女神対勇者
「では、ゆくぞ」
竜神が厳かに告げ、その鋭く長い爪で空間を無造作に引き裂いた。ピシッ、とガラスが割れるような乾いた音が響き、漆黒の亀裂が広がる。
「ここを潜った真下にカオスがいる。気を抜くな」
「僕が先にいく!」
広臣が迷いなくその穴へと飛び込んだ。続けて奏多、ドラコ、愛多、そして最後に竜神が、割れた次元の穴へと次々に身を投じていく。
光のトンネルを抜けた先――そこは、レグド大陸の中央に位置するカオスの居城の、はるか上空だった。
「どうだ?」
奏多が鋭い視線を下に向けながら尋ねる。
「あそこにいる!」
広臣が叫び、指をさした。
遥か真下に見える古びた城。その最上階から不気味に突き出したバルコニーの上に、カオスは立っていた。奴はまるで彼らが来るのを最初から知っていたかのように、空を見上げ、薄気味悪く口角を上げて待ち構えている。
「いくぞッ!」
下降しながら、広臣が腰の聖剣を限界まで引き抜いた。
キンッ……。
その刹那、世界のすべての音が消え、大気の流れが完全に停止した。広臣が真の勇者として覚醒させた『時間停止』。この世界で動けるのは、ただ一人、広臣のみとなった。
「これで決めてやるッ! はぁぁぁぁぁッ!」
絶対の静寂の中、広臣は流星のごとき速度で急降下する。動きの止まったカオスの首筋を狙い、全力の魔力を込めて聖剣を振り下ろした。
「――カミノダンザイ!」
完璧な一撃。しかし――。
カアンッ!!!!
静止した世界に、あり得ない金属音が激しく鳴り響いた。
「なっ……!?」
広臣が驚愕に目を見開く。
カオスの目の前に、いきなり割り込むようにして現れた人物がいた。生気を完全に失い、虚無の表情で虚空を見つめる少女――アリスだった。
「何人も動けないはずの、この空間で……!?」
アリスは何も言わず、ただ虚ろな目のまま、周囲に見えない強固な防御結界を展開して広臣の聖剣を完璧に受け止めていた。
「……お母さんの力は、君だけのものじゃないよ」
いきなり、時間が止まっているはずの空間に、カオスの余裕に満ちた声が響き渡った。
「カオス!?」
広臣は即座に間合いを離し、バルコニーの端へと着地する。
「お母さん(イリス)の力で復活してるんだ。僕にそれが効くと思った?」
カオスはひょいっと首を傾げると、何事もなかったかのように滑らかに動き出した。
「……くっ!」
これ以上の維持は無意味と判断し、広臣は時間停止を解除する。
一瞬にして空気が激しく動き出し、上空から奏多たちも次々とバルコニーへ降り立ってきた。
「やはりか……」
敵の陣形を見た竜神が、忌々しげに声を漏らす。
「ふっ。君の入れ知恵にしては、少し工夫が足りないね」
カオスが竜神に向かって挑発的に微笑む。
「安心しろ。お前を倒すのはこっちの奏多だ」
竜神が不敵に言い返す。
「へえ、面白いね。でも、それはこの子が許さないんじゃない?」
カオスが隣のアリスの肩にそっと手を置いた。
「アリス……!」
奏多が声を絞り出すが、その言葉にアリスは眉一つ動かさず、一切の反応を示さない。
「その混ぜ物は勇者が倒し、アリスは必ず取り戻す。だから安心してカオスを倒せ、奏多」
竜神の頼もしい言葉に、奏多は小さく息を吐いた。
「……ああ。甲斐……頼む」
「任せろ……!」
広臣は聖剣を握る手にぐっと力を込め、アリスを見据えた。
「よし。俺様たちは下にいる雑魚どもを一掃してこよう。ここから先は、俺様たちでは立ち入れない領域だ」
竜神が翼を広げ、そのままバルコニーから飛び立つ。
「生きて帰れよ! 奏多! 広臣!」
ドラコも獰猛に笑いながら、竜神の後に続いて戦場へと舞い降りていく。
「絶対に生きて帰ってくださいね! それと……空井くん! あの、旅の終わりの『返事』も……お願いします!」
愛多は胸の前で祈るように叫ぶと、意を決してバルコニーから遥か下の地上へと飛び降りていった。
残された広臣は、緊張感の中できすこし口元を緩めた。
「これは、無事で帰らないと愛多に呪われそうだな」
「……だな」
奏多もほんの少しだけ、いつもの顔で笑った。
「なんだか、僕を置いて勝手に話が進んでるみたいだけど? ……まあいいや」
カオスは興味を失ったように呟くと、外側に向けてすっと手を伸ばした。そして、開いた手をぎゅっと力強く絞る。
ドガァァァァァンッ!!
その瞬間、遥か遠くに見えていた蠢く魔物集団の一帯が、カオスの魔力によって一瞬で消し飛ばされ、広大な更地が出来上がった。
「あそこでやろうか? 魔王くん」
カオスが不敵に微笑み、その更地へ向けて音もなく飛んでいく。
「アリスを……頼んだぞ」
奏多は広臣に背中で告げると、凄まじい勢いで地面を蹴り、カオスを追って飛び去っていった。
広臣は親友の背中を見送ると、ゆっくりとアリスに向き直った。
「僕たちは、このままここでやろうか。……と言っても、僕たちには場所などどうでもいいよね」
パアン!
広臣が呟いた瞬間、弾けるような音と共に、広臣とアリスを取り囲む空間だけが、現実の景色を無くして境界のない『真っ白な世界』へと変貌していく。勇者の固有結界。
「勇者として、イリス様から与えられた本物の力で……君を倒す」
広臣がまっすぐに剣を突きつける。
「……」
アリスは何も答えず、何もない空間から、禍々しく黒光りする巨大な鎌を静かに取り出した。
「君に時間停止が効かないのなら……これはどうだい!?」
広臣が一瞬でアリスとの距離を詰め、肉眼では捉えられない神速の領域で言い放つ。
「――『止まれ』」
イリスの権能から引き出した【神の真言】。
ギッ……! と音を立て、鎌を構えた姿勢のまま、アリスの動きが完全に硬直する。
その決定的な隙を見逃さず、広臣は聖剣を横一閃に鋭く振り抜いた。アリスの身体が深く斬り裂かれる。
しかし――。
「……!?」
広臣は手応えの違和感に目を見開いた。斬りつけられたアリスの身体は、血を流すことなく、ドロドロとした黒い泥のように地面へと沈み込んで消えていったのだ。影武者。
「――『動くな』」
突如、広臣の真後ろからアリスの声が冷酷に響いた。
「くっ……!」
世界のルールが上書きされ、広臣の身体が金縛りにあったようにピキリと動かなくなる。
「『動……け』っ!!」
広臣は己の勇者のマナを爆発させ、強引に呪縛をねじ切った。
カアンッ!!!
振り返りざま、眼前に迫っていた巨大な鎌の刃を、間一髪のところで聖剣の腹で受け止める。凄まじい火花が散る。
「神の真言は……君も使えるのか……」
広臣が冷や汗を流しながら呟く。鍔迫り合いの最中、アリスの虚ろな唇が小さく動いた。
「――『爆ぜろ』」
ボンッ!!!!
「ぐぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
至近距離で空間が爆裂し、広臣の左腕が肩口から無惨に吹き飛んだ。衝撃で後ろへと激しく吹き飛ばされ、地面に倒れ込む広臣。激痛が走る。しかし、彼はすぐさま残った右手で聖剣を掲げ、叫んだ。
「――『戻れ』!」
神の真言による事象の改変。吹き飛んだはずの左腕が、肉と骨を急速に再生させ、瞬時に元の通りへと繋がっていく。
「ふう……っ、危なかった……」
広臣は立ち上がり、肩を回しながら冷や汗を拭う。
「困ったね……これじゃ、お互いに能力を打ち消し合って埒が明かない……」
アリスはそんな広臣の様子を見ても表情を変えず、黙ったまま再び鎌を構え、一定の足取りでこちらに向かって歩いてくる。
「ふう……」
広臣は深く息を吐き、聖剣を両手で正しく構え直した。力任せの破壊ではなく、彼女を救うための緻密な奇跡。
「君の中の……魔神のマナだけを斬る。――『神の真鏡』」
広臣が静かに剣を振るうと、目に見えない神聖な光の波がアリスの身体を透過した。
その瞬間、淡々と歩いていたアリスの足がピタリと止まり、彼女の身体が「くっ……!」と激しく激痛に歪んだ。
「く……うぁぁ、あぁぉぉぉぉあぁぁぁッ!!」
アリスが頭を抱えて苦痛の咆哮を上げる。すると、彼女の白い肌の隙間から、これまで彼女を縛り付けていたドス黒い魔神のマナが、まるで生き物のように体外へと浮き出てきた。
「――『消えろ』」
広臣がその黒い霧を指さして宣告する。
神の言葉に従うように、浮き出た黒いマナは空間ごとぎゅっと小さくねじ切られ、跡形もなく完全に消滅した。
すべての呪縛から解放されたアリスは、そのまま糸が切れた人形のように、バタッとその場に倒れ込む。
「はあ……はあ……。これで、君の中の魔神のマナは取り除いた。……あとは、イリス様を……」
広臣は息を荒くしながら駆け寄り、倒れたアリスの身体を優しく抱き寄せた。
――その時だった。
広臣の手から、突如として聖剣がパッと離れ、意志を持つかのように空中へとぷかぷかと浮かび上がった。
「……なんだ……?」
広臣が怪訝そうにそれを見上げる。
すると、グググ、ギチギチと音を立てて、聖剣の美しい白銀のフォルムが歪に変化し始めた。
「どうしたんだ、僕の剣は……!?」
その時、広臣の腕の中に抱えられていたアリスが、「ゴホッ、ゴホッ!」と激しく咳き込みながら、うっすらと意識を取り戻した。その瞳には、先ほどまでの虚無はなく、いつものアリスの光が戻っていた。
「アリス!? 大丈夫かい!?」
「……え……ええ。ずっと、体の中から見てました……広臣さん……っ。はやく、その聖剣から離れてください……!」
「え?」一瞬の困惑の後、広臣はアリスの緊迫した声に従った。「わかった!」
広臣はアリスを抱きかかえたまま、即座に少し離れた安全な位置へと空間転移する。
「一体どうしたんだ、僕の聖剣は……!」
「私の中に植え付けられていた、カオスと女神の『核』が……強引に引き剥がされた反動で、その聖剣へと転移してしまいました……。私にも、あれがどうなってしまうのか……っ」
アリスの言葉通り、浮かび上がる聖剣は徐々に禍々しい闇の光を放ち、変貌を遂げていく。
ドクン、ドクン……。
まるで生き物のようなおぞましい鼓動を刻み、白銀の輝きは完全に失われ、血のように赤黒く歪んだ『魔剣』へと姿を変えてしまった。
そして――シュン。
不気味な風切り音と共に、その赤黒い剣は空間から完全に姿を消した。
「消えた……!? どこへ行ったんだ!」
広臣が周囲を見渡す。
アリスは息を整えながら、奏多が向かったはるか彼方の戦場へと視線を向けた。
「おそらく……カオスのところへ……」




