表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/40

第15話「行く理由は、一つだけだった」

お読みいただきありがとうございます。退職から二十五日。蓮はこれまでの記録を読み返し、手帳に結論を書きます。「行く理由は一つだけだ。動ける人間が自分しかいないから」——そして凛の「私も行きます」という申し出が届きます。

退職から二十五日が経った。


 朝、コーヒーを淹れながら手帳を開いた。これまでの二十五日間の記録を、最初のページから読み返した。


 退職届。笹岡の反応。翌朝のスキル管理アプリの画面。御堂のオファーと断った理由。魔法学院、国防省。管理局の早川との面談。過去三件の概要。公園の焦げ跡。変形したケトル。凛の部屋の本棚。桐嶋の謝罪。訓練施設での実験。公園前で子どもを助けたこと。御堂が師匠を知っていたこと。三人が記録を残していたこと。観測値の急激な消失。凛が怒ったこと。


 二十五日で、これだけのことがあった。


---


 行くか行かないか、という問いを、今日初めて正面から考えることにした。


 今まで「まだ決めていない」と言い続けてきた。情報が足りなかったし、決める必要がなかった。ただ、埼玉県北部の観測点が経過観察のまま継続していた。「決める必要が来るかもしれない」という感覚が、ここ数日静かに増えていた。


 まず書き出してみた。


```

【行く理由(候補)】

 ・過去三件と同じ状況が迫っている

 ・自分にしかできない可能性がある

 ・国防省の要請、御堂さんの依頼がある

 ・凛さんが補助魔法の理論を持っている


【行かない理由(候補)】

 ・戻らないかもしれない

 ・まだスキルを制御できていない

 ・義務ではなく、強制する権限は誰にもない

```


 書き出してから、読んだ。


「行く理由」の四つは、どれも「自分が行きたい理由」ではなかった。状況と、他者からの期待と、凛の研究の存在だった。「行かない理由」の三つも、どれかが決定的な理由にはならなかった。


 問いの立て方が間違っていると思った。


 蓮はペンを置いて、窓の外を見た。


 「行く理由」と「行かない理由」を並べて比べる、という発想は、書類の判断に似ていた。メリットとデメリットを並べて、どちらが重いかで決める。ギルドで予算申請の可否を判断する時や、探索者の遠征ルートを審査する時にそうしていた。


 ただ、この問いはそういう種類の判断ではないかもしれなかった。数字や根拠で比べても答えが出ない問いがある。笹岡の職場を辞める決断も、最終的には「ケトルを手に持って出てきた」だけだった。理由より先に体が決めていた。


---


 もう一度、考えた。


 管理局からの帰り道、横断歩道で隣に立った治癒師のバッジを思い出した。「治癒師・中級」。どこにでもいる、ごく普通の探索者だった。ダンジョン異常が起きれば、その人も危険に晒される。


 あの時、「自分が動ける唯一の存在だとしたら」という考えが浮かんで、少し困った。まだ誰かのために動く気はないはずだった。


 でも公園では、考える前に動いていた。


 子どもが柵に頭をぶつけそうになった瞬間、迷わず動いた。怖くなかったか、義務があったか、ではなく、動いた。それだけだった。


---


 行く理由は、一つだけだった。


 難しい言葉ではなかった。


 動けるなら、動く。


 五年間、笹岡の下で「動けない理由」を探し続けた。「スキルがないから」「替えがきかないと思われると困るから」「今動いても後で怒鳴られるから」。理由はいつも後から来て、最初の一歩を潰した。


 今は逆だった。理由は後からついてくる。子どもの前で体が動いた時と、同じ順番だった。


 動くか動かないかを、自分で決められる。それだけで十分だった。


---


 その夜、凛に連絡した。


「話せますか」


「はい、電話でいいですか」


「はい」


 電話が繋がると、凛の声は落ち着いていた。


「今日、考えました」と蓮は言った。「行く、と思っています。時期はまだわかりませんが、来た時には行くつもりです」


 沈黙があった。


「わかりました」と凛は言った。「予想していました」


「そうですか」


「ええ。公園の話を聞いた時から、そうなると思っていました」


「あなたにはわかるんですね、いつも」


「わかりたいと思っているので」


 少し間があった。


「……怖くなかったですか。決めた時」


「怖い、という感覚が正確かどうかわかりません。ただ、決める前より今の方が、少し楽です」


「楽」


「何かを決めないでいる状態は、ずっと何かを保留している感じがします。笹岡さんの職場にいた時、辞めることを何年も保留していた。あの重さに似ていた。今日それが終わった」


 凛がしばらく黙っていた。


「……そうですか」と静かに言った。


---


 少しの間があった。


「一つだけ」と凛が続けた。「私も行きます」


「危険です」


「あなたより危険かどうかはわかりません。それに——補助魔法の理論が使えるなら、近くにいる必要があります。計算を直した結果、かなり近くにいないといけない。遠くから支援はできない」


「それは研究の話です」


「研究と、行きたいという気持ちは、別にあります」


---


 蓮はしばらく黙った。


 凛が「行きたい」と言った。「行く必要がある」でも「行かなければならない」でもなく、「行きたい」と言った。


 その言葉の選び方が、少し意外だった。凛はいつも正確な言葉を選ぶ。「行きたい」が正確な言葉だということは、そういうことだった。


「早川さんと音無さんに伝えます。同行者がいることを」


「お願いします」


「ただ、最終的な判断は現地の状況次第です。危険だと判断したら、止める」


「判断できる材料を、私にも教えてください。そうすれば私が自分で判断します」


 また正確な言い方だった。蓮の言葉を受け取って、同等の言葉で返す。笹岡の「俺が全部決める」でも、桐嶋の「どうすればいい」でもない。


「わかりました」


「ありがとうございます」


 電話を切った後、手帳を開いた。


```

・行くと決めた。理由:動けるなら、動く。

・凛さん同行希望。了承した。

・早川・音無に同行者の件を連絡すること。

・二〇〇七年の記録開示を待つ。

・訓練を続ける。

```


 書き終えて、ペンを置いた。


 決めたことで気持ちが軽くなるかどうか、わからなかった。なんとなく、少し軽くなった気がした。五年間、決められない理由を探していた。今日、決めた。


 それだけのことが、少し大事なことのように思えた。


 早川と音無には、明日連絡を入れることにした。凛の同行希望と、補助魔法の研究を正式なルートに乗せること。優先順位をつければ、まず同行の可否を確認してから研究の共有だ。凛の同行について、組織として受け入れられるかどうかの確認が必要だった。凛の補助魔法研究も、正式なルートに乗せる必要がある。やることはまだいくつかあった。


 ただ、今日はそこまでにした。決めた日に全部片付けようとしなくていい。次の一手が見えていれば、それで十分だった。笹岡の下では「今日中に」が口癖だった。締め切りは人が作るものだ、と今はわかっていた。


 窓の外は静かだった。埼玉県北部の空が、今夜も観測されているのだろう。どこかの誰かが数値を見て、増大していないことを確認して、記録している。そういう仕事を、蓮は五年間やっていた。数字を見て、記録して、次の手を考える。今は自分がその数字の側にいる。


 蓮はコーヒーを飲み干して、電気を消した。

次話:第16話「二〇〇七年の記録が、届いた」

十九年前の記録が、ついに開示されます。七つのファイルの中に、誰かへの言葉がありました。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ