第14話「凛さんが、怒った」
お読みいただきありがとうございます。凛がコーヒーを断って、ノートを取り出します。そこに書かれていたのは、ギルドの三年間にわたる蓮の観察記録でした。そして過去の「測定不能」保持者たちの家族に、何も知らされていなかったという事実への、凛の怒りが語られます。
凛は入ってきて、コーヒーを断った。
珍しかった。いつも「いただきます」と言っていた。
代わりに鞄からノートを出した。B5のキャンパスノートで、ページが多く使われていた。
「先に見せたいものがあります」
ノートを開いた。補助魔法と魔力干渉に関する数式と、参考文献の書き写しが並んでいた。内容は高度で、蓮には細部まではわからなかったが、構造は読めた。「補助魔法を使って外部から内部の魔力を安定させる」という方向の研究だった。
「いつから」
「覚醒の翌週から」と凛は言った。「蓮さんが管理局の面談に行く前から。ダンジョン核について調べていたら、過去事例に行き当たって——三人が戻らなかった理由として、核の内側で魔力が不安定になった可能性があると書いた論文があって。それを読んで、外側から安定させることができるかどうか、調べ始めました」
「補助魔法で、核の中の人間を」
「理論上は可能かもしれない。ただし、核との距離が問題になります。外から離れすぎると効果が届かない」
「近くにいる必要がある」
「はい」
蓮はノートをもう一度見た。「補助魔法の有効範囲」という見出しの下に、距離ごとの減衰率が書かれていた。十メートルで六割、二十メートルで三割、三十メートルでほぼゼロ、という数字だった。
「この計算は、通常の魔法使いを想定していますか」
「英雄級を上限として計算しています」
「測定不能の場合はどうなりますか」
凛がわずかに眉を動かした。
「……そこが問題で。出力が大きくなるほど、補助魔法が届く距離は広がりますが、それ以上に干渉が難しくなります。補助魔法が弾かれる可能性がある。計算の前提が変わってしまう」
「早川さんの資料に、『出力が通常時の数十倍に達した』という記述がありました。その規模が前提になりますか」
「……昨日それを読んで、計算を全部やり直しました」と凛は言った。少し疲れた顔をしていた。「まだ答えが出ていません」
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蓮は凛のノートを見た。
ページをめくると、過去三例の情報を集めたメモがあった。出典は公開資料だけだったが、量が多かった。そして「核への接近距離と補助魔法の有効範囲」という計算が、複数パターン書かれていた。
「これを、一人でやっていたんですか」
「はい」
「聞かせてくれればよかったのに」
「まだ確認できていないことが多かったので」と凛は言った。「ただ、今日の話を聞いて——三人が記録を残していた、という話を聞いて、今のうちに見せた方がいいと思って来ました」
蓮はノートを返した。凛はそれを受け取ってテーブルに置いた。手が少し固かった。
「怒っていますか」と蓮は聞いた。
凛が少し顔を上げた。
「……わかりますか」
「いつもより声が短いので」
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凛は少し息を吐いた。
「怒っています。あなたにではなく——状況に、だと思います」
「聞かせてもらえますか」
「三人が記録を残していたという話を聞いて、その記録がご家族に知らされていないという話を聞いて。五十年間、理由もわからないまま、誰かを待ち続けた家族がいるということが——腹立たしかった」
蓮は黙っていた。
「あなたには今日言いますが、私の祖母の弟が、探索者でした。ダンジョンの事故で亡くなっています。祖母は今も、詳しい経緯を知りません。国が教えてくれなかった。あの時代はそういうものだったと祖母は言っていました。——そういうものだったで、片付けることが、どうしても納得できなくて」
「二〇〇七年のケースも、ご遺族への説明が先になるという話でした」
「知っています」と凛は言った。「だから——早くしてほしい、と思っています。その記録が何を残しているにしても、家族が知らないまま何十年も経つのは、間違っています」
蓮は少し考えてから言った。
「音無さんに、開示を急ぐよう伝えます。理由も添えて」
「……理由というのは」
「ご遺族が長年知らないまま過ごしているという事実は、開示を急ぐ正当な理由になります。感情の話ではなく、事実として伝えれば動きやすい。音無さんは事実に対してきちんと反応する人だと思っているので」
凛が少しだけ力を抜いた顔をした。怒りが引いたわけではなかったが、何かを受け取った顔だった。
「……ありがとうございます」
「事実を伝えるだけです」と蓮は言った。「あなたが話してくれなければ、私には思いつかなかった」
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少しの間、部屋が静かだった。
凛の怒りは静かだった。声を荒げることも、手が震えることもなかった。ただ、目の奥に何かが燃えていた。三年間、ギルドで隣にいた時と同じ目だった。違うのは今日は蓮に見せていること、だった。
「あなたが調べていた補助魔法の理論も、早川さんと音無さんに共有してほしいです。公式のルートで検討してもらえるように」
凛は少し間を置いた。
「……それは、行くことを前提にした話ですか」
「まだ決めていません。ただ、使える可能性のある情報は、早めに持っておいた方がいい。判断が先で、準備が後では間に合わないことがある」
凛はノートを見た。それから蓮を見た。
「わかりました。整理して、来週には出せます」
「よろしくお願いします」
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少しの間があった。
「蓮さん」
「はい」
「今日届いた書類に、何か書いてありましたか。三人の記録の話以外に」
「核への接触直前に、スキルの出力が通常時の数十倍に達していた、と書いてありました。その後、観測値が急激に消失した、と」
凛がノートを持つ手に少し力が入った。
「消失」
「観測値が、ということです。本人がどうなったかまでは書かれていなかった」
「……わかりました」
凛はノートを閉じた。考えているのか、何かを整理しているのか、しばらく黙っていた。蓮は待った。
「補助魔法の有効範囲の計算を、出力数十倍を前提に見直す必要があります」と凛は言った。「今の計算では前提が違う」
「どのくらい違いますか」
「……距離が、もっと近くないといけないかもしれない」
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帰り際、玄関で凛が少し止まった。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「怖いですか」
蓮は少し考えた。
「……わかりません。三人が戻らなかったことは知っています。自分がどうなるかも、わかりません。ただ、まだ行くと決めていないので、今の段階では怖いより先に確認することがたくさんあって」
「それはあなたらしいですね」と凛は言った。笑ったが、目の奥の何かはまだ残っていた。
「今日、話してくれてありがとうございます」
「どちらがですか」
「両方です」
凛は少し頷いて、出ていった。
扉が閉まってから、蓮はリビングに戻ってノートの表紙を見た。覚醒の翌週から、一人で調べ続けていた。蓮が管理局に行く前から。誰にも言わずに、静かに準備をしていた。
三年間、隣で感知し続けた人間が、今度は別のやり方で隣にいようとしていた。
凛は「覚醒の翌週から」調べていたと言った。蓮が管理局の面談に行く前から、つまり過去三例の詳細を蓮が知る前から、すでに動いていた。感知補助具を自分で作ったのも三ヶ月前だ。凛の準備は、蓮の決断よりずっと先に始まっていた。
そのことが、少しだけ重かった。重いというより——誰かが先に用意してくれているという感覚が、久しぶりだった。笹岡の下では、自分が用意する側だけだった。用意された側にいる、という経験が、蓮には五年分ほど欠けていた。
次話:第15話「行く理由は、一つだけだった」
蓮が下した決断と、凛の言葉。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




