第8話 小さな炎の可能性
ニーナは少し迷った後、右手の人差し指を立てた。細い指先には、小さな火傷の跡が幾つか残っている。調理場を手伝う中でできたものだろう。
ゆっくりと目を閉じ、指先へ意識を集中させる。ニーナの体内から、わずかな魔力が流れ始めた。
「《着火》」
小さな炎が生まれる。ろうそくの火より、わずかに大きい程度だ。だが、安定していない。急に大きくなったかと思えば、次の瞬間には消えそうなほど小さくなる。
《魔眼》を通して見ると、炎へ向かう魔力の流れがひどく乱れていた。十の魔力を使い、炎へ変換されているのは二か三。残りは、指先へ届く前に周囲へ散っている。魔力量が少ないだけではない。魔力操作も、かなり不得手らしい。
やがて炎が消えた。わずかな時間しか使っていないにもかかわらず、ニーナの額には薄く汗が浮かんでいる。白い頬も、少し青ざめていた。
「申し訳ありません」
「だから、なぜ謝る」
「私には、この程度の火しか出せませんので……」
ニーナは恥ずかしそうに、右手をエプロンの前へ隠した。
「それでも、調理場では使っているのか?」
「はい。薪へ火をつける時だけですが……」
「魔法を使うのが嫌いなわけではないのだな?」
「嫌いではありません」
ニーナは少し考え、それから柔らかく笑った。
「ですが、私は料理の方が好きなのです」
迷いのない返事だった。料理が好き。《料理》スキルを持っている。火属性にも適性がある。魔力量が少なく、魔力操作も不得手。だが、それは現在の話だ。
魔力量は、限界近くまで魔力を使い、回復させることを繰り返せば、少しずつ増えていく。魔力操作も、正しい訓練を続ければ向上する。普通なら、長い時間が必要になるだろう。だが、方法なら知っている。
滅びた未来で、俺は無属性魔法を一から鍛え直した。魔力を感じ取り。体内で循環させ。無駄なく術式へ変換する。その基礎を、何度も繰り返した。
多くの魔法士と戦い、仲間の訓練を手伝った経験もある。ニーナの才能を、調理場の火起こしだけで終わらせるのは惜しい。とはいえ、今すぐ俺が教えると言い出すのは不自然だろう。今の俺は、無属性魔法すら満足に使えない十二歳の子どもだ。いくら知識があっても、実際に見せられなければ説得力がない。
まずは、俺自身が力を取り戻す。魔力を感じ、動かし、思いどおりに扱えるところまで戻す。その後で、ニーナを誘えばいい。俺も魔力量の底上げと、魔力操作の基礎を一から鍛え直すのだ。属性は違っても、魔力を感じ、動かし、練り上げる基礎は変わらない。一緒に訓練する理由としても、不自然ではないだろう。
火を自由に操れるようになれば、ニーナの料理はさらに美味くなる。魔力量が増えれば、できることも広がる。そして、いずれは自分の身を守る力にもなるかもしれない。
強制するつもりはない。選ぶのは、ニーナ自身だ。誘拐事件が起きるのは、およそ二か月後。だが、正確な日付は分からない。今後は、ニーナが屋敷の外へ出る際にも注意を払う必要があるだろう。だが、俺が常にそばにいられるとは限らない。
だからこそ、彼女自身にも少しずつ力を身につけてもらう。まずは、料理のための魔力操作から。その先を選ぶかどうかは、ニーナに任せればいい。俺の腹を救う女神を、今度こそ必ず守る。
「アレス様?」
「何だ」
「先ほどから、私をご覧になって笑っていらっしゃいますが……」
どうやら、無意識に口元が緩んでいたらしい。
「気にするな」
「ですが……」
ニーナが落ち着かなそうに視線を泳がせる。
「女神を見つけただけだ」
「め、女神様がいらっしゃるのですか?」
ニーナが慌てて部屋の中を見回した。机の下。窓辺。棚の陰。なぜか最後には、天井まで確認している。
「どちらに?」
「いや、冗談だ」
「冗談……ですか?」
ニーナは意味が分からない様子で、困ったように首を傾げた。栗色の髪が、頬の横で小さく揺れる。女神ニーナ様。実に頼もしい響きだ。本人へ教える必要は、今のところないだろう。
「そういえば、父上が呼んでいるのだったな」
「はい!」
ニーナが本来の用件を思い出し、背筋を伸ばした。
「広間に、屋敷の主要な方々がお集まりです」
「分かった。行こう」
俺は《鑑定眼》を解除した。右眼の赤い輪が消え、通常の瞳へ戻る。ニーナは、眼の変化には気づかなかったようだ。
あの赤い輪は、魔力によって生じている。魔力感知に長けた者でなければ、認識することはできない。俺たちは部屋を出て、並んで広間へ向かった。
◇
広間には、屋敷を支える主要な者たちが集められていた。父上――ガレス・アークハルト。鍛え上げられた大きな身体を、深い青色の上着で包んでいる。短く整えられた黒髪にはわずかに白いものが混じり、鋭い灰色の瞳には、武門の当主らしい威厳があった。
その隣には、母上――エレナが立っている。淡い金色の髪を上品にまとめ、穏やかな青い瞳で俺を見つめていた。柔らかな微笑みには、俺が本当に変わったのか見守ろうとする期待と不安が入り交じっている。
執事長のオルド。白髪をきっちりと後ろへなでつけた、五十八歳の老執事だ。背筋は真っすぐに伸び、年齢を感じさせない。
その隣には、若執事のトーマが立っている。茶色い髪をきっちりと整えた、二十代半ばの青年だ。細身の身体に、真面目そうな灰色の瞳。俺へ向ける表情には、明らかな警戒が残っている。
侍女長のエマ。ニーナの叔母でもある女性だ。栗色の髪をきっちりとまとめ、厳しい顔でこちらを見ている。ニーナと似た琥珀色の瞳を持っているが、そのまなざしはずっと鋭い。
料理長のハンナは、がっしりした身体の前で太い腕を組んでいた。日に焼けた顔と大きな手からは、長年調理場を預かってきた力強さが伝わってくる。
家付き治癒師のエドは、細い銀縁の眼鏡をかけた、やせた男だ。俺の顔を見るなり、職業柄なのか、どこか具合が悪くないか観察するように目を細めた。
騎士団長のダリオ。短く刈り込んだ銀髪と、左の眉から頬へ走る古い傷。厚い胸板と太い腕を持つ大男で、立っているだけでも周囲へ圧力を与える。
そして、その隣に副騎士団長のルークがいた。淡い金色の髪。穏やかな青い瞳。細身ではあるが、無駄なく鍛えられた身体。険しい顔のダリオとは対照的に、ルークは周囲を安心させるような柔らかい微笑みを浮かべている。
カイルとリリアはいない。まだ幼い二人には、秘密を背負わせるべきではないと父上が判断したのだろう。広間へ入った俺へ、幾つもの視線が集まった。今朝までの俺なら、その視線を不快に思い、誰かを怒鳴りつけていたかもしれない。
だが、彼らは全員、アークハルト家を支えてきた者たちだ。そして二年後。多くが、スタンピードによって命を落とす。今度は救う。俺は父上の隣へ立った。
「皆に伝えておくことがある」
父上の低い声が、広間へ響く。
「本日の鑑定において、アレスの能力は《体術》、無属性、耐性無しと示された」
全員が黙って聞いている。
「だが、鑑定水晶には表示されなかった力があることが判明した」
視線が俺へ集まった。
「アレスは、自身が負った傷を急速に治すことのできる、希少な《再生》の力を持っている」
小さなどよめきが起きた。
「《再生》……」
治癒師のエドが、眼鏡の奥で目を見開いた。
「治癒魔法とは、異なるのでしょうか?」
「詳細は、まだ分からない」
父上は落ち着いて答えた。
「ただし、本人が負った傷を急速に治せることは確認した」
父上は、余計な情報を一切口にしなかった。ギフト《超再生》であること。傷つくほど肉体が強くなること。他者や物にも使用できること。すべて伏せられている。完璧だ。
「この情報を外部へ漏らすことは許さない」
父上の声が、一段低くなる。
「王家、神殿、他家の貴族、商人、冒険者。相手が誰であろうと同じだ。この屋敷の中だけの秘密とする」
「承知いたしました」
オルドが真っ先に頭を下げた。他の者たちも、それに続く。
これで、《再生》の秘密は守られるだろう。
だが、彼らが信じたのは父上の言葉だ。これまで信頼を踏みにじってきた俺を、信じたわけではない。
《超再生》でも、俺が彼らの心に残した傷までは治せない。
その傷と向き合うために、この場で伝えなければならないことがある。
かつての俺が、一度も口にしなかった言葉を。




