第28話「笹岡さんが、来た」
お読みいただきありがとうございます。覚醒から六十日。外出できる機会に、蓮はかつて働いていた街を歩きます。「五年間、すまなかった」と頭を下げた笹岡。威圧感で知られた上司が、ただの疲れた中年の男に見えた瞬間の話です。そして施設に戻ると、クロウが正門前に六人の護衛を連れて待っていました。
覚醒から六十日が経った。
御堂から「今週は外出できます」と連絡があった。アルケミアの動きが一時的に落ち着いていた。施設周辺の監視車両が消えていた。御堂は「理由はわかりません。ただ、しばらく動けます」と言った。
蓮は久しぶりにアパートの近くを歩いた。特に理由はなかった。ただ、しばらく歩いていなかった。アパートに戻るつもりではなかった。ただ、ここらへんの街を歩きたかった。退職してから一ヶ月以上、この街で過ごした。凛が何度も来た。御堂が来た。師匠の記録を読んだ夜も、ここだった。
コンビニの前で、声をかけられた。
「柏木」
---
振り返ると、笹岡だった。
スーツを着ていた。ただ、前より少し皺になっていた。目の下に疲れがあった。体の輪郭も、五年間で見ていたよりわずかに小さく見えた。
物理的に小さくなったわけではなかった。ただ、あれほど威圧感があった人間が、ただの四十代の男に見えた。コンビニの前に立っているだけの、疲れた男だった。
「少し時間をもらえるか」と笹岡は言った。
「はい」
近くのベンチに二人で座った。笹岡は少し間を置いてから、ゆっくり頭を下げた。角度が深かった。「五年間、すまなかった」と言った。
蓮は何も言わなかった。
笹岡が頭を上げた。「辞めた後でわかったことがある。お前がいなくなってから、引き継ぎ資料を見た職員が何人も言っていた。こんな丁寧な引き継ぎは見たことがない、と。事務所中の業務フローが全部書いてあった。誰が替わりに入っても、翌日から動けるように、全部書き残してあった。お前が五年間やってきたことの全部が、あの資料に入っていた。俺が何かを言う前に、全部終わらせて出ていった」
少し間があった。笹岡がまだ何か言いたそうにしていた。
「笹岡さんのおかげです」と蓮は言った。
笹岡が目を上げた。「……なぜそうなる」
「あの職場で五年間働いたことで、引き継ぎを完璧に作る習慣がつきました。何があっても翌日から誰かが動けるように、全部書き残す癖が。記録を残すことが、次の人間のためになる、ということが体に染みついた。笹岡さんの職場じゃなければ、そこまでやらなかったと思います」
笹岡が何も言えない顔をした。謝罪に来て、礼を言われるとは思っていなかった顔だった。
「謝罪は受け取りました」と蓮は言った。「今後お互いに絡むことはないと思います。お体に気をつけてください」
立ち上がった。笹岡がまだベンチに座っていた。蓮が歩き始めると「……達者でいろ」とだけ言った。
蓮は振り返らなかった。特に何も感じなかった。感じなくなったのではなく、すでに終わっていたのだと思った。終わっていたことが、今日確認された。それだけのことだった。
少し歩いた。コンビニを通り過ぎた。退職してから最初の日に入ったコンビニだった。あの日、なぜか無性にカフェラテを買った。特に理由はなかった。ただ、職場に戻らなくていいということが、その時ようやく実感になった。コンビニの外で五分くらい立っていた。今よりずっと、何もわかっていなかった。
今もわかっていることが多いわけではなかった。ただ、やることはある。やれることもある。五十三日前とは違う。
---
施設に戻ると、受付で「お客様がいます。会議室にお通ししています」と言われた。
御堂が廊下で待っていた。「クロウが来ました」と言った。「会いますか」
「会います」と蓮は言った。
会議室のドアを開けた。
五十代の男が座っていた。白い髪で、目が静かだった。怒っているわけでも脅しているわけでもなかった。ただ静かに座っていた。護衛が左右に二人立っていた。革靴の音がよく磨かれた靴の人間の動き方だった。
「会っていただけて光栄です」とクロウは言った。「一度きちんとお話ししたかった」
「何の話ですか」と蓮は言った。椅子には座らずに立ったまま聞いた。
「根源の人工制御です」とクロウは言った。声が落ち着いていた。感情的ではなかった。「あなたの協力があれば、技術が完成します。測定不能スキルの保持者に一時的に被験体になっていただくことで、制御システムの最後のピースが埋まります。成功すれば、ダンジョン異常は永遠になくなります。多くの命が救われます。あなた自身も、もう戦わなくていい」
「断ります」
「理由を聞かせていただけますか」
「被験体という言葉が答えです。私は道具ではありません」
クロウが少し間を置いた。表情が変わらなかった。「あなたが断っても、次の異常は来ます。早ければ一ヶ月以内に。その時また多くの人が影響を受ける。今ここで断るということは、その人たちへの答えでもある、ということはご理解いただいていますか」
「それは私への話ではなく、私を動かすための話です」と蓮は言った。「同じことです。断ります」
クロウが少し息を吸った。次の言葉を選んでいる様子だった。「あなたには守りたいものがあるはずです。今いる施設の人間、凛さん、御堂さん。その人たちの安全を保障できます。アルケミアは今後、剣聖会に手を出しません」
「御堂さんたちはそういう取引を望んでいません」と蓮は言った。「私が代わりに守られることも望んでいない。聞く前からわかります」
「……そうですか」とクロウは言った。初めて、少し表情が変わった。「あなたは交渉がお上手ではないですね」
「得意ではないです。ただ、断ることは得意です」
クロウが護衛に目配せした。護衛の一人がすでに立ち上がっていた。体が前に傾いた。もう一人も続いた。二人が同時に踏み出した。
蓮は手を伸ばした。
会議室の床に、二人の靴先の二十センチ手前、横一直線に黒い線が走った。音はなかった。焦げた木の匂いだけが会議室に広がった。
二人の体が固まった。踏み出しかけた足が、宙で止まっていた。もう一歩踏み込んでいたら、その足が黒い線の上に着地していた場所だった。二人が床を見た。黒い線を見た。それから蓮を見た。
「座ってください」と蓮は言った。声のトーンは変わっていなかった。「あなたたちに何かする気はありません。ただ、これ以上前に出るのは得策ではないです」
二人が互いを見た。クロウが「戻れ」と言った。二人が元の位置に戻った。
「帰ってください」と蓮はクロウに言った。「次に来る時は、御堂さんを通してください。今後、直接来ても会いません」
クロウが立ち上がった。表情は変わっていなかった。ただ、護衛二人は蓮から目を離さなかった。扉まで後ろ向きで動こうとしていた。クロウが先に扉に向かった。護衛がそれに続いた。扉の前で止まって、振り返った。「次の異常まで、あと何日あると思いますか」と言った。
「数えています」と蓮は答えた。「それはこちらも同じです。ただ、その期限を理由に被験体にはなりません。そこは変わりません」
クロウが少し頷いて、出ていった。
---
廊下に出ると、凛が立っていた。
「聞こえていましたか」
「概要は」と凛は言った。「断りましたね」
「はい」
「よかったです」と凛は言った。「もし迷っていたら、私が断るところでした」
「凛さんが断ることはできないですよね。交渉相手はこちらなので」
「そうですね」と凛は言った。「だからあなたが断いてよかったです。護衛の足元を焦がしたのは正解でしたよ」
「やりすぎでしたか」
「いいえ。適切でした」と凛は言った。「あなたの適切は、たいてい正確です」
少し笑っているような声だった。今日は確認した。少し笑っていた。
「クロウはまた来ますか」と蓮は聞いた。
「来ます」と凛は言った。「ただ、次に来た時のあなたの返答は今日と同じになる。彼はそれをわかって来るはずです」
「来る意味があるんですか」
「諦め方を知らない人間は、全部断られるまで来続けます。ただ、その前に本番が来ます」
「つまり放っておけばいいということですか」
「はい」と凛は言った。「今日も、十分放っておきました」
手帳を出して書いた。「笹岡が謝罪に来た。受け取った。クロウが取引に来た。断った。護衛の足元を焦がした。今日で終わったことと、まだ続いていることがある。覚醒から六十日目」
次話:第29話「最終決戦の前夜」
観測値が五か所同時に急上昇します。「五つの核が連動している」——これまでの記録にない事態が始まります。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




