第七話 疲労と煙の交わり
——夜。
転職して来てから初めての残業は、私の身体に懐かしい疲れをもたらしていた。
と言っても、前職時代に比べればなんてことはないし、仕事が終わらなかったことによる残業ではなく、私がナゲクちゃんのために何かをしたくて残っていただけに、そこまでの苦労は感じていなかった。
すっかり閑散としてしまったオフィス。
おそらくナゲクちゃんの周りにいる人たちや、お偉方は午後過ぎからすごく忙しそうにしていたけれど、この時間となってはその姿ももう見えない。
もしかしたら、まだ別室で会議をしているのかもしれないが、このオフィスには私が一人いるだけだった。
「……タバコ、吸ってから帰ろうかな」
帰り支度を済ませ、喫煙所へと足を運ぶ。
するとそこには、しゃがみ項垂れた一人の女性の姿があった。
その女性は……昨日、この喫煙所で出会ったばかりのお姉さん。
昨日は綺麗に流されていた黒髪が、今日は目に見えてわかる疲労に呼応して、バサバサと立っており、昨日見たあの悠然とした雰囲気はなく、今日のお姉さんはとても小さく見える。
「……」
扉の前で、一瞬迷う。
私の仮定が正しければ、彼女は今、一人で居たい時間かもしれない。
炎上の経験がない一般人なだけに、どんな対応をすればいいのかが分からない。
でも——
私は扉へと手を掛け、引き開ける。
換気扇でも処理しきれないヤニの匂いが、ムッと鼻腔にまとわりつき、特有の感覚が肌でも感じ取れる。
しゃがんでいたお姉さんが僅かに顔をこちらに向け、その視線がゆっくりと私の顔まで上ってきた。
「ぁ……」
小さな声が、漏れだした。
細く、ここにいるのが私たち二人だけでなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さな声。
だが、改めて意識した今なら、もう間違わない。
約4年間、毎晩聞いてきた声だ。
「お疲れ様、ナゲクちゃん」
しゃがみ、目線を合わせるように話しかける。
「く、枢木……さん……」
すると、お姉さん、もといナゲクちゃんも私の方を見て、反応を返してくれた。
「大変、だったね」
「ご、ごめ……ごめんなさいっ! 私、私——」
必死で何かを言おうとするナゲクちゃんの肩に、そっと手を伸ばせば、こちらを見つめる、吸い寄せるようなあの瞳に、段々と涙が溜まっていく。
「いいよ。良いんだよ。大丈夫、私はずっとファンだから」
きっとお互い、何を謝り、何を許しているのか、そこまで明確に理解はしていないだろう。
でも、今の私たちにはそれだけでよかった。
私は涙を流すナゲクちゃんの肩を抱き寄せる。
それからは互いに言葉は発さず、私は私の肩で泣いている彼女が落ち着くまでその姿勢で居続けた。
◇◇◇
「……落ち着いた?」
耳の隣から聞こえるすすり泣く声、身体の震えが止まったところで私の方から声を掛ける。
「……はい。あの……ごめんなさい、スーツ、汚しちゃって……」
スーツの肩口に目をやれば、そこにはナゲクちゃんが泣いて出来た涙の跡がくっきりと残っていた。
「ああ、いいよ。このくらい。気にしないで」
咄嗟にハンカチを取り出して、拭こうとしてくれるナゲクちゃんを手で制し、私は立ち上がった。
部屋に備え付けられた、棒状の腰かけに体重を預け、未だしゃがんだままのナゲクちゃんに手を伸ばす。
「……それより、一本吸って、落ち着かない?」
「……はい」
私の手を取り、ゆっくりと立ち上がったナゲクちゃんは、昨日は空いていた一人分の間隔も詰めて、私のぴったり隣に腰を掛けると足元に投げ出されていたバッグからタバコとライターを取り出す。
「今日はライター、持ってるんだね」
「——っ! ごめんなさい。昨日は急に……」
少し揶揄い気味に言ってみれば、ボッと音がしそうなほどに顔を赤くしたナゲクちゃんが縮こまって恥ずかしそうにする。
「いいよ、それも気にしてないから」
涙を見たせいだろうか?
昨日感じていた美人なお姉さんへの緊張、そして推し本人との邂逅による緊張は、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
カチッと子気味いい音を立てて、二本のライターに火が灯る。
互いの動作を真似るようにタバコに火をつけ、最初のひと口の煙を吐き出した。
「ふぅ——」
ゆったりと、今日の疲れと共に吐き出された煙は、天井の換気扇に向けて、一緒に吸い込まれ、一つになって行く。
ナゲクちゃんのメビウスパープルの甘いメンソールの香りと私の赤マルのガツンと来る香りが一気に広がった。
「あの、改めてになるんですが……クルルさ……枢木さん、で大丈夫ですよね?」
煙の中で急に真面目な顔をしたナゲクちゃんが今更そんな確認をしてくる。
「うん。そうだよ。いつもお世話になってます、クルルこと枢木鈴音です」
「わ、私こそ、いつもクルルさん——枢木さんのコメントや投稿に力を貰ってました。あ、私は夢見静って言います」
夢見静さん……か。
まさかこんなところで推しの本名を知ってしまうことになるとは、転職前も、して来てからも思わなかった。
それに、これがナゲクちゃんの素なのかな?
配信やオフイベだと、淡々として感情の起伏が少なそうなイメージだったし、実際昨日会ったお姉さんもそんな感じだったけど。
「ナゲ……じゃない、夢見さん。もし大丈夫なら、で良いんだけど、年齢って聞いてもいい?」
「あ、はい。今23歳です」
「あぁ~やっぱりそっかー。年下だったか~」
「枢木さんは、おいくつ、何ですか?」
「私は今年26だよ。……うわ、なんか恥ずかしくなってきた」
つまり私は自分より3歳も年下の子に悩みや愚痴を聞いてもらっていたのか……。
私が30歳でナゲクちゃんが27歳なら、まだいいかもだけど、23って……4年前ならまだ10代だったってこと!?
「あ、……コホン。……ダメだよ。配信と現実を、混ぜたら……」
なんて考えていると、咳ばらいを一つした夢見さんが、配信でいつも聞いているナゲクちゃんの声になって、私を窘めてくる。
「——っ! そ、そうだよね」
途端に醸し出される、大人な色気、聞き慣れているはずなのに脳が溶けそうになるその声に私は思わずたじろいでしまった。
「……ふふっ。やっぱり枢木さんはかわいいですね」
「なっ——! お、大人を揶揄うんじゃないよっ」
たった今、自己紹介を終えたばかり。
だと言うのに、私たちの間には、長く親交のある友人のような雰囲気が漂っていた。
「……あははっ」
「……ふふっ」
どちらからともなく笑い合う。
そして、吸い終わったタバコを灰皿に落として、私たちは見合った。
「ねぇ——」
「あの——」
言葉が重なる。
そんなことでまた少し笑って……。
一歩引いた夢見さんに私から切り出した。
「この後、まだ時間ある?」




