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第6話「笹岡さんが土下座に来た」

お読みいただきありがとうございます。


退職して十日。ようやく手にした平穏な日常の中で、かつて自分を使い潰した元上司と意外な再会を果たします。蓮の「事務的な」対応をお楽しみください。

退職してから十日が経った。


 有給消化の日々は、意外なほど静かだった。


 起きたい時に起き、食べたい時に食べ、調べたいことを調べる。笹岡に「今日中にやっておけ」と言われた仕事も、誰かの代わりに謝る書類もなかった。静かすぎて、最初の三日間は夜になると何か忘れ物をしているような感覚があった。


 それが「普通の生活」だと気づくのに、少し時間がかかった。


---


 その日の昼過ぎ、蓮は近所のコンビニに出かけた。昼食を買うためだけだった。


 晴れていた。秋の昼の空気で、コンビニの自動扉が開いた瞬間に冷気が流れてきた。惣菜コーナーに向かいながら、何を食べようかと考えた。昨日は卵焼きを買ったから今日は別のものにしようか。そういう、ごく普通の判断だった。


 冷蔵コーナーで惣菜を選んでいると、背後に人の気配がした。


 振り返った。


 笹岡支部長がいた。


---


 一瞬、見間違いかと思った。だがどう見ても笹岡だった。


 よれたスーツ、額の汗、肩から提げた鞄。いつも支部で見ていた姿より少し老けて見えた。頬のあたりが落ちて、目の下に影があった。仕事帰りにしては時間が早い。午後二時だ。支部は今頃、引き継ぎ不足で混乱しているのかもしれなかった。


 引き継ぎ資料を三十二ページ作ったのに、使えていないのだとしたら、それは使わない方の問題だと蓮は思った。


「柏木」


 笹岡が声をかけてきた。蓮は惣菜をカゴに入れながら答えた。


「こんにちは」


「ちょっと待ってくれ。頼む」


 笹岡がにじり寄ってきた。蓮はカゴを持ったまま、一歩引いた。


「お話なら電話でどうぞ。今日は昼食を買いに来ただけなので」


「電話は出ないじゃないか」


「業務上の連絡ではないので」


 声が硬くなった。笹岡の顔が赤くなった。コンビニの通路は狭く、レジの近くに立っていた客が二人、こちらをちらりと見た。五十代の男が二十代の元部下に詰め寄っている。見るからに目立つ構図だった。


 笹岡はそれに気づいていないようだった。


「何かご用ですか、笹岡さん」


「……戻ってきてほしいんだ」


「お断りします」


 即答した。笹岡が顔を歪めた。


「待ってくれ。話だけでいい。お前が辞めてから支部が回らなくなっていて、本部からも突き上げを食らっていて——月次の集計表の数式が飛んでいたり、遠征申請のフォームの入力先が変わっていたり、後任のやつが全然わからなくて俺が一から説明しなくちゃいけなくて、本当に困っているんだ」


 蓮は惣菜コーナーの棚を見た。ポテトサラダと卵焼きのどちらにしようか迷いながら、答えた。


「数式が飛んだ原因はわかっていますか」


「え?」


「月次集計表の数式が飛ぶのは、シートの保護設定を解除したまま別のファイルからデータをコピペした場合に起きます」


 笹岡が黙った。


「退職の二日前に、笹岡さんが私のPCを使って他支部の資料からコピーしていたのを覚えていますか。その際に保護設定が外れたようです。対処法はシートタブを右クリックして保護を再設定するだけです。所要時間は三十秒です。引き継ぎ資料のP14に手順を書いてあります」


「P14……」


「遠征申請フォームの入力先変更については、P27にURLと操作手順があります。画面キャプチャつきで説明しています。三十二ページ全部読めば、私がやっていた業務の九割は再現できるはずです」


 コンビニの冷蔵ケースが低く唸っていた。


 笹岡はしばらく何も言えなかった。反論しようとして、できなかった。問題のすべてに、すでに答えが用意されていた。そのことが、どこかで腹立たしかったかもしれない。だが怒鳴る筋でもなかった。


---


 蓮は惣菜の棚に向き直った。卵焼きをカゴに入れた。


「……お前はなんで、そんな冷たいんだ」


 笹岡がようやく声を出した。色は恨みと情けなさの中間だった。


「五年間、面倒を見てやったじゃないか。スキルもないのに雇い続けて、居場所を作ってやって。俺がいなければお前はどこにも行けなかったんだぞ。それなのに急に辞めて——しかもスキルが出たなら、なぜ辞める前に言わなかったんだ。言ってくれれば待遇を考えたのに」


 蓮は飲み物のコーナーに向かいながら、答えた。


「笹岡さんが私を雇ったのは、人手が足りなかったからですよね」


「……それは、まあ、そうだが」


「私がいた五年間、私の仕事で支部の運営は回っていました。月次報告も、遠征管理も、依頼台帳も、探索者との事務連絡も、私が整備して回し続けました。笹岡さんが私の『居場所を作った』のではなく、私が支部に必要な仕事をし続けただけです」


「しかし——」


「スキルが出たのは退職した後の翌朝です。在職中には出ていなかった。在職中に出ていれば、という仮定の話は意味がありません。そして、もし在職中に出ていたとして、それで待遇が変わるのだとしたら、それは五年間の仕事に対する正当な評価ではなく、スキルに対する対価です。私が評価されたのではなく、スキルが評価されただけです」


 笹岡が口を開けた。


「お前……それが恩知らずというものだろう」


「恩を感じる理由がよくわからないのですが、具体的にどういったことですか」


「だから、雇い続けた、ということだ。スキルなしを、五年間も——」


「雇用契約に基づいて、業務を遂行し、給与を受け取りました。そこに恩は発生しませんよね。労働法上、雇用関係は対等です。笹岡さんが私を雇い続けたのは、支部にとって利益があったからです。それ以上でも以下でもありません」


 笹岡が黙った。


 また長い沈黙だった。コンビニのBGMが流れていた。冷蔵ケースがまた唸った。誰かがレジで会計をする音がした。


---


「……わかった。お前の言い分はわかった」と笹岡は言った。「だが俺が本当に困っているのは本当なんだ。頼む」


 次の瞬間、笹岡はその場に膝をついた。


 コンビニの床に、両膝を。


 蓮は思わず周囲を見た。レジの店員が固まっていた。客が三人立ち尽くしていた。入口の方から何かの音がした。


「頼む、柏木。戻ってきてくれ。待遇は上げる。今度こそ残業代もちゃんと出す。役職も考える。お前がいないと俺が上から責め立てられるんだ。毎日だ。毎日怒鳴られている。お前の時と立場が逆になっただけだ。俺だってつらい——」


 土下座だった。


 蓮はそれを見ながら、怒りも優越感も感じなかった。


 ただ、疲れた、と思った。


 この人はまだ同じことをしている。「申し訳なかった」ではなく「頼む」から始まっている。謝っているのではなく、欲しいものを手に入れるために頭を下げているだけだ。手段が土下座に変わっただけで、構造は五年間ずっと同じだった。自分が困っているから相手に何かを求める。それだけだ。


 五年間、その構造の中で働いていた。笹岡が機嫌が悪い日は全員の空気が重くなり、笹岡が怒鳴れば誰も止めなかった。蓮が誰かの代わりに謝り、整理し、補った。その全部が、この構造から来ていた。


「笹岡さん、立ってください」


「頼む——」


「立ってください」


 少し低くなった声で言った。笹岡がびくりとした。


 蓮はしゃがんで、笹岡と目線を合わせた。


「笹岡さんが今困っているのは、業務が属人化していたからです。私一人が全部を抱えていた構造が、私がいなくなって表に出てきた。私が戻れば一時的に解決しますが、同じ構造のままでは私が抜けた時に同じことが繰り返されます」


「……だから戻ってくれれば——」


「私は戻りません。今後もありません。ただ、資料があります。P1からP32まで、全部読んでください。読んでもわからないことがあれば、メールで質問してください。業務上の引き継ぎ確認に限り、返答します」


 蓮は立ち上がった。笹岡はまだ床に膝をついていた。


---


 レジで会計を済ませて出ようとした時、入口近くに須藤が立っていた。


 飲み物を持ったまま固まっていた。


「……見てたんですか」


「たまたまです」と須藤は言った。声が上ずっていた。


「そうですか」


 蓮はコンビニを出た。


 外の空気は秋の昼の空気だった。風が少し冷たかった。コンビニ袋を持ちながら歩いた。惣菜を買えた。それだけのことが今日の目的だったし、それは達成された。


 信号を待ちながら、今の場面を頭の中で処理した。


 笹岡が床に膝をついていた場面を思い返しても、滑稽だとは思わなかった。惨めだとも思わなかった。ただ、自分とは別の話になった、という感覚だけがあった。五年間ずっと笹岡の判断が蓮の行動に影響していた。怒鳴られれば委縮し、機嫌が悪い日は気配を読んで動いた。その関係が今日、完全に終わった。


 笹岡は笹岡の問題を抱えて生きていく。それは蓮の問題ではない。


---


 アパートに帰って昼食を食べた。


 惣菜はちょうどいい温度だった。コーヒーを淹れて、窓の外を見た。平日の昼間に、怒鳴られる心配なく惣菜を食べている。今まで昼休みは「また午後がある」という薄い憂鬱とともに食べていた。今日はそれがなかった。ただ、食べた。


 その夜、須藤からメッセージが来た。


「今日すごかったです。あの笹岡さんが床に膝ついてるの、入社してから一度も見たことなかったです。ドラマみたいでした」


 蓮は既読をつけた。


 返信はしなかった。するべき言葉が思いつかなかった。ドラマのようだとは感じなかった。ドラマであれば、主人公は勝利を噛みしめるはずだ。蓮はそれをしなかった。ただ終わった、という感覚だけがあった。


 コーヒーを飲みながら、凛に短くメッセージを送った。


「今日、笹岡さんに会いました。コンビニで土下座されました」


「どうでしたか」と三分後に凛が返した。


「終わった感じがしました。こちらから何かをしたわけじゃなくて、ただ事実を言っただけなのに、それだけで片がついた」


「それがあなたのやり方だと思います」


「やり方、というほど意識していませんでした」


「それがいいんだと思います」と凛が返した。


 窓の外は、夜の秋晴れだった。


 街の灯りが遠くに見えた。いつもと同じ景色だった。ただ、見ている自分が少し違う場所にいる気がした。


次話:第7話「魔法というのは、どうやって使うのか」


※毎日19時頃に更新中です!

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