↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者:
第七章 かつての戦友編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/97

第81話 奴隷を買わない店

セルジュ視点


 朝食を終えた私は、宿舎の二階にある教室へ立ち寄った。


 半年前まで屋根には大きな穴が開き、窓は割れ、床にはほこりが積もっていた建物だ。今は新しい屋根板が朝日を受けて光り、すべての窓に硝子が入っている。中庭の井戸には丈夫な屋根がつき、炊事場からは焼きたてのパンの香りが漂っていた。


 教室では、セナ、カイ、ルゥの三人が机に向かっている。今日は数字の練習らしい。


「銀貨一枚は、銅貨が何枚でしょう」


 ロイド殿が尋ねると、セナとカイの手が同時に上がった。


「百枚です」


「正解です。では、銅貨十枚のパンを三つ買えば?」


「三十枚」


「残りは?」


「七十枚」


「よくできました」


 ルゥだけは手を上げず、真剣な顔で小さな石を並べている。


「ルゥは、分かりませんか?」


「パン三つじゃ、たりない」


「数の話です」


「アレス様なら十個たべる」


「それは否定できませんが、今は普通の人が三つ買った場合です」


「普通の人?」


 ルゥが首を傾げた。この子の中では、食事の量を考える基準がアレス様になっているらしい。教育上、いささか問題があるかもしれない。


「セルジュさん!」


 私に気づいたセナが、机の上から一枚の紙を持ち上げた。


「昨日の計算、全部できました」


「それは立派です。拝見しましょう」


 紙を受け取り、答えを確かめる。足し算も引き算も、ほとんど間違っていない。


「最後の問題だけ、銀貨が一枚多くなっていますね」


「違います」


「おや?」


「セルジュさんが作った答えの方が、間違っています」


 セナは別の紙を取り出し、数字を一つずつ指した。


「ここで銀貨を二枚使って、次に三枚使ってるから、残りは五枚です。セルジュさんの答えは六枚です」


 改めて計算する。


 セナが正しい。


「これは……」


「セルジュさん、数を間違えないって、朝も言ってた」


「聞いていたのですか?」


「石切り場まで朝ご飯を届けに行った時に」


「これは間違いではなく、皆さんが誤りを見つけられるか確かめるため、あえて違う答えを書いたのでございます」


「本当?」


「もちろんです」


「では、間違いを見つけた者に、何か褒賞を与えるべきでは?」


 いつの間にか教室の扉の前に立っていたアレス様が、静かに口を挟んだ。


「アレス様まで……」


「帳簿の誤りを見つけた者には、相応の報酬を払え。正しい数字を見つけても黙るようになれば、組織は腐る」


「ただの計算問題でございますが」


「セルジュは、あえて間違えたのだろう?」


「……ええ、もちろんでございます」


「なら、最初から褒賞も用意してあるはずだ」


 セナが期待に満ちた目で私を見る。カイとルゥまで、なぜか身を乗り出していた。


「分かりました。本日の菓子を一つ多くいたしましょう」


「やった!」


「見つけたのはセナですよ」


 ロイド殿が笑いながら言う。


「三人で計算をしていたのですから、三人に差し上げます」


「セルジュさん」


 セナが、少しだけあきれた顔をした。


「何でしょう?」


「甘いです」


「菓子だけに?」


「そういうところもです」


 九歳の少女に言い負かされた。


 それでも、悪い気はしない。半年前、三人は大人の足音が聞こえるだけでフェル殿の背に隠れていた。今は自分の答えが正しいと思えば、奴隷商だった私にも堂々と間違いを指摘する。アレス様が告げたとおり、よく食べ、よく眠り、よく遊びながら、未来を選ぶための力を身につけ始めていた。


 教室を出ると、中庭の小屋から一羽の翠羽鳥が飛び出した。朝日に照らされた羽は鮮やかな緑色で、翼を広げるたび、細かな光が舞うように見える。


 鳥は中庭を一周すると、フェル殿の左腕に降り立った。フェル殿が脚に結ばれた細い筒を外し、中から小さく丸められた紙を取り出す。


「西の倉から。ゲオルグさんの木材、昼までに届く」


「昨日より速く戻りましたね」


 ティアナ殿が、薬を並べた木箱を抱えて調合室から出てきた。


「南門の上を回らなくなった。道を覚えた」


「この子で、何羽目です?」


「六羽。遠くへ飛べるのは、まだ三羽」


「十分な成長でございます。次は、どこまで?」


「魔の森の縁。そこまで行ければ、森へ入った人の帰りを知らせられる」


 フェル殿が幼鳥ののど元を指先でなでる。翠羽鳥は気持ちよさそうに目を細めた。


 力で従わせているのではない。フェル殿が鳥を信じ、鳥もまたフェル殿を信じて戻ってくる。半年前、アレス様が語られた情報網の、小さいながらも確かな始まりだった。


「セルジュさん、こちらを」


 ティアナ殿が木箱を差し出す。上には、丁寧な文字で書かれた紙が載っている。


「昨日作った傷薬が三十、解毒薬が十二です。材料、作った数、失敗した分も記録しました」


「確かにお預かりいたします。ロイド殿の帳簿と照合し、売れた数をお返しします」


「お願いします」


「冒険者ギルドから、解毒薬を月に二十納めてほしいと正式な依頼が届いております。受けられますか?」


 ティアナ殿はすぐにうなずかず、材料と調合室に視線を向けた。


「今のままなら、十五です。二十作ろうとすれば、傷薬の数を減らすか、質を落とすことになります」


「では、十五で返答いたします」


「よろしいのですか?」


「アレス様から、質を落としてまで数を増やすなと命じられております。足りない五つを作れる人材と器具をそろえるのは、私の仕事です」


「ありがとうございます」


「礼は、薬を必要とする方々へ。よい物を作ってください」


「はい。必ず」


 半年前、ティアナ殿は自分の命を諦めかけていた。今は自分の薬を待つ誰かのために、できない数をできると言わず、できる十五を確実に届けようとしている。


 身体だけではない。ここにいる全員が、それぞれの場所で前へ進んでいた。



 午前の店には、ひっきりなしに人が出入りしていた。


 通りに面した古い看板は、すでに下ろしてある。半年前まで、そこには奴隷を扱う店であることを示す鎖の印が描かれていた。今は広間に机と椅子を置き、地下で人を閉じ込めていた部屋は、壁を抜いて品物を保管する倉に造り替えている。扉についていた外側からしか開けられない錠も、すべてゲオルグ殿に外してもらった。


 私は今も、奴隷商としての許可を手放してはいない。奴隷契約を扱う場所へ入らなければ、誰が不当に売られようとしているのか分からない。以前のつながりも残し、売り手、人買い、借金を扱う商人の間から情報を集めている。


 ただし、罪のない者をだまし、脅し、本人の意思に反して契約することは、二度とない。不当に売られようとする者を見つける。働く意思と力があるのに行き場を失った者を見つける。そして本人が望むなら、働く場所へつなぐ。それが、アレス様から与えられた私の仕事だった。


 扉を開けて間もなく、痩せた女性が店へ入ってきた。年は三十に届くかどうか。何度も繕った服を着て、片手で幼い娘の手を握っている。娘の方も頬が痩せ、母親の陰から不安そうに私を見ていた。


「ご用件を伺います」


 女性は店の中を見回した。人をつなぐ鎖も、鉄格子もないことに戸惑っている。


「こちらは……奴隷を買ってくださる店ではないのですか?」


 胸の奥に、鈍いものが刺さった。半年前までなら、何の疑問も抱かなかった言葉だ。私は女性の年齢、健康状態、働ける年数を見た。身につけた服と手の荒れ方から、どのような仕事をしてきたのかを考えた。そのうえで、できるだけ安く買い、いくらで売れば最も利益が出るかを計算しただろう。


「以前は、そうでした」


「では、今は違うのですか?」


「今は、人と働く場所をつなぐための店に変えております」


 女性の顔に、わずかな落胆が浮かんだ。娘の手を引き、帰ろうとする。


「お待ちください。なぜ、ご自分を売ろうとなさったのです?」


「夫が亡くなりました。借りていた部屋も、明日には出なければなりません。この子だけでも食べさせてくださる方に預けたくて……ですが、子供だけでは買えないと言われました。それなら、私も一緒にと」


 私は、かつて奴隷契約書を広げていた机に目を落とした。半年前の私なら、次に尋ねたのは二人の値段だった。だが、今の私が尋ねるべきことは、もう決まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。