第92話 王血を奪い取る
ヴァンパイアが人をかむのは、血を飲むためだけではない。牙から、自分の血を相手へ送り込むことができる。その血に含まれるのは、単なる魔力ではなく、人間とは異なる性質を持つヴァンパイア細胞だ。夜の魔力を取り込み、驚異的な再生を可能にする。
体内へ入ったヴァンパイア細胞は、血流に乗って心臓へ届く。そこから全身へ広がり、骨髄、内臓、神経、脳へ侵入する。人の細胞を食らい、自分と同じものへ作り替え、最後には肉体だけでなく、魔力の流れと魂にまで、かんだ者の血の刻印を刻む。
王家の血を引くルナの細胞は、特に強い。普通の人間なら侵入を止めることはできず、身体はヴァンパイアへ変わり、夜の力と再生能力を得る。代わりに生物の血を求め、陽光に弱くなり、血を与えた主の命令へ逆らえなくなる。
ヴァンパイア化。そして《眷属化》。肉体の変化と支配の契約が、一度のかみつきで同時に進む。
ルナの血が俺の心臓へ届き、強い鼓動が一つ鳴った。血管の中を無数の細い刃が走る。骨の中が焼け、全身の細胞を一つずつ食い破られるような痛みが広がった。視界が赤く染まり、口の中では犬歯がわずかに伸び始める。
「アレス!」
遠くで、アイゼンの声が聞こえる。
「姫様の王血を受けた。もう終わりだ」
「ふぉふぉ……終わりであれば、よろしいのですが」
クロウだけが、俺を警戒したまま動かない。
《超再生》が侵入した異物を捉え、すぐに排除しようとする。俺はそれを止めた。まだ早すぎる。かまれた瞬間にすべて破壊すれば、何も残らない。ヴァンパイア細胞が心臓へ届き、骨髄と筋肉へ自分の性質を刻むまで待つ。
これも、今回ルナの攻撃を受けようと決めていた理由の一つだ。滅びた未来でも、俺には《超再生》があった。だが、ルナたちが生きていた頃の俺には、王血がもたらす変化を選別し、必要な性質だけを自分の細胞へ再現できるほどの理解はなかった。自分の身体へ生きた王血を入れて試すには、危険が大きすぎた。
ルナたちを失った後も、俺は数十年にわたって《超再生》を使い続けた。傷つき、治し、そのたびに力が身体へ何をしているのかを感じ取り、制御を磨いてきた。そうしてようやく、異物をただ破壊するだけでなく、不要なものを拒絶し、必要な性質だけを自分の身体へ同化させ、望む形へ再生できるほど、この力への理解を深めた。
ルナの血の刻印が魂へ届こうとする。
ここだ。
《超再生》を解き放つと、全身が内側から燃え上がった。まず、命令へ従わせる血の刻印を破壊する。次に、人の細胞をヴァンパイアへ変える命令を消す。血を欲しがる衝動、陽光への弱さ、牙と瞳を作り替える情報。再生に必要のないものは、すべて拒絶する。
だが、ヴァンパイア細胞が持つ性質のすべてを捨てるわけではない。夜の魔力を血へ取り込む性質と、取り込んだ魔力を筋肉と感覚へ回して肉体を強化する仕組み。その二つだけを解析し、俺自身の細胞に同じ働きを再現する。ルナの細胞を残すのではない。俺の身体を、同じ働きができる形へ再生するのだ。
全身を侵していた痛みが急速に引いていく。伸びかけた牙が元へ戻り、赤く染まった視界も本来の色を取り戻した。代わりに、夜の谷へ満ちる魔力が皮膚から血の中へ流れ込み、心臓がもう一度強く鳴る。
筋肉が膨らんだわけではない。それでも、身体のすべてが軽い。音が先ほどより近く聞こえ、暗闇にいる虫の羽ばたきも、離れた岩から落ちる砂の一粒も分かった。
拳を握る。昼の俺と比べ、およそ二倍。本物のヴァンパイアが夜に得る三倍から五倍の強化には届かないが、俺には昼の弱体化も、血を欲しがる衝動も、ルナの支配もない。
夜の強化だけを手に入れた。
「ひざまずけ」
ルナの声が響く。
王血の主が、初めて眷属へ下す命令だった。
「わらわの眷属として、頭を垂れよ」
血の刻印が残っていれば、身体は意思に関係なく従う。
俺はルナの前へ一歩踏み出した。ルナの口元に、勝利を確信した笑みが浮かぶ。そのまま目の前まで歩いた。
「終わりじゃ、アレス。これでそなたは――」
額へ指を当てた。
「なぜ、ひざまずかぬ?」
「命令を聞く理由がない」
「なっ……」
ルナが、慌てて自分の胸元へ手を当てた。俺との間に結ばれたはずの血のつながりを探っている。
「ない……わらわの刻印が、消えておる」
「消した」
「消した?」
「眷属化も、ヴァンパイア化も止めた」
「ならば、なぜそなたの身体へ夜の魔力が集まっておる!」
「使える性質だけ取り込んだ」
谷から音が消え、ルナの赤い瞳がこれ以上ないほど大きく開く。
「使える性質、じゃと?」
「夜の強化だ。お前たちほどではないが、今の俺なら普段の二倍ほど動ける」
「わらわの王血を、何だと思っておる!」
「役に立った」
「返せ!」
「もう俺の身体の性質だ。返せない」
「人の王宮から宝を盗む者でも、もう少し申し訳なさそうな顔をするぞ!」
「かんだのは、お前だ」
「避けられたであろう!」
「ああ」
「わざとかまれたのか!?」
「そうだ」
ルナが言葉を失った。アイゼンは剣を取り落としかけ、ガルムは静かにうなずいた。
「見事だ」
「何が見事なものか! ガルム、そなたはどちらの味方じゃ!」
「ルナ様の味方だ。だが、見事だ」
「今は褒めるでない!」
「承知した」
「ふぉふぉふぉ……」
クロウの笑い声が、少しずつ大きくなる。
「何がおかしい、クロウ!」
「失礼いたしました。長くお仕えしてまいりましたが、ルナ様の王血から支配だけを捨て、力だけ持ち去った人間は初めて拝見いたしましたので」
「二人目がいてたまるか!」
怒鳴るルナの顔には、先ほどまでの余裕がない。それでも、杖を拾おうとする。
「まだ続けるのか?」
「当然じゃ! わらわの血まで盗まれ、このまま終われるものか!」
「盗んでいない」
「わらわの細胞が持つ性質を勝手に取り込んだのであろう!」
「身体へ入れた物をどうするかは、俺が決める」
「その理屈で納得できると思うか!」
「なら、もう一度戦うか?」
闘気を解放すると、夜の魔力が血を通して全身へ巡る。先ほどまでとは違う圧力が谷へ広がり、地面へ細い亀裂が走った。
アイゼンの表情から怒りが消える。クロウの虫は俺から距離を取り、ガルムは大盾を構え直した。
「来るぞ」
「何がじゃ?」
「速い」
地面を蹴る。
「《無拍子》」
景色が止まったように見えた。最初にクロウの前へ出る。老執事は反応し、短剣を上げようとしていたが、間に合わない。みぞおちへ拳を添えた。
「今度こそ、眠っていろ」
衝撃を通すと、クロウの身体から力が抜けた。倒れる前に襟をつかみ、ガルムの後ろへ投げる。
次はアイゼン。
「雷剣――」
「遅い」
雷が剣を覆う前に、アイゼンの右手首へ左手を添え、右手でその肘を押して力の向きを変える。剣が宙へ舞った。
「まだだ!」
アイゼンが左の拳を振るう。頭をわずかに傾けて避け、その胸へ手のひらを当てた。
「《破砕》」
内臓を潰さない強さで衝撃を通すと、アイゼンの身体が後方へ飛び、ガルムの大盾へ背中からぶつかった。ガルムが片腕で受け止める。
「二人分を守れるか?」
「守る」
「なら、三人目だ」
大盾が、俺の前へ立つ。
「土盾《不動城塞》」
残る土と岩がすべて盾へ集まり、厚さが倍になる。ガルムの足元から岩が伸び、両脚を大地へ固定した。
「俺は退かん」
「知っている」
右足で地面を踏む。
「《震脚》」
衝撃が岩盤を走り、ガルムの足元へ届く。固定していた土が崩れた。それでもガルムは退かない。俺は正面から大盾へ拳を当てた。
「壊すか?」
「壊さない。必要な盾だからな」
「ならば、越えられん」
「盾を壊す必要はない」
拳から衝撃だけを通す。
「《破砕》」
大盾は砕けず、その向こうにいるガルムの身体だけが大きく揺れた。両脚が地面から離れ、盾ごと後方へ滑る。
十歩。
二十歩。
最後まで盾は離さず、クロウとアイゼンを守ったまま、片膝をついた。
「見事だ」
「今は褒めるなと命じられただろう」
「忘れていた」
「うそをつけ」
「うむ」
だが、そのやり取りの間も、背中へ向けられた殺気は少しも薄れていなかった。




