第95話 四人を迎える朝
山を下り切ったころ、東の空が白み始めていた。
夜通し歩き続けたにもかかわらず、四人の足取りに大きな乱れはない。だが、戦いで失った体力と魔力までは戻り切っておらず、アイゼンの顔には隠し切れない疲労が浮かんでいた。クロウもいつもの笑みを絶やしてはいないものの、虫を飛ばす範囲を大きく狭めている。
ガルムだけは、大盾と自分の荷物を背負ったまま、来た時とほとんど変わらない。
「ガルム。疲れておらぬのか?」
「疲れた」
「まるでそうは見えぬぞ」
「顔に出にくい」
「少しは出せ。わらわたちだけが弱っておるように見えるではないか」
「事実だ」
「そなたは、時折わらわが主であることを忘れておらぬか?」
「忘れていない」
ガルムは真顔で答え、その横でクロウが肩を揺らす。
「ふぉふぉふぉ……」
「クロウ。何を笑っておる」
「皆が無事に山を下りられたことを、喜んでいるだけでございます」
「うそを申せ。そなたは昔から、わらわが言い負かされると笑う」
「幼い頃からお仕えしておりますと、珍しい光景には心が弾むものでございます」
「この一晩で、何度見たと思うておる!」
ルナの声が明け方の街道へ響いた。言葉も、声も、四人の並び方も変わっていない。俺に敗れ、山を離れることになっても、こいつらはこいつらのままだった。
それでいい。俺が取り戻したかったのは、黙って命令に従う四つの駒ではない。
「もうすぐ着く」
「その言葉を聞くのは三度目じゃぞ」
「今度は本当だ」
「先ほども同じことを申しておった」
「山での距離と、街道での距離は違う」
「そなたの感覚を基準にするでない!」
森を抜けた先に、宿舎の外壁が見えた。半年前まで、崩れかけた古い建物だったとは思えない。傷んでいた石壁は積み直され、屋根も新しくなっている。宿舎の横には倉庫と訓練用の広場が増え、その先には小さな菜園まで作られていた。
門の前には、ニーナとセルジュが立っている。
俺の姿を見つけたニーナが、こちらへ駆けてきた。
「お帰りなさいませ、アレス様!」
「ただいま」
ニーナは俺の頭から足元までを確かめ、傷がないことを確認すると、ほっと息を吐いた。続いて俺の後ろへ目を向ける。
長い紫髪を持つルナ。老執事のクロウ。剣を腰に下げたアイゼン。そして、巨大な盾を背負うガルム。四人とも、赤い瞳とわずかに長い犬歯を除けば、人間とほとんど変わらない。街ですれ違っただけなら、別の種族だと気づく者は少ないだろう。
「その方々が、アレス様がお迎えに行かれた四人ですか?」
「ああ。全員連れてきた」
「まだ客人じゃ」
ルナがすぐに言い直した。
「配下となるかは、これからわらわたち自身の目で見て決める。そなたらも、勝手に話を進めるでないぞ」
「かしこまりました。私はニーナ・ベルと申します。アレス様の侍女を務めております」
ニーナが丁寧に頭を下げる。人間の侍女が、ヴァンパイアの王女を前にしても怯えも警戒も見せなかったことが、意外だったらしい。ルナはわずかに目を見開いていた。
「わらわはルナ・ノクティス。ヴァンパイア王ドレーク・ノクティスの娘じゃ」
「お姫様なの?」
宿舎の扉から、小さな顔がのぞいた。
ルゥだ。その後ろからセナとカイも顔を出している。待っているうちに起きてしまったのだろう。
「こら、ルゥ。勝手に出てくるな」
セナが止めるより早く、ルゥはルナの前まで歩いてきた。
「紫の髪、きれい。お姫様って、本当?」
「うむ。よく分かっておるではないか。わらわは由緒正しきヴァンパイアの王女じゃ」
ルナが胸を張る。
ルナはすらりとした細身でありながら、豊かな胸元からくびれた腰へと美しい曲線を描いている。見た目は二十歳前後。整った顔立ちには、長い時を生きた者だけが持つ気品と大人びた色香が漂い、ただそこに立っているだけで誰もが息を呑み、目を奪われるほどの絶世の美女だ。
そんな彼女も、小さな子供から素直に褒められたことがうれしかったらしく、先ほどまでの不機嫌そうな顔がわずかに緩んでいた。
「お姫様は、何歳?」
「ルゥ!」
セナが慌てて止める。
ルナの表情が固まった。
「女性へ年を尋ねるものではないと、教わらなかったのか?」
「ルナ。セルジュが全員の記録を作る。どのみち必要だ」
「なぜ、そなたが答えさせる側におるのじゃ」
ルナはしばらく迷った後、諦めたように息を吐いた。
「……九十二じゃ」
「きゅうじゅうに?」
ルゥが首を傾げる。
「おばあちゃん?」
「違う!」
ルナの声が宿舎の壁を揺らした。
「ヴァンパイアは人間の五倍ほど長く生きる! わらわは人間で申せば、二十歳前後じゃ! どこをどう見れば、わらわがおばあちゃんに見える!」
「見えない。きれいなお姉ちゃん」
「そうであろう!」
ルナは一瞬で機嫌を直した。子供に弱いところも変わっていない。
「私は三百四十一歳でございます」
クロウが自分から答えた。
「俺は百二十四だ」
「百五十六」
アイゼンとガルムも続く。
「待て。なぜ俺たちまで年を明かしているんだ――」
「合わせて七百十三年か」
「合計するでない!」
ルナがすぐに叫ぶ。
「わらわたちを、まとめて古びた家具のように扱うでないぞ!」
「長く生きていることは誇りではないのか?」
「そなたの言い方には敬意がない!」
「人族の見た目で申せば、私は六十をいくらか越えた程度。アイゼンは二十五、ガルムは三十ほどでございます」
クロウがおだやかに補足した。
「ふぉふぉふぉ。種族が違えば、時の流れ方も違うもの。どうぞ、あまりお気になさらず」
「クロウは自分が一番年上だから余裕があるのじゃ!」
「ルナ様も、あと二百年ほどすれば気にならなくなります」
「今、気になると言うておる!」
騒ぎを聞きつけ、宿舎から次々に人が出てきた。グレイグを先頭に、ベッツたち七人、フェル、ティアナ、ロイド、ゲオルグ。獣人も、人間も、子供もいる。誰も武器へ手を伸ばさず、俺が連れてきた四人を興味深そうに見ていた。
「主様。ご無事で何よりです」
グレイグが俺へ頭を下げる。その視線が四人へ移った瞬間、元王国兵の目に変わった。立ち方、呼吸、傷、武器の位置。一目で四人の力量を測ろうとしている。
「その方々が、主様のおっしゃっていた方々ですか?」
「ああ。ルナ、クロウ、アイゼン、ガルムだ」
「わらわたちはまだ――」
「客人だ。何度も聞いた」
「ならば、最後まで言わせよ」
グレイグはルナの言葉遣いにも、アイゼンが俺へ向ける険しい視線にも何も言わなかった。ただ、ガルムの大盾を見た後、自分の右腕をわずかに動かす。
「一度、手合わせをお願いしたい」
「着いたばかりじゃぞ!」
ルナが叫んだ。
「グレイグ。後にしろ」
「承知しました」
「よくぞ申した! 少しは話の分かる者もおるではないか」
「まずは朝食だ。手合わせは、こいつらが休んでからにしろ」
「そなたも同じではないか!」
宿舎へ入ると、食堂には全員分の食事が用意されていた。長いテーブルの上に、焼きたてのパン、肉と豆を煮込んだスープ、卵、野菜が並んでいる。山で食べた物より温かく、量も多い。
四人は、すぐには席へ着かなかった。食堂には上座らしい場所がない。俺も、ニーナも、グレイグも、子供たちも、空いている場所へ座って同じ物を食べる。種族によって食事の扱いを変えることもなく、必要な者は必要なだけ食べられる。
ルナは何も言わず、その様子を見ていた。
「客人の席はどこじゃ?」
「空いているところだ」
「王女に長椅子を勧めるのか?」
「椅子の方がいいなら、そこにある」
「そういう意味ではない!」
「ルナ様。まずは、お座りになられてはいかがでしょう」
「クロウまでわらわを面倒な者のように扱うでない」
「三百四十一年の経験から申し上げております」
「年齢を自分で使うのはずるいぞ」
文句を言いながらも、ルナはルゥの隣へ座った。クロウはその後ろに立とうとしたが、俺が椅子を指す。
「ここでは全員座って食え」
「私はルナ様の執事でございます」
「知っている。座れ」
「ですが――」
「クロウ」
ルナが、空いている隣の椅子を引いた。
「わらわも腹が減った。そなたが立っておっては、皆が食べにくかろう」
「……承知しました」
クロウが腰を下ろし、アイゼンとガルムもそれぞれ空いた椅子へ座った。
人間も、獣人も、ヴァンパイアも、同じ食卓を囲む。四人を迎える最初の朝が、ようやく始まった。
だが、その朝をもたらす光こそが、四人に残された最大の弱点だった。




