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第8話「凛さんは、なぜ第三支部にいたんですか」

お読みいただきありがとうございます。


自宅を訪れた元同僚・朝霧凛。彼女がなぜ能力を隠して第三支部にいたのか。

そして、彼女がずっと見ていた「あるもの」について語られます。

土曜日の午後、インターホンが鳴った。


 モニターを見ると、凛が立っていた。荷物はない。「忘れ物を取りに来た」という口実もなかった。


「こんにちは。近くまで来たので」


 蓮は少し考えた。「近くまで来た」というのは、凛の家から二駅の距離がある。わざわざ来た、ということだ。昨夜の「練習に同席していいか」というやりとりの続きを話しに来たのかもしれない。あるいは別の何かか。


 いずれにせよ、来たなら通す。それだけのことだ。


「どうぞ」


 扉を開けた。


---


 コーヒーを二人分淹れた。凛はいつものようにソファの端に座り、テーブルに両手を重ねた。


 前回来た時と少し違うのは、今日は話すことを決めてきた顔をしていることだった。何かを準備してきた時の、それとわかる姿勢だった。背筋が少し硬かった。視線が定まっていた。


「ケトル、直りましたか」


「普通に沸きました」


「よかったです」


 凛は安堵した顔をした。


「管理局の設備での練習に同席したいということ、早川さんに確認しました」


「なんと言っていましたか」


「『助かります』と言っていました。一人で練習させるのが不安だったそうです。三メートルの焦げ跡の写真を見せられました」


「写真を撮っていたんですか」と凛が言った。


「職員の方が現場記録として」


「そうですか」


 凛は少し笑った。それからコーヒーを一口飲んで、蓮を見た。


「話があって来ました」


「はい」


「前回言いかけてやめた話です。今日は全部話します」


---


 蓮は黙って待った。


 凛は少し息を整えてから話し始めた。


「私が補助魔法・中級のスキルを持ちながら、なぜ第三支部にいたか、という話です」


「前に少し聞きました」


「今日は、隠しているものも含めて話します」


 蓮はコーヒーカップを置いた。


「最初に配属されたのは本部の管理部門でした。入職して半年後に、A支部からも声がかかりました。スキルと経歴が評価されてのことだったと思います」


「断ったんですか」


「はい。その時は、なんとなく嫌だと思って」


「なんとなく」


「うまく言えないんですけど——何かを待っている感じがしていたんです。自分がどこかに動くより、どこかで何かが来るのを待った方がいい。ただそう感じた。理由はありませんでした」


 蓮は黙って聞いていた。凛が続けた。


「その後も何度か異動の話が来ました。B支部からも、本部の別部署からも。その度に断って。上司には理由を言えなかったので、少し肩身が狭かったです。半年ほどそういう状態が続いて——」


「半年間、断り続けながら待っていたんですか」


「はい。おかしいですよね」


「おかしくはないと思います。理由が言えないのは、言語化できないからであって、感じていることが間違いだという意味じゃない」


 凛が少し目を細めた。驚いたような顔だった。


「……続けます」


---


「一年半ほど経った頃、第三支部の事務員が急に辞めて欠員が出ました。私が手を挙げました。本部の上司には『異動したい』とだけ言いました。給与が少し下がることも了承しました。不思議に思われましたが、通りました」


「第三支部を選んだ理由は何かありましたか」


「その時点では、うまく説明できませんでした。ただ、第三支部に行かなければならない、という感覚がありました。漠然と、でも確かに」


 蓮は静かに聞いていた。


「来て数ヶ月後に、あなたに会いました」


 凛の声が少し落ちた。


「第三支部は小さい支部で、事務員も少なかった。あなたとは最初から同じフロアで働いていました。最初は何も感じなかったんですが——一ヶ月ほど経った頃から、あなたの周囲の空気が他の人と違って見え始めた」


「見える、というのは」


「感じる、の方が近いです。目に見えるわけじゃない。ただ、あなたのそばにいると、何かが——充ちていく、増えていくような感覚があった。それが何なのか、その時点ではわかりませんでした」


「でも感じ続けた」


「三年間」


---


 凛はカップを両手で包んだ。


 少し間があった。外の通りを車が過ぎる音がした。


「私の補助魔法には、他者の魔力変化を感知する側面があります。これは公式の能力説明には書かれていません。私だけが感じることかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、あなたから感じていた『充ちていく感覚』は、スキル覚醒前の魔力蓄積だったんだと、今は思っています」


「三年間、誰にも言わなかったんですか」


「言えないじゃないですか、そんなこと」


 凛が少し苦笑した。困り笑いだった。


「スキルなしの同僚に『あなた、そのうちスキルが覚醒しますよ』なんて言ったら変な人です。しかも確信はなかった。私の感覚が正しい保証もなかった。覚醒しなかった場合のことを考えると、とても口には出せませんでした」


「でも当たっていた」


「当たっていました」


 少し間があった。


「退職届を出した日のことを覚えていますか」


「覚えています」


「笹岡さんが怒鳴っていて、フロアの全員が見て見ぬふりをしていた。あなたがエレベーターに乗ろうとした直前に——三年間ずっと感じていた『充ちていく感覚』が、一瞬だけ弾けた」


 蓮は黙っていた。


「覚醒の直前の感覚、と今では思っています。何かが解放された瞬間でした。だから引き止めませんでした。引き止めたら何かが変わってしまう気がして。解放されることが、覚醒の条件だったんだと直感しました」


 そこまで話してから、凛は少し手のひらをテーブルに押しつけた。言い切った、という仕草だった。


---


 蓮はしばらく黙った。


 エレベーターの扉が閉まる直前、凛が「お疲れ様でした」と言った。フロアの全員が黙っている中で、一人だけ言った。あの声が、五年間の記憶の中で唯一まっすぐに届いた言葉だった。


 今の話を聞いて、あの言葉の意味が変わった。


 労いではなかった。同情でもなかった。「行ってきなさい」に近い何かだった。三年間側で見続けてきた人間が、覚悟を持って送り出した声だった。


 あの日のフロアに、ただの傍観者ではなく、意味を持って見ていた人間がいた。そのことが、今になってようやくわかった。


「……引き止めなかったことへの謝罪は、するつもりはありません」


 凛が続けた。


「引き止めた方がよかったとは思っていない。ただ、事情を先に話せなかったことは——申し訳なかったと思っています」


「いいえ」と蓮は言った。「話してもらえなかったとしても、怒る理由がありません。あなたは判断して、正しかった。それだけです」


 凛が少し黙った。窓の外で、秋の風が木の葉を揺らす音がした。


---


「一つだけ聞いていいですか」と蓮は言った。


「はい」


「あなたが待っていたのは——スキルが覚醒する人間ですか。それとも私ですか」


 凛はしばらく黙っていた。長い沈黙だった。


 それから、少し目を逸らして、また蓮を見た。


「……うまく言えません」


「わかりました」


「また今日もうまく言えなくて申し訳ないです」


「いいえ」と蓮は言った。「うまく言えないことは、嘘よりずっといい。笹岡さんはうまい言葉ばかり使っていた。意味のない言葉でも、うまく言えば相手をごまかせると思っていた。あなたのうまく言えない、の方が、私には伝わります」


 凛が少し顔を上げた。目が少し潤んでいた。


「……ありがとうございます」


---


 少しの間、部屋が静かだった。


 時計の音だけがあった。ギルドの事務室はいつもうるさかった。電話が鳴り続け、笹岡が怒鳴り、探索者が出入りして、常に何かが動いていた。こんなふうに、ただ静かに誰かと同じ空間にいるということが、いつぶりかわからなかった。


 凛がいることが、自然だった。


 その自然さが、少し大事なものに思えた。


 コーヒーカップが少し冷めていた。蓮はもう一杯淹れようかと思って、凛にも聞いた。


「もう一杯いりますか」


「いただきます」


 台所に立ちながら、三年間ということを考えた。三年間、凛は何も言わなかった。感じていた。見ていた。黙っていた。そして最後に、一言だけ送り出した。


 その一言に、三年分の重さがあったということだ。


---


 二杯目のコーヒーを持って戻ると、凛が窓の外を見ていた。秋の午後の光が部屋に入っていた。


「あの頃、蓮さんは毎日残っていましたよね」と凛が言った。


「ほとんど毎日でした」


「笹岡さんに怒鳴られた翌日も、表情が変わらなかった。怒っているかどうかもわからなくて」


「怒っていました。ただ、表に出しても何も変わらないので」


「そういうことですか」


 凛はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。


「私は怒っていましたよ。見ていて」


「凛さんが」


「あなたが怒らないので、私が代わりに怒っているような気持ちでいました。変ですね」


「変じゃないと思います」


 蓮はソファの端に座った。


「ただ、代わりに怒っていただく必要はなかったです。蓮さんが自分で判断して出て行ったんですから」


「それはわかっています」と凛は言った。「でも当時は——心配していました。あのままずっとあそこにいるんじゃないかと」


「三年間、ずっとですか」


「ずっと」


 少し間があった。


「心配させてしまいました」


「いいえ」と凛は言った。「結果はよかった。それで十分です」


 凛は少し微笑んだ。それからコーヒーをもう一口飲んで、窓の外に視線を向けた。秋の午後の光が斜めになっていた。もうすぐ夕方になる。


 蓮は何も言わなかった。このまま黙って同じ空気を吸っていることが、特別に難しいことではなかった。

次話:第9話「元同僚・桐嶋が頭を下げた理由」


静かな夜の対話の次は、またしても「過去」からの来訪者が現れます。

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