第80話 帳簿では表せない価値
「なぜ、こちらへ!」
避けようとした足が縄へ絡む。身体が見事なほど動かず、私はその場へ尻餅をついた。
火弾が目の前で消える。
アレス様が、いつの間にか私の前へ立っていた。炎を右手でつかみ、そのまま握り潰したらしい。手のひらには火傷一つない。
「セルジュ」
「はい」
「的になる訓練は命じていない」
「私も、自主的に行った覚えはございません」
「縄へ足を入れるな」
「次からは気をつけます」
「セルジュさん、申し訳ございません!」
ニーナ様が青ざめて駆け寄ろうとする。
「止まれ。まだ集中を切らすな」
アレス様の声で、ニーナ様はその場へ踏み止まった。赤い光が、再び指先へ集まっていく。
「今の一発が外れた原因は?」
ニーナ様は私を心配そうに見ながらも、呼吸を整えた。
「土板の動きを追いすぎて、放つ直前に魔力の形を崩しました」
「そうだ。相手を追うな。進む先へ置け。もう一度だ」
「はい」
私は立ち上がり、今度こそ縄を足元から遠ざけた。
「セルジュさん。念のため、もう少し後ろへ……」
「喜んで」
五歩どころか十歩下がる。ベッツ殿たちから笑われたが、命を守るための正しい判断である。
ニーナ様が、再び魔力を五つへ分けた。今度の炎は先ほどより細い。揺れる土板の動きを見つめ、深く息を吸う。
「《火矢》」
五本の炎が、細い矢となって同時に放たれた。土板が揺れる。炎の矢は、今ある場所ではなく、次に板が来る場所へ走った。五枚の中央をほとんど同時に貫き、背後の土壁へ突き刺さる。
燃え広がらない。役目を終えた炎は、アレス様に教えられたとおり、その場で小さな火の粉へ変わって消えた。
「できた……」
ニーナ様が、自分の両手を見つめる。
「喜ぶのは早い。まだ一枚残っている」
「え?」
六枚目の土板は、ほかの五枚よりはるかに高い位置で揺れていた。
「あれも、でしょうか?」
「敵が五体で止まる保証はない」
「はい」
ニーナ様は疲れを見せながらも、もう一度魔力を練った。今度は一つだけ。先ほどより小さく、細く、強く圧縮していく。
「《火矢》!」
炎が、赤い線となって空へ伸びた。揺れていた六枚目の中央を射抜き、土板だけを砕く。つるしていた縄には火が移っていない。
ニーナ様の顔が明るくなった。
「十の魔力のうち、七は火へ変えられるようになった」
アレス様が告げる。
「半年前の三倍近い。一つの炎を出すことしかできなかったお前が、今は五つへ分け、動く的へ当て、消すところまで制御できている」
「はい……!」
「低位の魔物が一体なら、自分で追い払える。火を怖がる魔物から、誰かを守ることもできる」
ニーナ様のこはく色の瞳へ、涙が浮かんだ。半年間、走る訓練だけではない。夕食の支度を終えた後も、眠る時間を削らぬ範囲で魔力を練り続けてきた。その努力を最も近くで見ていたアレス様から、初めて明確に成長を認められたのだ。
「ですが、戦いの最中に一度失敗すれば、セルジュへ当てる」
「なぜ私を基準になさるのです?」
「ちょうど後ろにいた」
「私も、次からは戦場よりはるか後方にいることを徹底いたします」
皆が笑う。ニーナ様まで、涙を拭いながら笑っていた。
笑いが落ち着いたところで、アレス様はニーナ様へ向き直る。
「これで終わりではない。次は走りながら撃て。撃った後に動けなくなる者を、戦場へは連れていけない」
「はい。必ず、アレス様のお傍で戦えるところまで強くなります」
「なら、食事も増やせ」
「それは……努力いたします」
「返事が弱い」
「喜んで、たくさんいただきます!」
今度こそ、大きな声が石切り場へ響いた。
◇
訓練を終えて宿舎へ戻ると、門の前へ冒険者ギルドの荷車が二台止まっていた。
荷台には大きな魔石、黒い毛皮、一本だけで私の腕ほどもある牙が積まれている。昨日、アレス様が退治したBランクの魔物《黒鎧虎》の素材だった。鎧のように硬い黒い毛皮と、長い牙を持つ虎型の魔物だ。
解体場の職員が、私を見つけるなり頭を下げる。
「セルジュさん。品の価値を調べ終えましたので、お持ちしました」
「ロイド殿の倉へお願いいたします」
「それが、もう入らないと言われまして……」
荷車の向こうから、ロイド殿が疲れた顔を出した。
「先週、ゲオルグに棚を増やしてもらったばかりです。アレス様が三日前に持ち込まれた甲殻も、まだ半分しか売れておりません」
「では、第二倉庫へ」
「そちらはティアナさんの薬草と、フェルの鳥の餌で埋まりました」
「第三倉庫は?」
「まだ建てている途中です」
全員の視線が、アレス様へ集まった。
「昨日は、一頭しか持ち帰っていない」
「Bランクの魔物は、一頭で倉庫の一角を埋めるのでございます」
「傷をつけずに倒した。高く売れる」
「それは大変ありがたいのですが、売れるまで置く場所が必要です」
アレス様は少し考え、ゲオルグ殿を見る。
「第三倉庫を早く完成させろ」
「坊ちゃん。人手が足りません」
「増やせ」
「金は?」
「セルジュ」
今度は私へ視線が向いた。
「ございます」
答えるしかなかった。
「第三倉庫を予定より大きくし、必要な職人を雇います」
「頼む」
「ですが、アレス様」
「何だ?」
「完成までの三日間だけは、魔物を丸ごと持ち帰るのをお控えいただけませんか」
「依頼次第だ」
「二日では?」
「約束はできない」
「では、せめて一日」
「努力する」
以前の私なら、大金を生む素材が入り切らないなど、夢のような悩みだと思っただろう。今は、切実な問題である。
ベッツ殿が、荷車いっぱいの素材を見上げた。
「大将が稼ぐのと、俺たちが倉を建てるの、どっちが早いんですかね」
「比べるまでもない」
ゲオルグ殿が即答する。
「坊ちゃんが魔の森へ入るたび、こっちは負ける」
「なら、世界中へ倉を建てろ」
「本当に建てることになりそうですな……」
笑いながらも、ゲオルグ殿はすでに新しい倉の大きさを考え始めていた。
半年で変わったのは、私たちの身体だけではない。
古びた宿舎は人の笑い声が絶えない家となり、潰れかけていた武器屋には品物があふれ、病に伏していた少女の薬を求めて冒険者が列を作る。腕を失っていた獣人の少年が育てた鳥は、領都の空を飛び始めた。身体を動かせなかった男は、八人の戦う者を率いている。
そして三人を迎える金さえ足りなかった私たちの前へ、今は置き場所に困るほどの富が集まっていた。
だが、本当の変化は、荷車に積まれた素材だけでは分からない。
「アレス様。後ほど、お時間を頂けますか」
「帳簿か?」
「はい。この半年で得た金、使った金、雇った者、作った物、集まった情報。すべてお見せいたします」
「分かった」
私は宿舎の奥にある記録の部屋へ目を向けた。硬貨は数えられる。品物も、建物も、人の数も記録できる。
だが、アレス様がこの半年で再生させたものの価値を、いったいどのような数字で表せばよいのだろう。
私は分厚くなった帳簿の表紙へ手を置いた。
その答えは帳簿の中ではなく、店の扉をくぐる者たちの未来にしか記されないのだろう。




