護すらも、我らの前には無意味だったな」
オウが勝ち誇ったように告げると、イリスはつまらなそうに溜息をついた。
「そうよねぇ。だから今回は、一旦引き上げさせてもらうわ」
そう言って、彼女が不意に手招きをする。
上空から、一筋の光が音もなく降り立ち、砂浜にその姿を現した。
「なっ……。委員長……か?」
そこに立っていたのは、白い修道服に身を包んだ聖女、夢野愛多だった。
「夢野! やっと来たか!」
「愛多、ちょっと助けてよぉ!」
太一と萌が救いを求めて叫ぶ。しかし、愛多はその呼びかけに見向きもせず、操り人形のような足取りでイリスのもとへ歩いていく。
「なんだ? 様子がおかしいぞ」
「完全にイリスのやつに『入られて』おるな。マナを完全に支配されている。今のあやつには、イリスの声しか聞こえんだろうよ」
オウの言葉通り、愛多は虚空を見つめたまま、イリスの前に直立した。
「愛多ちゃん、やっと来たわね。ここにいる人間の兵士たちを全員連れて帰ってくれない? あ、広臣ちゃんもね」
イリスの指示を受け、愛多は黙って両手を天に掲げた。
瞬間、島のあちこちにいたアインシアの兵士たち、そして拘束されていた太一、萌、気絶した広臣が眩い光に包まれ、ふわりと浮かび上がっていく。
「は? なんだこれ! おい、夢野、何しやがる!」
太一の怒声も虚しく、彼らの姿は次の瞬間、霧が晴れるように消え去った。
「じゃあ、私もそろそろ帰るね。バイバイ」
イリスの姿も、椅子やテーブルと共に透き通り、虚空へと溶けていく。
残されたのは、静まり返った浜辺と、立ち尽くす島の人々だけだった。
「アリス!」
緊張の糸が切れたように倒れ込んだアリスを、奏多が慌てて抱きかかえる。
腕の中のアリスは、微かにスースーと寝息を立てていた。
「神力の使いすぎだな。真なる魔王とはいえ成り立ての身。全開で使えば、反動でこうなるのは自明よ」
オウの言葉に、奏多は安堵の溜息をつき、アリスを優しく見つめた。
「アリス……」
「ともあれ、一旦の脅威は去ったようじゃな。塔に戻って、傷ついた者たちを運び出すぞ」
クルスの指示に、奏多は深く頷いた。
「ああ、行こう」
奏多はアリスを大切に抱き上げ、皆と共に、勝利と課題の残った戦場を後にした。




