第82話 働く場所をつなぐ
セルジュ視点
娘が、母親の手を強く握った。
「できる仕事は?」
「縫い物ならできます。夫が商隊の荷運びをしていましたので、破れたマントや荷袋を繕っていました。料理と洗濯もできます。何でもいたします」
「何でも、などと簡単におっしゃってはいけません」
女性がおびえたように肩を震わせた。言い方が強すぎたらしい。
「失礼いたしました。できることを正しく伝え、それに見合う報酬を受け取るべきだという意味です。私どもの店では、荷袋、マント、寝具を繕える者を探しております。住む場所と食事はこちらで用意し、そのうえで働いた分の賃金をお支払いします」
「奴隷としてでは、ないのですか?」
「違います」
「ですが、住む場所も食事もない私たちに、どうして……」
「仕事がある。あなたには、その仕事をする力がある。商会は働き手を必要としている。何も不思議なことはございません」
アレス様なら、きっとそう答える。助けたのだから、恩に報いろとは言わない。働かせる。役に立たなければ、役に立つよう教える。役目を果たせば、胸を張って報酬を受け取らせる。
「娘は……?」
「おいくつですか?」
「六歳です」
「では、仕事はよく食べ、よく眠り、よく遊ぶことです。宿舎には同じくらいの子供もおります。読み書きと計算も学べます」
女性の目に涙が浮かんだ。
「そんな場所が、本当に……?」
「ございます。ただし、あなたには徹底的に働いていただきます」
「はい。何でも――」
「できないことまで引き受ける必要はありません。まずは縫い物を見せてください。足りない技術があれば覚えていただきます」
「はい……はい。必ず働きます」
私は、用意していた雇用契約書を二枚取り出した。仕事の内容。働く時間。食事と住む場所。支払う賃金。怪我や病気になった時の扱い。本人が辞める時の決まり。商会の側が約束を守らなかった場合、契約を破棄できること。一つずつ読み上げる。
「なぜ、二枚あるのですか?」
「一枚は商会が保管し、もう一枚はあなたがお持ちください。約束に縛られるのは、働く者だけではございません。雇う側にも、守るべきことがあります」
女性は震える手で自分の名を書いた。決して上手な文字ではない。それでも奴隷契約に血を落とすのではなく、自分の意思で働くために記した名だった。
「契約は成立です。本日は娘さんと一緒に宿舎へ向かってください。食事を取り、身体を休めるように。仕事は明日からで構いません」
「本当に、ありがとうございます」
「礼は必要ございません。働いた分は、きちんとお支払いします」
女性は契約書を胸に抱き、娘と共に何度も頭を下げた。二人が店を出ると、外で待っていたミラ殿が宿舎まで案内するため声をかけた。幼い娘に笑いかけ、母親の荷物を自然に受け取っている。
半年前、ニーナ様をだまし、連れ去る役を担った女性が、今は行き場を失った母子を新しい場所へ案内していた。人は、変われる。過去を消すことはできない。だが、次に何をするかは選べる。
「悪くない」
店の奥から声が聞こえた。振り返ると、商談室へ続く扉の前にアレス様が立っていた。ニーナ様も、その隣で目元を拭っている。
「いつから、そちらに?」
「仕事があると言ったところからだ」
「ほとんど最初ではございませんか」
「邪魔をする必要はなかった」
「何か問題はございましたか?」
「ない。縫い物が本当に使えるかは確かめろ」
「もちろんでございます」
「使えるなら働かせろ。足りないなら教えろ。子供には遊ばせろ」
「かしこまりました」
褒められたわけではない。だが、私には十分だった。
ニーナ様が私の横に並ぶ。
「セルジュさんは、本当に変わられましたね」
「以前の私を知るニーナ様から、そう言っていただける日が来るとは思いませんでした」
「まだ、すべてを許せたのかは分かりません」
「はい」
「ですが、先ほどのお二人を見て、セルジュさんがもう同じことをなさらないのは分かります」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ニーナ様」
「これからも、私が見ていますからね」
「一生、見届けていただけるよう働くつもりでございます」
「それは、少し長すぎるような……」
「では、まず世界中に店を作るところまで」
「それも十分に長いと思います」
ニーナ様が、困ったように笑った。
◇
商談室の机に、四冊の帳簿を並べた。一冊は商売に使った金と得た金。一冊は働く者、住む場所、支払った報酬。一冊は品物と蓄え。最後の一冊には、領内外から集めた情報を記している。
アレス様は最初の帳簿を開き、物凄い速さでページをめくっていった。金額に一度目を通しただけで、すべて記憶しているように見える。途中で戻って確かめることもない。
「現在の手元資金は?」
「今月末に支払う給金、食費、材料費、建築費をすべて除いても、現在ここで働く全員を二年間は養える額が残ります」
ニーナ様が目を丸くした。
「二年間も、ですか?」
「誰一人働かず、商売から銅貨一枚の利益も出ず、アレス様が魔物の素材を一つも持ち帰らなかった場合でございます」
「最後の条件が、最も起こりそうにありませんね」
「私も、そう考えております」
現金だけの話だ。ロイド殿の店にある武器、防具、薬、保存食。まだ売却していない魔石、毛皮、牙、甲殻。修理した宿舎と倉。ゲオルグ殿がそろえた工具。ティアナ殿の調合器具。フェル殿が育てている翠羽鳥。それらを資産として加えれば、半年で築いた富はさらに大きくなる。
三人を迎える金さえ足りず、アレス様が七日間、魔の森で荒稼ぎされたころとは違う。今の私たちには、次の店を構え、人を雇い、しばらく利益が出なくても立て直せるだけの余力がある。
「貯めるだけでは意味がない」
アレス様が帳簿を閉じた。
「はい。ですが、何か起きた時に全員を食わせ、すぐ動ける金は必要です」
「それでいい。守る金と増やす金を分けろ」
「すでに三つに分けております。日々の仕事、危機への備え、新たな店を開いて人を雇うための金です」
「使った金は?」
「宿舎と倉の修理、給金、食料、ロイド殿の仕入れ、ティアナ殿の器具、フェル殿の鳥、ゲオルグ殿の工具と見習いの育成が主でございます」
「雇った者は?」
「主従契約を結んだ十六名とは別に、通常の雇用契約を結んだ者が二十四名です。宿舎で暮らしている者が八名。残る者は、ロイド殿の店、ゲオルグ殿の仕事場、倉、近隣の農家と工房で働いております」
「増えたな」
「働く者を必要とする場所と、働きたい者の間に、私どもが入るようになりましたので」
「主従契約は?」
「結んでおりません。アレス様の能力や計画を知らせる必要のない者まで、秘密で縛るべきではないと判断いたしました」
「それでいい。今後、人数が増えれば、すべての者と主従契約を結ぶことはできない。核心に関わる者だけで十分だ」
判断を認められ、胸の奥がわずかに熱くなった。
「不当に売られようとしていた者は?」
「この半年で十一名を奴隷契約から解放いたしました。五名は故郷へ戻り、四名は本人の希望で当商会と関係する場所に就職しております。残る二名は治療中ですが、回復後に希望を聞く予定です」
「使った金は?」
「こちらに」
私は帳簿の当てはまるページを開いた。アレス様は数行に目を通した後、一か所で指を止める。
「この印は何だ?」
「私個人の金から支払った分でございます」
「多いな」
「以前頂いた報酬は、仲間と新たに人を救うために使うと申し上げましたので」
「寄付、と書いてあるな」
「はい。返していただくつもりはございません」
「書き直せ」
アレス様は、帳簿を私の前に押し戻した。
「ですが――」
「寄付ではない。お前が組織に出した金だ。出資として残せ」
「利益の分配を求めるつもりはございません」
「求めるかどうかは、お前が決めていい。だが、誰が、いつ、何のために金を出したのかは正しく残せ」
「……はい」
「善意で出した金だから返さなくてよい。忠誠があるから無償で働かせてよい。そんな考えを一度認めれば、いずれ善意のある者だけが損をする組織になる」
年若い少年の口から出る言葉ではない。
だが、アレス様はいつもそうだった。目の前の一度だけを見ていない。それを続ければ何年後に何が起きるのか。人が増え、場所が増え、最初の約束を知らない者まで加わった時、どこから崩れるのか。まだ領都の小さな店と宿舎しかない時から、世界中に広がった後のことを考えている。
「お前の報酬は、お前のものだ。何に使うかは好きにしろ。すべて組織に入れたいのなら、それでも構わん。ただし、出した事実を消すことは許さない」
「かしこまりました」
私は筆を取り、寄付の二文字に線を引いた。その横に、出資と書き直す。
「これで、よろしいでしょうか?」
「よし」
「アレス様は、どうあっても私に正当な取り分を受け取らせるおつもりなのですね」
「当然だ。お前には、この先さらに働いてもらう。金を受け取ることを覚えろ」
「以前の私なら、誰よりも得意だったはずなのですが」
「今のお前は、受け取らないことで過去から逃げようとする」
筆を持つ手が止まった。
「金を受け取らず、自分だけが損をすれば償いになると思うな。正しく稼ぎ、正しく使え。その方が、多くの者を救える」
「……敵いませんな」
私一人が貧しくなったところで、過去に売った者たちの人生が戻るわけではない。自分を罰することと、償うことは違う。働き、稼ぎ、その金と力で、同じように道を失う者を一人でも減らす。それが私にできる償いなのだろう。
「次からは、胸を張って受け取ることにいたします」
「初めからそうしろ」
「半年かけて、ようやく学びました」
「遅い」
「アレス様の学ばれる速さと比べないでいただけると助かります」
アレス様は答えず、三冊目の帳簿に手を伸ばした。
「ロイドの店は?」
「武器と防具に加え、ティアナ殿の傷薬と解毒薬、保存食、旅に必要な生活用品を扱っております。先月は店を立て直してから最も大きな利益が出ました」
「蓄えは減らしていないな?」
「一定量を下回らないよう管理しております。傷薬、食料、灯りの油は、古くなる前に店に出し、新しい品と入れ替えています」
「ゲオルグは?」
「宿舎と旧石切り場の修理を終え、四人の見習いを育てております。領都の倉二棟、荷車七台、農家の納屋を修理し、第三倉庫を建築中です」
「グレイグたちは?」
「商隊護衛を五度。負傷者を一人も出さず、すべて成功しております。先日の護衛では街道へ出た魔物を八人だけで退治し、依頼人から、次も指名したいと言われております」
「そうか。順調だな。だが、慢心はするな」
「グレイグ殿も同じことを申しておりました」
アレス様は短くうなずき、三冊目の帳簿を閉じた。
残る帳簿を開く前に、私には一つだけ、アレス様に決めていただきたいことがあった。その答えが、私たちを領都の外へ導く最初の旗印になる。




