第83話 北の谷にいる四人
セルジュ視点
これまで別々に働いていた者たちが、少しずつ一つの仕組みに変わり始めている。ロイド殿が品を売る。ティアナ殿が薬を作る。ゲオルグ殿が店と倉を建て、グレイグ殿たちが荷を守る。フェル殿の鳥が知らせを運び、私は人、金、契約、情報の流れをつなぐ。
ここで、一つの名が必要だった。
「アレス様。商人組合へ提出する書類を用意してございます」
机の引き出しから、一枚の書類を取り出す。書類を出す者と代表者の欄には、ロイド殿の名がある。私の名は実際の仕事を取りまとめる者として記し、商会名の欄だけを空けてあった。
「俺の名は?」
「どこにもございません。アークハルト家のお名前も同様です」
「それでいい」
ニーナ様が、不思議そうに書類をのぞき込んだ。
「アレス様がお作りになった商会なのに、男爵家のお名前を出さないのですか?」
「出さない。商会も傭兵団も、アークハルト家とは別の組織として動かす」
「表向きだけ、ということでございましょうか?」
私が確かめると、アレス様は首を横に振った。
「名前だけでは意味がない。金の管理、人を雇う仕事、倉庫、装備をすべて男爵家から分けろ。アークハルト家から仕事を受ける時も、他の依頼主と同じように契約を交わし、正しい代金を受け取る」
「男爵家の紋章も用いず、騎士団から人員や装備を借りることもない。そういうことでございますね」
「ああ。父上の家業にも、騎士団の一部にもさせない。俺や父上が動けない時でも、自分たちの判断と力で人を救える組織にする」
アレス様は、商会と傭兵団を利用してアークハルト家の力を増やそうとしているのではない。領地や爵位に縛られず、必要な場所へ手を伸ばせる力を作ろうとしているのだ。
「ただし、大きな方針と、誰にも任せられない仕事は俺が決める」
「承知しております」
「俺との関係を知るのは?」
「主従契約を結んだ創設時の者たちだけでございます。新たに雇った二十四名には、ロイド殿の店を中心に皆で立ち上げた商会だと伝えております」
「今後も、核心に関わる者以外に知らせる必要はない」
「かしこまりました。表ではロイド殿が代表を務め、私が実務責任者を務めます。帳簿にも、契約書にも、アレス様のお名前は残しません」
「グレイグには傭兵団を任せる。商会の護衛だけでなく、他の商人や領地からも仕事を受けさせろ」
「この傭兵団も、アークハルト家の私兵ではなく、自分たちで判断して動く組織として登録いたします」
「それでいい」
「何か、お考えが?」
「鳳凰商会」
「鳳凰……」
「炎の中からよみがえる鳥だ。一度すべてを失っても立ち上がる。傷ついた者も、道を間違えた者も、役目を得て再び生きられるようにする。俺たちには、ちょうどいい」
グレイグ殿は戦う身体と、人を率いる誇りを取り戻した。ティアナ殿は失いかけた命と、薬師としての道を取り戻した。フェル殿は左腕と、子供たちの未来を取り戻した。ベッツ殿たちは、奪う側から守る側に変わろうとしている。そして私は、人を売るために使ってきた知識と契約を、人を新しい働き場所へつなぐために使い始めた。
「鳳凰商会……よい名でございます」
「報酬を受けて依頼主のために戦う者たちは、《フェニックス傭兵団》とする」
「同じく、よみがえる鳥の名ですな」
「商会も傭兵団も根は同じだ。片方が倒れれば、もう片方が支える。焼かれても、何度でも立て直す」
「二つは互いを支える姉妹組織。しかし、金も人も契約も別に管理する。商会が護衛を頼む時も、正式な依頼として傭兵団に報酬を支払います」
「ああ。近すぎるからこそ、はっきりさせろ」
アレス様の目が私に向く。
「セルジュ。お前には、鳳凰商会で人、契約、金、情報の流れを管理してもらう」
「私が、でございますか」
「お前以外に誰がいる」
最初に走れと命じられた日と、同じ言葉だった。あの日の私は、なぜ奴隷商である自分まで鍛えられるのかとおびえた。今は、その言葉が胸の奥に真っすぐ届いた。
「お前は、人が追い詰められた時、どこへ流れるのかを知っている。契約の抜け道も、金で人が変わる瞬間も知っている。だからこそ、同じ方法で俺たちの組織が腐らないよう見張れ」
「私のような者に、任せてよろしいのでしょうか」
「過去を忘れた者には任せない。自分が何をしたのかを覚えたまま、二度と繰り返さない者に任せる」
目の奥が熱くなった。許されたとは思わない。犯した罪が消えたわけでもない。それでもアレス様は、過去を理由に私を切り捨てない。過去があるからこそ、できる仕事を与えてくださる。
「承知いたしました」
私は椅子から立ち、胸に右手を当てた。
「人を売るためではなく、人と働く場所をつなぐために。金を奪うためではなく、人と物を必要な場所へ動かすために。世界中から異変を集め、誰よりも早くアレス様にお届けいたします」
深く頭を下げる。
「このセルジュ、一生をかけ、鳳凰商会の根を世界中へ広げてみせます」
「期待している」
わずか五文字だった。だが、その言葉だけで十分だった。
◇
最後の帳簿を机に置く。表紙には、私以外には意味の分からない印だけをつけてある。
人と物の流れ。各地で売れた品。急に値が上がった食料。壊れた道。姿を消した商隊。見慣れない者。魔物の出現場所。領都を出入りする商人、旅人、奴隷商、傭兵、冒険者から集めた話を、事実と噂に分けて記した情報記録だった。
「頼まれていた北部の情報も、まとめてございます」
アレス様の目が変わった。
「見せろ」
帳簿から数枚の紙を取り出し、簡単な地図と共に机に並べる。
「魔の森北部の山岳地帯へ近づく者は、ほとんどおりません。道が険しいだけでなく、強い魔物が多いためです。ただ、森の縁を通る狩人と、北の集落へ品を運ぶ商人から、いくつか奇妙な話を聞けました」
最初の紙を指す。
「三か月前、狩人が山のふもとで、血だけを失った魔物の死体を見つけています。肉はほとんど食われておらず、争った跡もわずかだったそうです」
アレス様は何も言わない。
「二か月前には、夜の森で魔物に襲われた商人が、マントを着た四人組に助けられました。四人のうち一人を、残る三人が守るように動き、魔物をあっという間に倒したとのことです。礼を告げる前に、四人は山の方角へ消えました」
「四人の姿は?」
「遠目には、すべて人間に見えたそうです。老齢の男、大柄な男、剣を持った若い男。そして長い紫髪の若い女性。暗かったため、顔までは分からなかったと」
アレス様の指が、地図の一点に触れた。
「ここか?」
「なぜ、お分かりに……」
指されたのは、商人が四人を見失った場所から、さらに山へ入った谷だった。
「答えろ」
「はい。その谷の周辺です。一か月前、別の狩人が崖の上に人影を見ています。後を追わせてはおりません。アレス様から、見つけても決して近づくなと命じられておりましたので」
「それでいい」
「十日ほど前には、北の小さな集落に見慣れない年老いた上品な男性が現れ、塩、布、油を買っております。夜明け前に訪れ、代金として質のよい魔石を置いていったそうです」
「間違いない」
アレス様の口から、低い声が漏れた。
安心している。そう気づくまでに、少し時間がかかった。
アレス様は何が起きても動じない。大金を稼いでも、失われた腕を再生させても、世界中に組織を広げると語っても、それが当然であるかのように振る舞う。そのお方が今、四人がそこにいると分かり、わずかに息を緩めていた。
「お知り合いなのですか?」
「今は違う」
「今は?」
「俺が、これから必ず配下にする四人だ」
アレス様が地図を見つめる。
「ルナ、クロウ、アイゼン、ガルム……」
まるで、生きていることを確かめたかったような言い方だった。なぜ会ったこともないはずの四人を、これほど気にかけているのか。私は尋ねなかった。
アレス様には、口にできない秘密がある。幼い少年が持つはずのない知識。一度すべてを失った者のような目。遠くない未来へ、何としても間に合わせようとする焦り。
主従契約によって秘密を守ると誓っていても、アレス様ご自身が話せないことまで無理に聞き出すつもりはない。
「その四人は、何者なのでございますか?」
「ヴァンパイアだ」
背筋に冷たいものが走った。夜に生き、血を糧とし、人よりはるかに長い時を生きる種族。人の町では、魔族と同じように恐れられることも多い。
「全員が、でございますか?」
「ああ」
「先ほどの報告では、人間と変わらぬ姿だったと」
「見た目は、ほとんど人間と同じだ。牙を隠せば、町を歩いても気づかれない。普通の食事もできる。生きるための血は魔物から得られる」
ニーナ様が、少しだけ安心したように息を吐く。
「その……配下になっていただけるので?」
「素直にうなずくような奴らではない」
「では、どのように」
「まず、俺の力を認めさせる」
言葉はおだやかだった。だが、それが話し合いだけを意味しないことは、私にも分かる。
「半年前の俺では、まず勝てないと判断した。だから鍛えた」
「今なら?」
「勝つ」
迷いはなかった。できるかもしれない、ではない。勝つと決めている。
「いつ、向かわれるのですか?」
「明日の朝だ。夕暮れまでに谷へ着き、夜を待つ」
「夜を、待つのでございますか?」
問い返した私に、アレス様は静かにうなずいた。
その瞬間、「四人を迎えに行く」という言葉の意味が、私の中でまったく別のものに変わった。




