第15話「行く理由は、一つだけだった」
お読みいただきありがとうございます。退職から二十五日。蓮はこれまでの記録を読み返し、手帳に結論を書きます。「行く理由は一つだけだ。動ける人間が自分しかいないから」——そして凛の「私も行きます」という申し出が届きます。
退職から二十五日が経った。
朝、コーヒーを淹れながら手帳を開いた。これまでの二十五日間の記録を、最初のページから読み返した。
退職届。笹岡の反応。翌朝のスキル管理アプリの画面。御堂のオファーと断った理由。魔法学院、国防省。管理局の早川との面談。過去三件の概要。公園の焦げ跡。変形したケトル。凛の部屋の本棚。桐嶋の謝罪。訓練施設での実験。公園前で子どもを助けたこと。御堂が師匠を知っていたこと。三人が記録を残していたこと。観測値の急激な消失。凛が怒ったこと。
二十五日で、これだけのことがあった。
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行くか行かないか、という問いを、今日初めて正面から考えることにした。
今まで「まだ決めていない」と言い続けてきた。情報が足りなかったし、決める必要がなかった。ただ、埼玉県北部の観測点が経過観察のまま継続していた。「決める必要が来るかもしれない」という感覚が、ここ数日静かに増えていた。
まず書き出してみた。
```
【行く理由(候補)】
・過去三件と同じ状況が迫っている
・自分にしかできない可能性がある
・国防省の要請、御堂さんの依頼がある
・凛さんが補助魔法の理論を持っている
【行かない理由(候補)】
・戻らないかもしれない
・まだスキルを制御できていない
・義務ではなく、強制する権限は誰にもない
```
書き出してから、読んだ。
「行く理由」の四つは、どれも「自分が行きたい理由」ではなかった。状況と、他者からの期待と、凛の研究の存在だった。「行かない理由」の三つも、どれかが決定的な理由にはならなかった。
問いの立て方が間違っていると思った。
蓮はペンを置いて、窓の外を見た。
「行く理由」と「行かない理由」を並べて比べる、という発想は、書類の判断に似ていた。メリットとデメリットを並べて、どちらが重いかで決める。ギルドで予算申請の可否を判断する時や、探索者の遠征ルートを審査する時にそうしていた。
ただ、この問いはそういう種類の判断ではないかもしれなかった。数字や根拠で比べても答えが出ない問いがある。笹岡の職場を辞める決断も、最終的には「ケトルを手に持って出てきた」だけだった。理由より先に体が決めていた。
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もう一度、考えた。
管理局からの帰り道、横断歩道で隣に立った治癒師のバッジを思い出した。「治癒師・中級」。どこにでもいる、ごく普通の探索者だった。ダンジョン異常が起きれば、その人も危険に晒される。
あの時、「自分が動ける唯一の存在だとしたら」という考えが浮かんで、少し困った。まだ誰かのために動く気はないはずだった。
でも公園では、考える前に動いていた。
子どもが柵に頭をぶつけそうになった瞬間、迷わず動いた。怖くなかったか、義務があったか、ではなく、動いた。それだけだった。
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行く理由は、一つだけだった。
難しい言葉ではなかった。
動けるなら、動く。
五年間、笹岡の下で「動けない理由」を探し続けた。「スキルがないから」「替えがきかないと思われると困るから」「今動いても後で怒鳴られるから」。理由はいつも後から来て、最初の一歩を潰した。
今は逆だった。理由は後からついてくる。子どもの前で体が動いた時と、同じ順番だった。
動くか動かないかを、自分で決められる。それだけで十分だった。
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その夜、凛に連絡した。
「話せますか」
「はい、電話でいいですか」
「はい」
電話が繋がると、凛の声は落ち着いていた。
「今日、考えました」と蓮は言った。「行く、と思っています。時期はまだわかりませんが、来た時には行くつもりです」
沈黙があった。
「わかりました」と凛は言った。「予想していました」
「そうですか」
「ええ。公園の話を聞いた時から、そうなると思っていました」
「あなたにはわかるんですね、いつも」
「わかりたいと思っているので」
少し間があった。
「……怖くなかったですか。決めた時」
「怖い、という感覚が正確かどうかわかりません。ただ、決める前より今の方が、少し楽です」
「楽」
「何かを決めないでいる状態は、ずっと何かを保留している感じがします。笹岡さんの職場にいた時、辞めることを何年も保留していた。あの重さに似ていた。今日それが終わった」
凛がしばらく黙っていた。
「……そうですか」と静かに言った。
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少しの間があった。
「一つだけ」と凛が続けた。「私も行きます」
「危険です」
「あなたより危険かどうかはわかりません。それに——補助魔法の理論が使えるなら、近くにいる必要があります。計算を直した結果、かなり近くにいないといけない。遠くから支援はできない」
「それは研究の話です」
「研究と、行きたいという気持ちは、別にあります」
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蓮はしばらく黙った。
凛が「行きたい」と言った。「行く必要がある」でも「行かなければならない」でもなく、「行きたい」と言った。
その言葉の選び方が、少し意外だった。凛はいつも正確な言葉を選ぶ。「行きたい」が正確な言葉だということは、そういうことだった。
「早川さんと音無さんに伝えます。同行者がいることを」
「お願いします」
「ただ、最終的な判断は現地の状況次第です。危険だと判断したら、止める」
「判断できる材料を、私にも教えてください。そうすれば私が自分で判断します」
また正確な言い方だった。蓮の言葉を受け取って、同等の言葉で返す。笹岡の「俺が全部決める」でも、桐嶋の「どうすればいい」でもない。
「わかりました」
「ありがとうございます」
電話を切った後、手帳を開いた。
```
・行くと決めた。理由:動けるなら、動く。
・凛さん同行希望。了承した。
・早川・音無に同行者の件を連絡すること。
・二〇〇七年の記録開示を待つ。
・訓練を続ける。
```
書き終えて、ペンを置いた。
決めたことで気持ちが軽くなるかどうか、わからなかった。なんとなく、少し軽くなった気がした。五年間、決められない理由を探していた。今日、決めた。
それだけのことが、少し大事なことのように思えた。
早川と音無には、明日連絡を入れることにした。凛の同行希望と、補助魔法の研究を正式なルートに乗せること。優先順位をつければ、まず同行の可否を確認してから研究の共有だ。凛の同行について、組織として受け入れられるかどうかの確認が必要だった。凛の補助魔法研究も、正式なルートに乗せる必要がある。やることはまだいくつかあった。
ただ、今日はそこまでにした。決めた日に全部片付けようとしなくていい。次の一手が見えていれば、それで十分だった。笹岡の下では「今日中に」が口癖だった。締め切りは人が作るものだ、と今はわかっていた。
窓の外は静かだった。埼玉県北部の空が、今夜も観測されているのだろう。どこかの誰かが数値を見て、増大していないことを確認して、記録している。そういう仕事を、蓮は五年間やっていた。数字を見て、記録して、次の手を考える。今は自分がその数字の側にいる。
蓮はコーヒーを飲み干して、電気を消した。
次話:第16話「二〇〇七年の記録が、届いた」
十九年前の記録が、ついに開示されます。七つのファイルの中に、誰かへの言葉がありました。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




