第7話 ニーナの才能
控えめに扉をたたく音がした。
「アレス様」
ニーナの声だ。
「旦那様が、広間へお越しになるようにとのことです」
父上が、屋敷の主要な者たちを集めたのだろう。《再生》について説明するためだ。俺は鏡へ視線を向けた。右眼に浮かんでいた赤い輪は、すでに消えている。顔についた血も洗い流した。汚れた服も着替えてある。自分で右眼を刺した直後だと気づかれることはないはずだ。
「入れ」
「失礼いたします」
扉が静かに開いた。一礼して部屋へ入ってきたニーナが、すぐに室内を見回す。机。椅子。棚。窓辺。壊れたものがないことを確認すると、わずかに肩の力を抜いた。どうやら、俺が一人で何かを壊していないか心配していたらしい。信用がない。当然だが。
「お支度はお済みでしょうか?」
「ああ」
改めてニーナを見る。柔らかな栗色の髪は肩口まで伸び、仕事の邪魔にならないよう、生成り色のリボンで低くまとめられている。卵形の小さな顔。白い肌。細く整った鼻。長いまつ毛の奥には、蜂蜜を溶かしたような淡い琥珀色の瞳がある。うつむきがちなため目立たないが、顔立ちはかなり整っていた。
美少女と呼んで差し支えない容姿だ。濃い青のメイド服と白いエプロンも、清らかで落ち着いた雰囲気によく似合っている。
だが、俺と目が合うと、琥珀色の瞳が不安そうに揺れた。胸元で重ねられた細い指にも、わずかに力が入っている。俺が今まで、おびえさせ続けてきたからだ。かつての俺は、毎日のように目の前にいた少女の顔すら、まともに見ようとしなかった。
「アレス様?」
「何だ」
「その……私の顔に、何かついておりますか?」
「いや」
何もついていない。俺が今まで、何も見ていなかっただけだ。ちょうどいい。《魔眼》を取り戻したものの、まだ鏡に映った自分にしか《鑑定眼》を使っていない。他人に対しても正しく機能するのか、確かめておく必要がある。最初の対象として、ニーナなら申し分ないだろう。
俺は右眼へ、わずかに魔力を流した。瞳の奥が熱を帯びる。魔力によって形成された赤い輪が浮かび、ニーナの身体を淡い光が包んだ。《鑑定眼》。視界の中に、文字が浮かび上がる。
【スキル】
料理
【魔法】
火属性
【耐性】
無
「……何だと?」
思わず声が漏れた。
「アレス様?」
ニーナがびくりと肩を震わせる。
「申し訳ございません!」
「なぜ謝る」
「急に、とても怖いお顔をなさったので……」
怖い顔にもなる。《料理》だ。ニーナは、希少な《料理》スキルを持っている。料理人であれば、誰もが《料理》スキルを持っているわけではない。スキルがなくとも、経験と技術を積み重ねれば、優れた料理人にはなれる。
だが、《料理》スキルを持つ者は、食材の状態や味の組み合わせ、火加減などを感覚的に捉えることができる。同じ食材と調理法を用いても、完成した料理の質を一段引き上げる。料理人にとって、天賦の才と呼べる力だ。しかも、火属性の適性まである。
「神か……」
「はい?」
「いや。何でもない」
女神ニーナ。そんな言葉が、自然と頭へ浮かんだ。これから《超再生》を使い、肉体を常識外れの速度で鍛え直す俺にとって、最も重要なのは食事だ。再生には大量の栄養が必要になる。いくら傷を治す力があっても、身体を作り直す材料がなければ限界がある。
滅びた未来では、まともな食べ物が失われた後も、俺は何十年と戦い続けた。魔物の肉を食い。毒に当たり。腹を壊し。治しては、また食った。
そんな俺の前に、《料理》スキルを持つ少女がいる。しかも、俺の専属メイドだ。俺の食事を、毎日用意してくれる立場にいる。
この少女は、まさに俺の救世主ではないだろうか。女神ルミエラが世界を救うための女神なら、ニーナは俺の腹を救う女神だ。役割の異なる二柱の女神。何も問題はない。おそらく。
「ニーナ」
「はい」
「お前は《料理》スキルを持っているのか?」
ニーナが不思議そうに瞬きをした。
「はい。十二歳の《鑑定の儀》で授かりました」
「そうだったのか」
「アレス様にも、ご報告いたしましたが……」
「俺に?」
「はい」
まったく覚えていない。ニーナは言いにくそうに視線を伏せた。長いまつ毛が、琥珀色の瞳へ影を落とす。
「その時は、アレス様には関係のないことだから、二度とくだらない報告をするなと……」
右眼を刺した時より、胸が痛い。
「……そうか」
以前の俺は、どこまで愚かだったのだろう。自分のすぐそばに、これほど貴重な才能を持つ少女がいた。それなのに、話を聞こうともしなかった。ニーナが何を好み、何を得意としているのか。知ろうとすらしなかった。
「悪かった」
「えっ?」
ニーナが顔を上げる。
「お前は何も悪くない。見る目がなかったのは俺だ」
「アレス様……」
「お前の料理は美味かった」
先ほどの料理は、料理長のハンナが作ったものだと思っていた。だが、あの味には間違いなくニーナも関わっていたのだろう。
「私一人で作ったものではございません」
ニーナは慌てて両手を振った。
「調理したのは、料理長のハンナさんです。私は調理場で、味つけや火加減のお手伝いをしただけで……」
「それでも、お前の力が加わっていたのだろう?」
「はい。少しだけですが」
ニーナの頬が、薄く赤く染まった。料理の話になったからだろうか。先ほどまで不安そうに揺れていた琥珀色の瞳に、柔らかな光が宿る。
「ハンナさんは、料理のことを何でも知っています。私が迷っていると、すぐに教えてくださるのです」
そう話すニーナの口元に、小さな笑みが浮かんだ。控えめな笑顔だった。だが、その瞬間だけはおびえも遠慮も消え、十五歳の少女らしい明るさが表れる。普段はうつむきがちなせいで気づきにくいが、笑うとかなり可愛い。料理が本当に好きなのだろう。
「調理場のお手伝いをしている時が、一番楽しいです」
「そうか」
「はい」
ニーナがもう一度微笑んだ。なるほど。女神ニーナ様は、料理の話をしている時が最も神々しくなるらしい。
「これからも頼む」
「もちろんでございます」
「できれば、毎食頼みたい」
「毎食でございますか?」
「ああ」
「私の本来のお仕事は、アレス様のお世話なのですが……」
「俺の食事も、俺の世話に含まれる」
「そうなのでしょうか……」
含まれる。俺が決めた。それにしても、気になることがある。一つでも属性適性を持っていれば、魔法士を目指す道が開ける。戦闘魔法士に限らない。貴族家や商会で、魔法を使う仕事に就くこともできる。火属性なら、工房や鍛冶場からも需要があるだろう。
「《鑑定の儀》では、《料理》のほかに火属性も示されたのか?」
「はい」
「それなら、なぜ魔法士にならなかった?」
ニーナの笑顔が消えた。自分の細い指先を見つめ、申し訳なさそうに答える。
「私の魔力量は、普通の方よりもずっと少ないのです」
「どの程度だ?」
「教会の方からは、魔法士になるのは難しいと言われました」
ニーナは胸元で両手を重ねた。
「火を起こすくらいならできますが、何度か使うとめまいがしてしまいます。火球の魔法も教えていただきましたが、形を作ることができませんでした」
「見せられるか?」
「こちらで、ですか?」
「ああ。小さな火でいい」
俺が確かめたいのは、炎の大きさではない。
この少女の中に、本人さえ気づいていない可能性があるかどうかだ。
もし、それを引き出せるのなら――二か月後、ニーナを待つあの運命さえ変えられるかもしれない。




