第91話 王女の牙
頭上から、巨岩の重みが両腕へ食い込む。骨がきしみ、足元の岩盤へ膝まで沈んだ。
俺の後ろには、ルナたち四人がいる。避けることはできない。避けるつもりもない。
「アレス!」
初めて、ルナが俺の名を叫んだ。
「黙って下がっていろ!」
闘気を両腕へ集める。受け止めるだけでは足りない。このまま横へ投げれば谷の斜面が崩れ、後ろへ落とせば四人が潰れる。細かく砕き、正面へだけ弾き飛ばす。
指を岩へ深く食い込ませた。
「《破砕》!」
手のひらから放った衝撃が巨岩の内側へ走り、一つの塊だった岩へ無数の亀裂が広がった。次の瞬間、頭上の巨岩が内側から弾け飛び、正面へ岩片が降り注ぐ。
「ガルム!」
「承知」
大盾が俺の横へ並ぶ。ガルムはクロウとアイゼンを後ろへ押し、ルナまで盾の陰へ入れた。残っている魔力を絞り出し、盾の表面へ土と岩を重ねる。
「土盾《不動城塞》」
岩片が大盾へ激突し、重い音が連続して響く。ガルムの両足が地面を削った。それでも、一歩も退かない。
やがて最後の岩が落ち、谷へ静けさが戻った。
俺の両腕は、肘から先の骨が砕け、筋肉も何か所か断裂していた。《超再生》を働かせると、曲がっていた骨が元の形へ戻り、裂けた筋肉がつながる。腕を一度開き、握る。問題なく動く。
振り返った。
「全員、無事か?」
四人とも俺を見ていた。クロウはガルムへ支えられながら、いつものおだやかな表情を失っている。アイゼンは剣を握ったまま、何かを言おうとして口を閉じた。
ガルムだけが短く答える。
「無事だ」
「そうか」
「お前が守った」
「連れて帰ると言ったからな」
「うむ」
ガルムが、わずかに口元を緩めた。
ルナは、杖を持ったまま動かない。
「なぜじゃ」
「何がだ?」
「なぜ、わらわたちをかばった」
「さっき答えた」
「わらわたちは、そなたを殺そうとしたのじゃぞ」
「殺せないことは分かっていた」
「そういう話ではない!」
ルナの声が、崩れた谷へ響く。
「そなたが避ければ、それで済んだ。わらわの血術が招いた崩落じゃ。わらわたちが潰れようと、そなたには関係なかろう」
「ある」
「なぜじゃ」
「四人とも、俺に必要だからだ」
「力が、か?」
「それだけではない」
言葉がのどで止まる。今の四人にとって、俺は今夜会ったばかりの人間だ。滅びた未来で何度も助けられたことも、共に戦った年月も、最後には誰一人守れなかったことも話せない。
それでも、これだけは伝えられる。
「お前たち全員に、生きていてほしい」
ルナの赤い瞳が揺れた。アイゼンも、今度は怒鳴らない。
クロウだけが静かに問う。
「なぜ、そこまで私たちを?」
「今は話せない」
「いずれは、お話しいただけますか」
未来のことを話せない誓いがある。過去へ戻った事実は、一生話せないかもしれない。
「話せることなら、必ず話す」
「ずいぶんとはっきりしないお答えですね」
「うそをつくよりはいい」
クロウはしばらく俺を見つめた。
「ふぉふぉ……確かに」
小さな笑い声が戻る。
ルナが目を閉じた。戦いが終わったのかと思ったが、再び開いた赤い瞳には、まだ強い意志が残っている。
「クロウ、アイゼン、ガルム。下がれ」
「姫様?」
アイゼンが顔を上げる。
「わらわは、まだ敗北を認めておらぬ」
「今ので十分だろう」
「そなたが勝手にわらわたちをかばっただけじゃ。勝敗とは関係ない」
「ずいぶんと都合のよい解釈だな」
「わらわは王女じゃ。都合の悪いことを、都合よく解釈する権利くらいある」
「そんな王女だから、父親とけんかして山へ逃げることになる」
「そなた、事情を知っておるからと好き勝手に申すでない!」
怒鳴るだけの力が残っているなら、問題ない。
「姫様」
クロウが、ルナの横へ進み出ようとする。
「お下がりください。次は私が――」
「命令じゃ」
ルナの声が変わった。王女らしい重みを持つ、逆らうことを許さない声だった。
「三人とも下がれ。わらわが、この者を止める」
「しかし」
「そなたたちは十分に戦った」
クロウは何かを言いかけ、最後には深く頭を下げた。
「承知しました」
アイゼンは納得していない顔のまま、剣を下ろす。ガルムは二人を守るように大盾を構え、数歩後ろへ退いた。
ルナが俺の前へ進み出る。
長い紫髪が、夜風を受けて揺れた。
「アレス。そなたは、わらわたち四人を連れていくと申したな」
「ああ」
「ならばわらわは、そなた一人を連れていく」
「できるものならな」
「その言葉、後悔するでないぞ」
ルナが杖を構えた。戦いが、再び始まる。
◇
「杖術《血月輪舞》!」
杖の先端が、のどへ伸びる。一度見た動きとは違う。先ほどは三人と歩調を合わせ、周囲を確かめながら戦っていた。今は自分一人。守る相手を後ろへ置き、すべての意識を俺だけへ向けている。
速い。
のどを狙った突きを半歩で避ける。杖が手の中を滑り、反対側の石突きが脇腹へ迫った。左腕で受けると、骨まで響く重さがある。すらりとした細身からは想像しにくいが、腕力も強い。
石突きへ血の刃が生まれ、左腕の肉が裂けた。
ルナは杖を止めず、身体ごと回転する。長い紫髪が円を描き、その陰から赤黒い炎が放たれた。
「闇炎《蝕月》!」
身を沈めて炎の下を潜り、懐へ入る。右の手のひらを腹へ伸ばすと、ルナが杖から手を離した。
血で作られた二本の短剣が両手へ生まれ、俺の手首と首を同時に狙う。首の刃を左手で弾き、右の刃を腕へ受けた。肉へ食い込んだ血刃がすぐに形を崩し、また身体の中へ入り込む。
「《緋牢》か」
「同じ破り方が、何度も通じると思うでない」
今度の血は、俺の血を支配しようとしなかった。傷口から細い糸となって広がり、筋肉と骨へ直接巻きつく。俺の血と混ざらず、身体の内側へ杭を打つように動きを止める。
右腕が動かなくなった。同時に、足元から血鎖が伸び、両脚へ絡みつく。
「止めたぞ」
「悪くない」
「その上からの物言いを、まず改めさせてやる」
ルナが右手を振る。背後から《紅槍葬列》が迫った。
両脚は縛られ、右腕も動かない。左手の指を体内へ入り込んだ血の糸へ当てる。見えなくても、位置は分かる。
「《崩刃》」
身体の内側で血の糸を断つと、右腕が動いた。両脚を縛る鎖を力任せに引き千切り、前へ出る。
背後から迫った血の槍が服を裂き、背中へ何本も赤い線を刻んだ。それでも止まらず、ルナの前へ踏み込む。
「《無拍子》」
予備動作のない一歩に、ルナの赤い瞳が俺を見失う。その横へ回り、右拳を脇腹の寸前で止めた。
「一度目だ」
打ち込めば、あばら骨と内臓をまとめて潰せる。ルナも分かっている。だが、降参とは言わなかった。身体を俺へ寄せ、拳の間合いを自ら潰す。
左手が俺の首へ回った。
「近すぎるぞ」
「それでよい」
ルナの唇から二本の牙がのぞいた。
ここだ。
これを待っていた。
避けようと思えば避けられる。俺は動かなかった。
牙が首筋へ食い込む。鋭い痛みが走り、皮膚を破った牙が血管へ届く。その牙を通して、熱いものが流れ込んできた。
「王血秘術《緋王ノ契》」
耳元でルナがささやく。
「そなたを殺しはせぬ。わらわの血の力に従う配下、《眷属》となり、自分の思い上がりを悔いるがよい」
牙が抜ける。首筋から流れた血を、ルナが赤い舌で拭った。
身体の中へ入った熱が、心臓へ向かって走る。




