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第9話「元同僚・桐嶋が頭を下げた理由」

お読みいただきありがとうございます。


かつて蓮を「スキルなし」と見下していた元同僚・桐嶋。

彼が突然訪ねてきた裏には、巨大ギルドの「外圧」がありました。

月曜日の夕方、インターホンが鳴った。


 モニターを見た時、蓮はすぐに誰かわかった。


 桐嶋だった。


---


 桐嶋 悠——第三支部の所属探索者で、蓮と同い年の二十七歳だった。炎属性・A級のスキル持ちで、支部内では笹岡の次に発言力が強かった。


 一番印象に残っているのは、入職二年目の秋だった。仕事が終わらず深夜まで残っていた蓮のデスクに来て、「お前みたいなスキルなしに用はない」と言い捨てて帰った。用があって来たわけでも、伝えることがあったわけでもなかった。通りがかりに言っただけだった。


 蓮はその時、何も言い返せなかった。


 笑顔を作ることにも疲れていた夜だったので、ただ頷いた。頷くことしかできなかった。翌日も、その翌日も、そのことを考えなかった。考えないようにしていた、という方が正確かもしれない。


 その後、桐嶋はことあるごとに蓮を「事務のスキルなし」と呼んだ。悪意があったかどうかはわからない。ただそういう言い方が当たり前だと思っていたのだろう。笹岡も同じような扱いをしていたし、支部の文化がそうだった。探索者は戦える者、事務はそれ以外——という区分が、あの支部には根付いていた。


 その男が、今、インターホンの前に立っていた。


---


 少し考えた。


 出ないという選択肢もあった。無視して、インターホンを切ってもよかった。だが来た人間を確認しておくことは、今後の判断に使えるかもしれない。何の用で来たのかを知ることの方が、出ないよりも情報量が増える。


「はい」


 インターホン越しに声を出した。桐嶋が少し反応した。


「……俺だ。桐嶋だ」


「わかっています」


「少し話せるか」


 蓮は扉を開けた。


---


「……出るか出ないか、少し迷いましたが」


 扉を開けると、桐嶋は開口一番そう言った。


 スーツではなく私服だった。探索者の戦闘装備でもない。薄いジャケットにジーンズ。どこにでもいる二十代の男だった。顎のあたりが少し緊張で張っていた。


「中に入りますか」


「……いや。玄関先で済む話だ」


 蓮は扉を少し開けたまま待った。


 桐嶋は目線をわずかに落として、それから上げた。


「謝りに来た」


「はい」


「入職した頃から、お前のことをスキルなし扱いしていた。用はないとも言った。あの言い方は——よくなかった」


「受け取りました」


 蓮は静かに言った。


「それだけですか」


「それだけです」


 桐嶋が少し眉を動かした。何かを期待していたかもしれない。怒鳴り返される、あるいは泣いて許す、あるいはもっと感情的な反応。どちらでもなかったことが、かえって居心地悪そうだった。


---


「なぜ来たんですか」


 蓮は聞いた。


「謝りに来た、と言っただろう」


「理由を聞いています」


 短い沈黙があった。桐嶋が唇を少し動かした。


「……剣聖会の御堂さんに言われた」


 声が少し落ちた。


「あの男を敵に回すな、と。敵にするつもりがあるなら今のうちに頭を下げておけ、とも言われた」


「そのためだけに来たんですか」


「……」


「御堂さんに言われなければ、来なかったですか」


 桐嶋がまた口を歪めた。今度は怒りの色が強かった。A級の探索者が自分の行動を外から制御されている、という事実が、プライドを刺激しているようだった。


「来なかったかもしれない。だが来た。それは本当だ」


「そうですか」と蓮は言った。「わかりました」


「何がわかったんだ」


「御堂さんに言われたことで来た、というのは正直な答えだと思います。きっかけを隠したり、謝る気がもともとあったふりをしたりしていない。笹岡さんとはそこが違います」


 桐嶋が目を細めた。


「笹岡さんの謝罪は先週受け取りましたが、あの人は自分のために謝りに来ていました。あなたは怖くて来た。両方とも自分の都合で来ているのは同じですが、正直さが違います」


「……それは、評価されているのか貶されているのかどちらだ」


「評価しています」


---


「友人に戻る気はありますか」


 桐嶋が聞いた。低い声だった。プライドと何かの間で揺れている声だった。


「ありません」と蓮は答えた。


「……なぜだ」


「友人だったことがないからです」


 静かな一言だった。


 桐嶋が何かを言おうとして、止まった。


「同じ職場にいた間、私はあなたとほとんど話したことがありません。あなたは私を『事務のスキルなし』と呼んでいた。それは友人関係ではなかった。謝罪は受け取りましたが、なかったものが生まれるわけではない。友人に戻るという選択肢は、元々ありません」


「お前はそれで怒らないのか」


「怒ることに意味がないので」


 蓮は続けた。


「怒ったとして、何かが変わりますか。私があの支部で五年間受けたことは変わりません。あなたが今日来たことも変わりません。事実は事実です。私は怒るより、事実を整理する方が性に合っています」


 桐嶋がしばらく黙った。長い沈黙だった。


 夕方の通りを、自転車が一台通り過ぎた。アパートの廊下で、誰かの部屋から夕食の匂いがした。日常の音が続いていた。


 それから、少し力を抜いた顔をした。怒りと羞恥が引いて、ただ疲れたような顔になった。


「……お前は変わったな」


「変わっていないと思います。五年間ずっとこうでした。ただ言える立場になっただけです」


---


「一つだけ聞いてもいいですか」


 蓮は玄関から半歩出た。


「なんだ」


「桐嶋さんは、なぜ御堂さんの言葉を聞いたんですか。A級の探索者が、誰かの言葉一つで動く理由があるとは思えなくて」


 桐嶋が顔を上げた。


「あの人は怖いからだ」と言った。「俺のA級スキルなんか、まったく関係ない次元の怖さがある。あの人に目をつけられたら、どのギルドでも仕事がなくなる。そういうことができる人間だ」


「御堂さんが、私を気にかけているということですか」


「そう見えた。ただの興味なのか、何か別の理由があるのかはわからないが——お前のことを庇護下に置こうとしているように見えた」


 蓮は少し考えた。御堂が「個人的な判断として来た」と言っていたことを思い出した。剣聖会の組織論理だけでなく、御堂自身が動いている。その理由はまだわからなかったが、桐嶋がここまで来たという事実は、御堂の言葉に相当な重さがあることを示していた。


「教えてくれてありがとうございます」


「……礼を言われる筋合いはない」


「でも参考になりました」


 桐嶋は何か言いたそうな顔で、何も言わずに帰った。その背中が少し丸まっていた。


 A級の探索者の背中が、ああなるということがあるのか、と蓮はぼんやり思った。


---


 玄関を閉めて、蓮は一人になった。


 笹岡の件、桐嶋の件。二件が片付いた。


 笹岡は自分の都合で謝り、自分の都合で床に膝をついた。桐嶋は外圧で来たが、来てから正直だった。二人の「謝罪」の質は違ったが、どちらも受け取った。それ以上でも以下でもなかった。


 ただ、一つだけ残った気持ちがあった。


 入職二年目の夜、「スキルなしに用はない」と言われた時、蓮は何も言い返せなかった。その言葉を信じていた部分があった。用のない人間は黙って働き続ければいいと、自分を納得させていた。


 今は違う。


 御堂が来て、早川が来て、国防省が来て、凛がいる。誰もが蓮を必要として動いている。何が変わったかというと、スキルが生えたことだけだ。でも蓮は同じ蓮だった。


 「スキルなしに用はない」は正確ではなかった。正確に言うなら「スキルがあるかどうかを確認する前から、用がないと決めつけていた」だ。その決めつけの中で五年間生きていた。


 もう少し早く出ていればよかった、とは思う。でも出てきた、ということは事実だ。それでいい。


 手帳を開いて、今日のことを短く記録した。


```

【桐嶋 悠 来訪】

 →謝罪受理

 →御堂誠一の指示で来たことを認める

 →友人関係の申し出:断った(元々なかった)

 →御堂の動向:「庇護下に置こうとしている」と桐嶋の認識

```


 書き終えて、ペンを置いた。


 御堂が動いているということは、今後また何かがある、ということだ。その準備をしておく必要がある。今日はそれだけわかった。


---


 夕食を食べながら、桐嶋のことを少し考えた。


 「お前みたいなスキルなしに用はない」という言葉は、今でも正確に覚えている。言われた夜の、蛍光灯の色と、デスクの上の書類の山と、疲れた手のひらの感触まで。記憶というのは、感情と一緒に保存されるらしい。あの夜の疲労と委縮が、そのまま言葉とセットで残っていた。


 桐嶋は謝った。外圧があったとはいえ、来た。それは事実だ。


 ただ、事実は変わらない。言われた言葉も、言い返せなかった夜も、変わらない。謝罪を受け取ることと、なかったことにすることは、別の話だ。蓮はそれを混同しないようにしていた。笹岡の件でもそうだった。受け取ることができる。許す必要はない。その区別が、五年間の記憶の中から少しずつ作られてきたものだった。


 凛にメッセージを送った。


「桐嶋さんが来ました。御堂さんに言われたそうです」


「どうでしたか」と凛が返した。


「謝罪は受け取りました。友人に戻る気はありません」


「それでいいと思います」


「そう言ってもらえると確認になります」


「確認のために私を使うのはいいですよ」と凛が返した。


 蓮は少し笑った。


 窓の外は暗くなっていた。退職してから何日か経って、夜が静かになった。笹岡に怒鳴られた記憶が、少しずつ遠くなっていく感じがした。完全に消えはしない。ただ、毎日思い出すものではなくなってきていた。


 「スキルなしに用はない」と言った桐嶋は、今日、用があって来た。それだけのことだ。世界は変わった。自分は変わっていない。ただ、見え方が変わった。それで十分だと思った。

次話:第10話「国防省が、二度目のオファーを持ってきた」


過去の清算を終えた蓮。しかし、世界は彼を放っておいてはくれません。

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