第4話「なぜ断るんですか」
お読みいただきありがとうございます。
国防省から届いた書類の不備に、元事務員としての血が騒ぐ蓮。
そんな折、元同僚の朝霧凛から連絡が入ります。
彼女だけに見せる、蓮の本音についてのお話です。
土曜日の午後、蓮は国防省の公文書をもう一度読んだ。
「別紙参照」の別紙は、やはり入っていなかった。封筒の中を確認し、裏表を確かめ、もう一度確認した。ない。事務員として、公文書の不備を黙って受け取ることには体が反応した。送付漏れを放置したまま期限だけ通知してくる——それは要求する側の怠慢だ。
蓮は「別紙未封入の旨を来週の管理局面談で確認する」とノートに書いた。それから公文書に「別紙未添付・確認待ち」と走り書きして、テーブルの端に置いた。
これ以上今日できることはなかった。
コーヒーを淹れて、窓の外を見た。秋の土曜日の午後は、穏やかだった。どこかで子どもが走り回っている声がした。
五年前、土曜日の午後を窓の外で過ごした記憶がほとんどなかった。週末も半分以上は出勤していた。残りの半分は翌週の笹岡の怒鳴り声に備えて、資料の確認に費やした。休んでいる、という感覚が年々薄れていって、最後は「平日と週末の違いは電話が来るかどうかだ」という認識になっていた。
今日は電話が来ない。
それだけのことが、少し信じられなかった。
スマートフォンに着信が来たのは、そのタイミングだった。
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出ると、凛の声だった。
「あの、少しお時間いいですか。実はロッカーに荷物を忘れていて……もう支部には戻りにくいので、よければ取りに来てもらえないかと」
蓮は少し考えた。
ギルドの事務ロッカーは、退職者の荷物は一ヶ月以内に引き取る規則になっていたはずだ。蓮は退職日に自分のロッカーを全部片付けていたが、凛はまだ在職中だ。在職中の職員が自分のロッカーの荷物を「取りに来てもらう」というのは、少し変だった。退職した自分が支部に行くことの方が、手間が少ない気もする。
でも、特に突っ込まなかった。
「持っていきます。家、どこですか」
短い沈黙があった。
「……来てくれるんですか」
「荷物、ありますよね」
「は、はい。あります」
凛の住所を聞いて、地図を確認した。ギルドから二駅、蓮のアパートからは三十分ほどだった。
「十五分後くらいに着きます」
「え、今日ですか」
「都合が悪かったら言ってください」
「……大丈夫です。来てください」
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凛の部屋は、清潔で本が多かった。
玄関を入ると棚に文庫本が並んでいて、リビングにも積み上げられた本があった。テーブルの上にはノートと何かの資料が広げられていて、蓮が来る直前まで何かを調べていたことが見てとれた。資料の表紙をさりげなく確認すると「スキル周波数特性に関する先行研究(国立魔法研究所 公開資料)」と書いてあった。
補助魔法・中級の事務員が、なぜそんな資料を読んでいるのか。
蓮が自分のスキルを調べた時に辿り着いた資料と、同じ方向にある言葉だった。「周波数特性」というのは、スキルと何かが共鳴するという仮説に関連する研究だ。蓮のスキルが「測定不能」になった理由として、周波数特性の異常を指摘する論文が一つあった。凛が読んでいたのが同じ資料かどうかはわからないが、偶然だとは思えなかった。
蓮は何も言わなかった。
荷物を受け取った。小さな紙袋で、中身は常備薬と手鏡だった。
「これのためにわざわざ……」
「大事なものだったので」と凛は言ったが、少し目が泳いだ。
蓮は紙袋を受け取りながら、言葉を選んだ。
「せっかく来たので、少し話していいですか」
凛の目が少し丸くなった。
「……はい」
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テーブルを挟んで向かい合い、凛が淹れた緑茶を飲みながら、蓮は今週あったことをかいつまんで話した。御堂が来たこと、魔法学院から連絡があったこと、国防省から公文書が届いたこと。全部断ったか、あるいは返送できていないこと。
凛は黙って聞いていた。途中でメモを取ろうとして、やめていた。手が動いたのに止まった、その動作を蓮は見ていた。
「……月額五百万を断ったんですか」
「はい」
「なぜですか」
直球だった。蓮は少し考えた。
「今は休みたいので」
「それだけですか」
「それだけです」
凛はお茶を一口飲んだ。少し間を置いてから、続けた。
「魔法学院も国防省も断ったのは?」
「学院は研究成果が学院帰属になる条件があって。国防省は別紙が同封されていなかったので」
「別紙が……?」
「公文書に別紙参照と書いてあったのに、別紙が入っていなかった。重要な条件が確認できない書類にサインする気にはなれない」
凛はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「……事務員だ」
「事務員でした」
「でも今も、そういう見方をするんですね」
「やめ方を知らないので」
蓮は少し自嘲気味に言ったつもりだったが、凛は笑いながら「それでいいと思います」と言った。「むしろ、そういう人の方が、こういう時に信頼できる」と続けた。
「こういう時というのは」
「……大事なことを決める時、という意味です」
凛はそこで少し言葉を切った。何かを言いかけて、抑えた感じがした。蓮は少し待った。凛は続けなかった。代わりに少し背筋を正して、静かに緑茶を飲んだ。その横顔は、ギルドで書類を整理している時の顔と少し似ていたが、今の方が何かを考えている分だけ、少し重さがあった。
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少し間があってから、凛が言った。
「なぜ、ぜんぶ断るんですか」
今度は柔らかい声だった。さっきとは質が違う問いだと、蓮にはわかった。条件や書類の話ではなく、もっと根本的なことを聞いている。
蓮は答えを探した。
「……疲れたので」
「疲れた」
「誰かのために動くことに。五年間ずっと、自分の意志じゃない動き方をしてきた。笹岡さんに怒鳴られないために。替えがきく人間だと思われないために。それが積み重なって、最後は何のために働いているのかわからなくなっていた。今それをまたすぐやれと言われても、正直気持ちがついていかない」
言葉に出してみると、少し長くなった。思っていたより整理されていた。それとも、凛の前だと話しやすかっただけかもしれない。
凛は黙っていた。急かさなかった。ただ聞いていた。
「おかしいですか」と蓮は聞いた。
「おかしくないです」と凛は言った。「むしろ、正直だと思います」
「剣聖会の御堂さんに同じことを言ったら、納得してくれました。管理局の担当者も、来週まで待ってくれることになった。なんか、みんな話がわかる人ばかりで、かえって拍子抜けしています。五年間、話がわかる人間に出会ったことがほとんどなかったので」
「みんな、あなたを逃したくないんだと思います。だから無理に急かさないんでしょう」
「それはわかります。でも自分の都合で動いてくれているわけじゃないですよね、向こうも」
「そうですね」
凛はお茶を飲んで、少し目を落とした。
「でも——」と言いかけて、止まった。
蓮は待った。続きを催促しなかった。
凛は少し考えてから、「……いえ。来週の管理局、どんな話をされるか気になります。終わったら教えてもらえますか」と言った。
蓮は少し意外に思いながら、頷いた。
「教えます」
「……ありがとうございます」
凛の声が、少しだけ小さくなった。お茶を持つ手が少し温度を確認するように動いた。それ以上は何も言わなかった。
少しの間、部屋が静かだった。時計の音だけがあった。ギルドの事務室はいつもうるさかった。探索者が出入りして、笹岡が怒鳴って、電話が鳴り続けた。こんなふうに、ただ静かに誰かと同じ空間にいるということが、いつぶりかわからなかった。悪くなかった。
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帰り際、玄関で靴を履きながら、蓮は振り返った。
「さっき、言いかけてやめた話」
凛の手が、玄関ドアの把手の上で止まった。
「……なんですか」
「後で聞かせてもらえますか。今日じゃなくていいので」
凛は少しの間、蓮の顔を見ていた。何かを測るような、あるいは決めようとするような顔だった。それから、視線を少し外して「……わかりました。いつか」とだけ言った。
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蓮はアパートまでの夜道を一人で歩いた。
秋の風は少し冷たかった。空には星がちらばっていた。退職してから一週間以上が経つ。この一週間で、剣聖会、魔法学院、国防省から接触があり、スキルの謎を調べ、魔法の使い方がなんとなくわかり始め、そして凛と話した。一週間でこれだけのことが起きたのは、二十七年の人生でもなかった。
凛の部屋の本棚を思い出した。並んでいた背表紙に、スキル関連の専門書が何冊か混じっていた。テーブルに広げてあった資料——「スキル周波数特性に関する先行研究」。それは蓮が自分のスキルを調べるために辿り着いたキーワードと、近い場所にある言葉だった。
凛は何かを知っている、あるいは知ろうとしている。
「第三支部にいなければならない気がしていた」と彼女は言っていた。補助魔法・中級のスキルを持ちながら、より待遇のいい支部への異動も断って、ずっとあの場所にいた。その理由が、蓮のスキルと何か繋がっているとしたら——。
「いつか」の話が、どんな話なのか。
答えを出す前に、来週の管理局面談が来る。ひとつずつ、順番に処理していくしかなかった。
蓮にはそれしかわからなかったが、今のそれは五年前とは少し違う気がした。「怒鳴られないため」ではなく、「知りたいから」処理している。小さいが、確かな違いだった。
アパートに着く少し前、蓮はもう一度空を見た。星がさっきより少し増えていた。雲が動いたのだろう。蓮は立ち止まらずに歩き続けながら、来週の月曜日のことを考えた。管理局で何を聞かされるのか、今の段階ではわからない。ただ、凛が「大丈夫でしたか」と聞いてくれる相手がいると思うと、なぜか少し心強かった。
次話:第5話「過去の三人は、全員死んでいた」
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