第97話 太陽を返してくれた
煙は出ていない。白い肌には赤みさえ浮かばない。
ルナは朝風に触れるように指をゆっくりと動かし、自分の手を見つめていた。
「熱く……ない」
「少しずつ腕まで出せ」
手首。肘。肩。
光へさらす範囲を広げるたび、俺はルナの手首をつかんだまま《超再生》を流し、太陽を受け流す新しい細胞を全身へ広げていく。
最後にルナがマントを外すと、長い紫髪が朝日に照らされた。ルナは反射的に目を閉じる。だが、何も起きない。髪も、顔も、身体も焼かれない。全身へ広がった新しい細胞が、太陽の光を拒絶せず、ただの温かさとして受け止めている。
恐る恐る、赤い瞳が開いた。朝日を正面から見たルナの瞳に、光が映る。
「太陽とは……このような色をしておったのじゃな」
声が震えていた。生まれて九十二年。窓のすき間や厚い布越しではなく、自分の肌で朝日を受けたのは初めてなのだろう。
ルナは両腕を広げた。長い紫髪が朝風に揺れ、その顔へ、王女らしい堂々とした姿でも、敵へ向ける大人びた色気のある笑みでもない、少女のように無邪気な笑顔が浮かぶ。
「温かい」
ルナが、小さくつぶやいた。
まだ影の中にいるガルムは、ルナへ降り注ぐ光だけを追っていた。
「次はクロウだ」
「感動へ浸る時間くらい与えぬか!」
「全員終わってからにしろ」
「そなたには情緒というものがないのか!」
「日が昇る。光が強くなれば、最初の負担が増える」
「それを先に申せ! クロウ、早く参れ!」
「ふぉふぉふぉ。承知しました」
ルナの身体で、陽光に耐える細胞の形を一度完成させたため、残る三人の処置は早かった。それでも、最初に陽光へ手を入れる恐怖までは消せない。
クロウは笑みを浮かべたまま手を差し出したが、皮膚から煙が上がった瞬間だけ眉が動いた。
「痛いか?」
「三百四十一年も生きておりますと、痛みに驚くことは少なくなります」
「なら、光を強くする」
「アレス様。老人を、もう少し労わってはいただけませんか?」
「人間なら六十代だろう。まだ動ける」
「ふぉふぉ……ルナ様。この方へ年齢を教えたのは失敗でございました」
「今ごろ気づいたか」
アイゼンは、最後まで痛いとは言わなかった。ただし、二度目の再生で腕全体を光へ出させた時、歯を食いしばる音が中庭の反対側まで聞こえた。
「痛いなら言え」
「この程度、何ともない」
「そうか。なら次は肩まで出せ」
「待て、まだ指先が焼けている!」
「何ともないんだろう?」
「貴様は加減というものを知らんのか!」
「アレス様とお呼びください」
少し離れたところから、グレイグの低い声が飛んできた。
「今は呼び方などどうでもよいだろう!」
「よくありません」
「この小僧のどこに敬意を――熱い! 今、光を広げただろう!」
「口を動かす余裕があったからな」
「覚えていろ!」
最後はガルムだった。陽光へ入れた大きな手から煙が上がる。肉の焼ける匂いが広がっても、顔色一つ変えない。
「どうだ?」
「熱い」
「それだけか?」
「かなり熱い」
「そうか」
「そうか、ではない!」
離れた場所から、ルナが叫んだ。
「少しはガルムを案じよ! そやつは我慢強すぎて、腕がなくなっても熱いとしか申さぬぞ!」
「なくなる前に治す」
「なくなるところまで焼くでない!」
四人目の処置が終わった時には、太陽が石壁の上へ完全に姿を現していた。
「全員、マントを取れ」
四人が並ぶ。
ルナが最初に外し、クロウが続く。アイゼンはまだ疑っているように空を見上げ、ガルムは迷わず大盾と一緒に陽光の中へ出た。
朝日が四人へ降り注ぐ。煙は出ない。肌も焼けない。ヴァンパイアの再生が、死を遠ざけるために血と魔力を浪費することもない。
四人は、ただ朝の中に立っていた。
アイゼンが剣を持つ手を開き、何度も握る。
「本当に……何ともない」
「昼の弱体化は残っている。夜になると、昼の三倍から五倍ほど強くなる性質も変わらない。太陽に焼かれなくなっただけだ」
「それだけ、じゃと?」
ルナが俺を見る。
「わらわたちにとって、その『それだけ』が、どれほどのものか分かっておるのか」
「分かっている」
滅びた未来で、陽光の下へ引きずり出され、灰になるヴァンパイアを見た。助けを求める声を聞きながら、間に合わなかったこともある。
分かっているから、最初に消したかった。
クロウが太陽へ片手をかざした。
「この年になって、新しい朝を迎えることがあるとは思いませんでした」
いつもの笑みを浮かべている。だが、その赤い瞳には、薄く涙がにじんでいた。
ガルムは地面へ大盾を置き、両腕を広げて光を受けている。
「よい」
「それだけか?」
「とても、よい」
「そうか」
アイゼンは背を向けていた。
「泣いておるのか?」
「泣いていません」
「わらわはクロウに聞いたのじゃ」
「……そうですか」
「アイゼン。こちらを向け」
「今は周囲を警戒しています!」
「虫一匹おらぬ中庭で、何を警戒しておる!」
「クロウの虫ならおります」
「私の虫は敵ではございませんよ」
「全員、少し黙れ」
ルナの声が静かに響き、三人がルナを見る。
ルナは朝日の中で、俺の前へ歩いてきた。
「アレス」
「何だ?」
「礼を言う」
深く頭を下げることはない。王女として背筋を伸ばし、真っすぐ俺を見る。それでも、短い言葉の中に込められたものは十分に伝わった。
「わらわたちへ、太陽を返してくれた」
「元から俺の物ではない」
「今だけは、黙って受け取れぬのか?」
「分かった」
「……ありがとう」
「ああ」
しばらくの間、誰も話さなかった。宿舎で暮らす者たちも、朝日の中へ立つ四人を静かに見守っている。
最初に動いたのは、ルナだった。
「セルジュと申したな。契約書を持って参れ」
「ルナ様?」
クロウがわずかに目を見開く。
「わらわたちは、この者が作った場所を見た。ここにおる者たちの顔も見た。おびえて従っておる者も、鎖につながれた者もおらぬ」
ルナは俺から視線を外さない。
「何より、アレスはわらわたちが従うと決める前に、最大の弱点を消した。これ以上試すと言えば、ただ疑うために疑うことになろう」
「では」
「うむ。わらわは、この傲慢で、無礼で、人の話を聞かず、王女への敬意を少しも持たぬ小僧に賭ける」
「前半は必要か?」
「むしろ、前半こそ重要じゃ!」
ルナが三人を振り返る。
「クロウ。アイゼン。ガルム。わらわはアレスの配下となる。じゃが、そなたらへまで同じ道を強いるつもりはない。わらわではなく、自ら選べ」
クロウが最初に前へ出た。
「私の主は、今までも、これからもルナ様でございます。ルナ様がアレス様の配下となられるのであれば、この老骨も共に参りましょう」
「自分で選べと申したであろう」
「はい。ですから、私自身がルナ様と共に進む道を選びました」
アイゼンは腕を組み、長く俺をにらんだ。
「俺は、まだ貴様のすべてを認めたわけではない」
「構わない」
「だが、強さは認める。姫様と俺たちを守ったことも、今、太陽の下へ立たせたこともだ」
アイゼンが右拳を左胸へ当てる。
「姫様が行かれる場所を、俺が守る。そのために必要なら、貴様の配下となる」
「次は負けたことも素直に認めろ」
「一言多いと言ったはずだ!」
ガルムは一歩前へ出た。
「俺もなる」
「理由は?」
「強い。守る。飯がうまい。朝もよい」
「昨日とほとんど変わっておらぬではないか」
「朝が増えた」
「一つ増えただけじゃ!」
「十分だ」
セルジュが、四枚の契約書を持ってきた。
朝日の下、四人は誰にも強いられず、自ら選んだ道を契約へ刻もうとしていた。




