第81話 奴隷を買わない店
セルジュ視点
朝食を終えた私は、宿舎の二階にある教室へ立ち寄った。
半年前まで屋根には大きな穴が開き、窓は割れ、床にはほこりが積もっていた建物だ。今は新しい屋根板が朝日を受けて光り、すべての窓に硝子が入っている。中庭の井戸には丈夫な屋根がつき、炊事場からは焼きたてのパンの香りが漂っていた。
教室では、セナ、カイ、ルゥの三人が机に向かっている。今日は数字の練習らしい。
「銀貨一枚は、銅貨が何枚でしょう」
ロイド殿が尋ねると、セナとカイの手が同時に上がった。
「百枚です」
「正解です。では、銅貨十枚のパンを三つ買えば?」
「三十枚」
「残りは?」
「七十枚」
「よくできました」
ルゥだけは手を上げず、真剣な顔で小さな石を並べている。
「ルゥは、分かりませんか?」
「パン三つじゃ、たりない」
「数の話です」
「アレス様なら十個たべる」
「それは否定できませんが、今は普通の人が三つ買った場合です」
「普通の人?」
ルゥが首を傾げた。この子の中では、食事の量を考える基準がアレス様になっているらしい。教育上、いささか問題があるかもしれない。
「セルジュさん!」
私に気づいたセナが、机の上から一枚の紙を持ち上げた。
「昨日の計算、全部できました」
「それは立派です。拝見しましょう」
紙を受け取り、答えを確かめる。足し算も引き算も、ほとんど間違っていない。
「最後の問題だけ、銀貨が一枚多くなっていますね」
「違います」
「おや?」
「セルジュさんが作った答えの方が、間違っています」
セナは別の紙を取り出し、数字を一つずつ指した。
「ここで銀貨を二枚使って、次に三枚使ってるから、残りは五枚です。セルジュさんの答えは六枚です」
改めて計算する。
セナが正しい。
「これは……」
「セルジュさん、数を間違えないって、朝も言ってた」
「聞いていたのですか?」
「石切り場まで朝ご飯を届けに行った時に」
「これは間違いではなく、皆さんが誤りを見つけられるか確かめるため、あえて違う答えを書いたのでございます」
「本当?」
「もちろんです」
「では、間違いを見つけた者に、何か褒賞を与えるべきでは?」
いつの間にか教室の扉の前に立っていたアレス様が、静かに口を挟んだ。
「アレス様まで……」
「帳簿の誤りを見つけた者には、相応の報酬を払え。正しい数字を見つけても黙るようになれば、組織は腐る」
「ただの計算問題でございますが」
「セルジュは、あえて間違えたのだろう?」
「……ええ、もちろんでございます」
「なら、最初から褒賞も用意してあるはずだ」
セナが期待に満ちた目で私を見る。カイとルゥまで、なぜか身を乗り出していた。
「分かりました。本日の菓子を一つ多くいたしましょう」
「やった!」
「見つけたのはセナですよ」
ロイド殿が笑いながら言う。
「三人で計算をしていたのですから、三人に差し上げます」
「セルジュさん」
セナが、少しだけあきれた顔をした。
「何でしょう?」
「甘いです」
「菓子だけに?」
「そういうところもです」
九歳の少女に言い負かされた。
それでも、悪い気はしない。半年前、三人は大人の足音が聞こえるだけでフェル殿の背に隠れていた。今は自分の答えが正しいと思えば、奴隷商だった私にも堂々と間違いを指摘する。アレス様が告げたとおり、よく食べ、よく眠り、よく遊びながら、未来を選ぶための力を身につけ始めていた。
教室を出ると、中庭の小屋から一羽の翠羽鳥が飛び出した。朝日に照らされた羽は鮮やかな緑色で、翼を広げるたび、細かな光が舞うように見える。
鳥は中庭を一周すると、フェル殿の左腕に降り立った。フェル殿が脚に結ばれた細い筒を外し、中から小さく丸められた紙を取り出す。
「西の倉から。ゲオルグさんの木材、昼までに届く」
「昨日より速く戻りましたね」
ティアナ殿が、薬を並べた木箱を抱えて調合室から出てきた。
「南門の上を回らなくなった。道を覚えた」
「この子で、何羽目です?」
「六羽。遠くへ飛べるのは、まだ三羽」
「十分な成長でございます。次は、どこまで?」
「魔の森の縁。そこまで行ければ、森へ入った人の帰りを知らせられる」
フェル殿が幼鳥ののど元を指先でなでる。翠羽鳥は気持ちよさそうに目を細めた。
力で従わせているのではない。フェル殿が鳥を信じ、鳥もまたフェル殿を信じて戻ってくる。半年前、アレス様が語られた情報網の、小さいながらも確かな始まりだった。
「セルジュさん、こちらを」
ティアナ殿が木箱を差し出す。上には、丁寧な文字で書かれた紙が載っている。
「昨日作った傷薬が三十、解毒薬が十二です。材料、作った数、失敗した分も記録しました」
「確かにお預かりいたします。ロイド殿の帳簿と照合し、売れた数をお返しします」
「お願いします」
「冒険者ギルドから、解毒薬を月に二十納めてほしいと正式な依頼が届いております。受けられますか?」
ティアナ殿はすぐにうなずかず、材料と調合室に視線を向けた。
「今のままなら、十五です。二十作ろうとすれば、傷薬の数を減らすか、質を落とすことになります」
「では、十五で返答いたします」
「よろしいのですか?」
「アレス様から、質を落としてまで数を増やすなと命じられております。足りない五つを作れる人材と器具をそろえるのは、私の仕事です」
「ありがとうございます」
「礼は、薬を必要とする方々へ。よい物を作ってください」
「はい。必ず」
半年前、ティアナ殿は自分の命を諦めかけていた。今は自分の薬を待つ誰かのために、できない数をできると言わず、できる十五を確実に届けようとしている。
身体だけではない。ここにいる全員が、それぞれの場所で前へ進んでいた。
◇
午前の店には、ひっきりなしに人が出入りしていた。
通りに面した古い看板は、すでに下ろしてある。半年前まで、そこには奴隷を扱う店であることを示す鎖の印が描かれていた。今は広間に机と椅子を置き、地下で人を閉じ込めていた部屋は、壁を抜いて品物を保管する倉に造り替えている。扉についていた外側からしか開けられない錠も、すべてゲオルグ殿に外してもらった。
私は今も、奴隷商としての許可を手放してはいない。奴隷契約を扱う場所へ入らなければ、誰が不当に売られようとしているのか分からない。以前のつながりも残し、売り手、人買い、借金を扱う商人の間から情報を集めている。
ただし、罪のない者をだまし、脅し、本人の意思に反して契約することは、二度とない。不当に売られようとする者を見つける。働く意思と力があるのに行き場を失った者を見つける。そして本人が望むなら、働く場所へつなぐ。それが、アレス様から与えられた私の仕事だった。
扉を開けて間もなく、痩せた女性が店へ入ってきた。年は三十に届くかどうか。何度も繕った服を着て、片手で幼い娘の手を握っている。娘の方も頬が痩せ、母親の陰から不安そうに私を見ていた。
「ご用件を伺います」
女性は店の中を見回した。人をつなぐ鎖も、鉄格子もないことに戸惑っている。
「こちらは……奴隷を買ってくださる店ではないのですか?」
胸の奥に、鈍いものが刺さった。半年前までなら、何の疑問も抱かなかった言葉だ。私は女性の年齢、健康状態、働ける年数を見た。身につけた服と手の荒れ方から、どのような仕事をしてきたのかを考えた。そのうえで、できるだけ安く買い、いくらで売れば最も利益が出るかを計算しただろう。
「以前は、そうでした」
「では、今は違うのですか?」
「今は、人と働く場所をつなぐための店に変えております」
女性の顔に、わずかな落胆が浮かんだ。娘の手を引き、帰ろうとする。
「お待ちください。なぜ、ご自分を売ろうとなさったのです?」
「夫が亡くなりました。借りていた部屋も、明日には出なければなりません。この子だけでも食べさせてくださる方に預けたくて……ですが、子供だけでは買えないと言われました。それなら、私も一緒にと」
私は、かつて奴隷契約書を広げていた机に目を落とした。半年前の私なら、次に尋ねたのは二人の値段だった。だが、今の私が尋ねるべきことは、もう決まっている。




