女神の血
「カオス……。あなたが……。なんでオウちゃんの身体を……!」
アリスは怒りと恐怖に声を震わせ、目の前の怪物を鋭く睨みつけた。
「これかい? たまたま僕がユグドラシルを核にして復活しようとしたところで、こいつが自ら核になって大樹を繋ぎ止めていたんだよ」
カオスは自分の顔をパタパタと触りながら、さも愉快そうに告げた。
「オウちゃんが……!?」
「そう。おそらくユグドラシルの核が破壊されたタイミングで、自分自身を新たな核に据えて世界樹の崩壊を食い止めたんだろう。自己犠牲の精神ってやつかな? そのおかげで、僕が目覚めた時には精霊王の力まで丸ごと手に入れられたんだから、感謝しか無いよね」
カオスの言葉に、アリスの胸を激しい激痛が突き刺す。オウは命を懸けてみんなを守ろうとしたのだ。それを、この魔神王は最悪の形で利用した。
「オウちゃんを……返してください!」
アリスの叫びとともに、彼女の背中から光り輝く巨大な白い手が二本、奔流のように出現した。
それを見たカオスは、口元をさらに深く、不気味にニヤリと吊り上げる。
「やっぱり……。ここへ降りてきた時からイリスの匂いがしたと思ったんだ。いいね、君のことも……欲しいなあ!」
カオスの貪欲な視線がアリスを射抜く。そのおぞましいマナのプレッシャーに、アリスは思わず背筋がゾクッと凍りつくのを感じた。
だが、恐怖を噛み殺して地を蹴る。
「このっ……!」
アリスは一気にカオスとの距離を詰め、背後の巨大な白い手を力任せに振り下ろした。凄まじい質量を持った神聖な拳がカオスを粉砕せんと襲いかかる。
しかし、その拳は頑強な手応えを残すことなく、虚しく空を切った。目の前にいたはずのカオスの姿が、かき消えるように消滅したのだ。
「使い方がなってないなあ」
いきなり、アリスのすぐ耳元でカオスの嘲笑うような声が響いた。
「――っ!」
アリスは心臓を跳ね上がらせ、バッと勢いよく振り返りざま、白い手で鋭い裏拳を叩き込んだ。空間を裂くような一撃だったが、カオスは紙一重のところで予測していたかのように、瞬時に後ろへ下がってそれをかわした。
「うーん……。そうだ! 君のことはここで吸収しちゃうよりも、僕の配下にしよう! うん、それがいい!」
カオスは名案を思いついた子供のように、無邪気にポンと手を叩いた。
「……何を勝手なことを……!」
「君はお母さんの血を強く引いているみたいだからね。しかも、その神聖なマナの濃度は、分体である僕なんかよりもずっと濃い。そんな君が、僕の力で『魔神の女神』として世界に君臨したら、最高に面白いと思わない?」
「そんなことになるわけないでしょ!」
アリスは激昂し、腰から美しく輝くレイピアを一気に引き抜いた。
自身の全マナ――純白の神力を刃へと限界まで込める。すると、アリスの意思に呼応するように、背後の白い手にも神力で形成された巨大な光のレイピアが出現した。
「はぁぁぁぁぁッ!!!!」
鋭い呼気とともに、アリスは高速の刺突を突き出した。その動きに完全にシンクロし、巨大な白い手もまた、カオス目掛けて光のレイピアを猛烈な速度で何度も突き立てる。空間が白い光の軌跡で埋め尽くされていく。
「だから……無駄だって言っているのに」
光の嵐の真ん中で、カオスが退屈そうに呟いた。
「『アビスサイズ』」
カオスが短く呪文を口にすると、その手に赤黒く禍々しく湾曲した巨大な大鎌が出現した。
カオスはその鎌を、軽々と横一閃に振り抜いた。
パリーンッ!!!!
ガラスが派手に砕け散るような高い音が響き渡る。アリスが渾身の神力を込めて放った巨大な白い手は、そのレイピアごと、一瞬で光の破片となって粉々に割れ砕けてしまった。
「なっ……!?」
圧倒的な力の差に、アリスは息を呑んで立ち尽くす。
「どう? いい加減、力の差ってやつが分かったかな?」
カオスは冷ややかに微笑み、さらに何かを閃いたように首を傾げた。
「んー……。あ、そうだ! お母さんへの親和性がそれだけ高いなら……これを使えば確実だね」
カオスが呟き、次の瞬間、自身の右手を躊躇なく己の胸へと突き刺した。
ズブッッ!!
生々しい肉の裂ける音が響き渡る。
「な、何をしているんですか……!?」
自傷行為とも取れる狂った奇行に、アリスは戦慄して声を上げた。
カオスは胸に手を埋めたまま、血の泡を吐く代わりに歪な笑みをアリスに向けた。
「いいから、そこで見てなよ」
グジュグジュ、グジュグジュ……。
カオスは自身の胸の中で、何かを探るように生々しい音を立てて右手を動かす。
「んー……あった! これだ」
カオスが満足そうに呟き、胸の奥から勢いよく右手を引き抜いた。
ズボッ!! と音を立てて出てきたカオスの手には、妖しく輝く「青白い透明な玉」が握られていた。
カオスはその玉を掲げながら、アリスに見せつけるように言った。
「これ、お母さんの核だよ。こいつに……」
カオスが空いている左手を、その青白い核にかざす。
バチッ! バチバチッ!!!!
凄まじい音とともに、カオスの手から赤黒い電流のような禍々しい魔力が流れ出し、核を包み込んでいく。青白く神聖だった球体は、魔神王のマナに侵食され、みるみるうちに赤黒く、そして深い紫色を帯びた不気味な呪いの玉へと変質していった。
カオスはその玉に顔を近づけ、うっとりとした表情で囁く。
「ふふっ。できた」
「なんですか、それは……」
アリスが恐怖で声を震わせた、まさにその瞬間だった。
彼女の視界にいたカオスの姿が再び掻き消え――直後、そっとアリスの肩に冷たい手が触れた。
「はっ……!?」
気づいた時には、すでにカオスはアリスの背後に立っていた。完全に気配を絶たれ、反応することすらできなかった。
「僕のマナをたっぷりと混ぜた、お母さんの核さ。そしてこれを……ね?」
カオスがアリスの耳元で愛悪に囁く。
アリスは全身を未知の力で押さえつけられ、カオスの手に掴まれたまま指一本、身動きすら取れなくなっていた。
カオスは冷酷に右手を突き出し、紫色の核を、アリスの背中へと強引に押し込んでいく。
ズブズブズブ……!
「ぐっ……!? ――あ、あああああああッ!!!!」
身体の芯をドス黒い魔力で内側から焼き焦がされるような、凄絶な苦しみがアリスを襲った。
「なん……ですか……これ……っ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
アリスは狂ったように絶叫し、その場でのけ反る。全身の血液が魔神の力へと作り変えられていくような感覚。視界が急速に真っ黒に染まっていく。
「おやすみなさい、アリス」
脳裏に響くカオスの冷たい声を最後に、アリスの意識は深い闇の底へと途絶えた。




