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第39話「根源との最後の対話」

お読みいただきありがとうございます。覚醒から百日目。村瀬が初めて核に触れる夜です。「引っ張られます」「広げてください、五方向に」——蓮が横で声をかける。村瀬が自力で分散させて帰ってきた。根源に前の三人の名前を伝えた。「三人の名前を伝えたことが、今日一番よかったことです」——この言葉が、百日間の積み重ねに答えを返します。

ギレンが確保されてから十二日が経った。覚醒から百日目だった。


 村瀬が訓練を始めて三週間になっていた。施設に来た夜はコーヒーを両手で持ったまま何も話さなかった。二日目から訓練が始まった。一週間で出力の下限を制御できた。二週間目に五メートル先への精密出力を覚えた。「柏木さんより速いですね」と早川が言った時、村瀬は「環境が違いますから」と言って蓮を見た。


 その夜、村瀬が「そろそろ核に触れていいですか」と聞いた。食堂のテーブルで、コーヒーを両手で持ちながらだった。施設に来た初日と同じ場所だった。ただ声が違った。


 蓮は少し考えた。出力制御、距離の調整、引っ張られた時の対処。三週間で必要なことは全部やっていた。


「行けます」と蓮は答えた。「明後日でどうですか」


「わかりました」と村瀬は言った。コーヒーを一口飲んだ。「怖いですか、と聞こうとしたんですが、聞く必要なかったですね」


「あります」と蓮は言った。「今も少し怖い。ただ、怖いのと行けないのは別です」


 村瀬がそれを聞いて、少し表情が変わった。何かを決めたような顔だった。


---


 二日後、三人で出た。施設から電車で一時間の小規模ダンジョンだった。


 電車の中で村瀬は黙っていた。蓮が最初にダンジョンに向かった日、凛はあまり話しかけなかった。今日も同じにした。村瀬が窓の外を見ていた。何を考えているかは聞かなかった。


 現地に着いた。ダンジョンの入口前で凛が「外で待ちます」と言った。


「一緒に入らないんですか」と村瀬が聞いた。


「私の役割は引き戻しです。ただ、今日は柏木さんがいる」と凛は言った。「補助具は持っています。外から感知しています」


 村瀬がうなずいた。凛を見た。凛がうなずいた。それだけだった。


 蓮と村瀬がダンジョンに入った。


---


 通路が静かだった。石の床だった。足音が反響した。気配が二つあった。蓮が右手を向けた。通路の角が焦げた。小型のものが二匹、消えた。音がなかった。光が一瞬出て消えた。


「速いですね」と村瀬が小さく言った。


「慣れました」と蓮は答えた。


 別の通路で一匹来た。天井の低い場所だった。蓮が手を動かす前に、村瀬が前方に向けた。通路の手前が焦げた。一匹が止まった。次の瞬間消えた。


「取れました」と村瀬は言った。小さい声だったが確かだった。


「確認しました」と蓮は言った。


 核の部屋に着いた。


 四畳ほどの広さだった。天井が低かった。部屋の中央に核が浮いていた。青白い光だった。静かな光だった。音がなかった。ただ光だけがそこにあった。蓮が以前来た場所とは別のダンジョンだった。核の大きさも少し違った。ただ光の種類は同じだった。この光の種類を体が知っていた。


 村瀬が少し足を止めた。


「怖いですか」と蓮は聞いた。


「少し」と村瀬は言った。「でも、ここまで来たので」


「引っ張られる感覚が来たら、一か所に溜めないでください。複数の方向に広げる。俺が隣にいます。何かあれば声をかけてください」


「わかりました」


 村瀬が核に近づいた。一歩、二歩。蓮が横についた。村瀬が手を伸ばした。核に触れた。瞬間、核の光が一段強くなった。


---


 村瀬の体が止まった。


 呼吸が変わった。吸う息が深くなった。蓮にはわかった。根源の方向が見えた瞬間だった。あの感覚を自分は知っていた。広さがわかる感覚。どこかへ続いていると知る感覚。初めて触れた人間はまず圧倒される。


「引っ張られます」と村瀬が言った。目が閉じていた。


「来ますか。どの方向から来ていますか」


「上から。前から。引っ張られています」


「広げてください。三方向。前と右と左」


 村瀬が少し動いた。核の光が揺れた。


「もっと来ます」と村瀬の声が緊張した。「全部に向かっていく感じがします」


「五方向です。前後左右と、下。一か所に向かわないように」


 村瀬が息を吐いた。深い息だった。


 根源が来た。蓮には感覚として届いた。


「落ちてきます」と村瀬が言った。「圧力が落ちてきています」


「そうです。そのままです」


 核の光が静かになった。村瀬の体の緊張が少し変わった。最悪の緊張ではなくなっていた。広げられている時の緊張だった。


---


 根源が来た。


「五人目か」と根源は言った。


 村瀬が何かを聞いた。根源と村瀬の間の言葉だった。蓮には届かなかった。干渉しなかった。横にいた。村瀬が戻れなくなりそうになったら止める準備をしながら、ただ待った。


 蓮が初めて来た時、凛が外で待っていた。今回は蓮が横にいる。誰かがいるというだけで、違う。それを蓮は自分の経験として知っていた。


 村瀬の声が聞こえた。「あなたが知らなかった三人の名前を伝えたいです」


 根源が何かを言った。


 村瀬が言った。「矢島俊一。木下奈緒。中原拓也」


 三つの名前だった。前日に蓮が門前で声に出した名前だった。今度は村瀬が根源に届けていた。


 核の光が揺れた。前より大きく揺れた。根源が動いたのか、応えたのか、蓮にはわからなかった。ただ何かが変わった感覚があった。


 しばらく時間が経った。


 村瀬が「聞いていてくれました」と言った。根源から来る声ではなく、村瀬自身の声だった。どこか遠くから来るような、静かな声だった。「根源は名前を知らなかった。帰れなかったことはわかっていた。でも名前は知らなかった」


「戻れますか」と蓮は聞いた。


「戻れます」と村瀬は言った。「感覚があります」


 蓮は待った。急がなかった。


 核の光が薄くなった。村瀬の体が少し揺れた。次の瞬間、核から手を離した。目を開けた。部屋の中にいた。


 そのまま立っていた。少しの間、何も言わなかった。蓮も言わなかった。


「戻りました」と村瀬はやっと言った。


 蓮は頷いた。


---


 出口を出ると、凛が立っていた。補助具を手に持ったまま夜の外気の中で待っていた。空に星が出ていた。


「大丈夫ですか」と凛が村瀬に聞いた。


「大丈夫です」と村瀬は言った。少し間を置いた。「根源に三人の名前を届けました。根源は知らなかった。でも聞いていてくれました。三人がそこにいたことを、知っていてくれた気がしました」


 凛が黙った。補助具をしまう手が止まっていた。何かが込み上げているような顔だった。蓮は凛のそういう顔を初めて見た気がした。


「前の三人より先に来たのが蓮さんで」と村瀬は続けた。「蓮さんが帰れたから私がここにいる。私がここにいるから今日のことができた。そういう順番でここに来た気がします」


 蓮は答えなかった。


「今日一番よかったのは、名前を届けられたことです」と村瀬は言った。「それだけです」


 夜の空気が冷たかった。三人とも少しの間、何も言わなかった。何も言わなくていい時間だった。遠くに街の灯りが見えた。普通に暮らしている人間の灯りだった。ダンジョンのことを知らない人間の灯りだった。九十日前は自分もあの中にいた。今は違うが、同じ人間だった。ただ、見えているものが変わっていた。


---


 帰り道、電車の中で蓮は手帳を出した。


「覚醒から百日目。村瀬が核に触れた。根源に矢島俊一、木下奈緒、中原拓也の名前を届けた。村瀬が一人で広げて、一人で戻った。凛さんが外で待っていた。俺は横にいた。それだけだった」


 書き終えてから、もう一行書いた。「ここまで来るのに百日かかった。百日でここまで来た」


「何を書いていますか」と凛が隣から聞いた。


「記録です。百日目です」


「百日」と凛は繰り返した。少し遠い目で窓の外を見た。「最初の日から数えると、長かったですね」


「長かったです。ただ」と蓮は言った。「それだけかかった理由が、全部あります」


「全部」と凛は繰り返した。


「全部」と蓮は言った。


 凛が少し表情が変わった。何も言わなかった。窓の外を見た。


 村瀬がその向かいで目を閉じていた。眠ったのかもしれなかった。今日初めて根源に触れた。三人の名前を届けた。それだけのことをやって帰ってきた。眠れているなら、それが今日一番いいことだと思った。


 蓮は手帳を閉じた。車窓の外に夜の景色が流れていた。百日分の景色が積み重なっていた。一日ずつ来たものが、ここに来ていた。その全部が今日のために必要だった。それが今はわかった。


次話:第40話「手帳の最後のページ」(最終回)

覚醒から百一日目。手帳が一冊終わります。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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