第77話 取り戻した一生の誓い
グレイグ視点
「明日から、訓練中の動きをさらに厳しく見る」
俺が告げると、ベッツたちのスプーンが一斉に止まった。
「今の話から、なぜそうなるんです?」
「主様が急いでいるからだ」
「まさか、量まで増えるんですかい?」
「主様から、勝手に量を増やすなと命じられている」
ベッツたちが、そろって安心の息を吐いた。
「だが、姿勢が崩れたものは一回に数えん。呼吸、歩幅、重心まで正しくできるよう徹底する。誤魔化した分は、できるまでやり直させる」
「それは結局、回数が増えるのでは?」
「正しくやれば増えない」
「大将と同じことを言っている……」
食卓へ、深いため息が重なった。
「今のお前たちを、世界のどこへ出しても生きて戻れると思うか?」
「……思いません」
「なら、強くなれ。主様が来られない日にも、俺が責任を持って鍛える」
「やはり、鬼が増えたという話では?」
「安心しろ。壊れる手前で必ず止める」
その隣で、フェルだけが真剣な顔でうなずいている。
「俺も、もっと鍛える。早く魔の森へ行く」
「基礎ができてからだ」
「いつできる?」
「今の動きなら、まだ先だ」
「なら、明日は一回も姿勢を崩さない」
ベッツたちが、なぜ一人だけ模範的な答えをするのだと訴えるようにフェルを見た。
「フェルだけ、別の場所で鍛えてもらえませんか?」
ラグが恐る恐る尋ねる。
「共に働く者の中で、一人だけ強くなっても意味はない」
「そう言うと思いました」
「食べ終えた者から片づけろ。その後、文字と計算が必要な者は、ロイドのところへ集まれ」
「今日からですか?」
「主様は、働けと言ったのだろう」
「お三方が治していただいたのは昨日ですが、なぜか前より休む時間が減った気がします」
セルジュの言葉に、全員がうなずいた。
「よりよい人生とは、楽な人生のことではなかったようでございますな」
「今ごろ気づいたのか?」
「気づいてはおりました。ただ、皆様と分かち合いたかったのでございます」
今度は、笑いながらうなずく者が多かった。
◇
夜が更け、宿舎の灯りが一つずつ消えていった。
子供たちは、フェルと同じ広い部屋で眠っている。ティアナとミラはその隣の部屋を使い、何かあればすぐに駆けつけられるようにした。ベッツたちは、修理が終わった二部屋へ分かれている。セルジュとロイド、ゲオルグ、ニーナはそれぞれの家と仕事へ戻った。
俺は一人、中庭に立っていた。月明かりの下、右手には修理で余った細長い木の棒を握っている。右脚を半歩後ろへ引き、腰を落とす。
槍を構えたのは、何年ぶりだろう。
棒の先を真っすぐ前へ向ける。肩から力を抜き、左手で支え、右手で押し出す。
「ふっ」
一度目の突きは、途中で先が下がった。腕が震え、右脚も身体の重みに耐え切れず揺れる。以前なら、目を閉じていても崩さなかった構えだ。今は子供の遊びにすら見えるだろう。
もう一度、構える。
二度目。
三度目。
十度目で、右手の握りが緩んだ。
「今日は、そこまでにした方がいい」
暗がりから声がした。フェルが裸足のまま、中庭へ出てくる。
「起こしたか?」
「違う。ルゥが、寝ながら俺の左腕を握っていた」
「それで目が覚めたのか」
「うん。腕があるのを確かめてた」
フェルは自分の左手を月明かりへかざした。五本の指を開き、ゆっくり閉じる。
「グレイグも、確かめてる?」
「そうかもしれない」
日中、角材をつかんだ。転びかけたルゥを抱き止めた。食事の器を持ち、今は再び槍の代わりを握っている。動かすたびに、右腕と右脚が自分のものへ戻ってくる。
「だが、主様が言っていた。休むのも訓練だ」
「俺にも言った」
「なら、今日は終わりにする」
木の棒を下ろすと、フェルが少し意外そうな顔をした。
「もっとやると言うと思った」
「俺が自分の身体を壊せば、皆の訓練を見る者がいなくなる。意地で動くことと、根性があることは違う」
「アレス様と同じことを言う」
「あの方の命令だからな」
フェルは中庭の端へ座り、俺にも隣を示した。大人しく腰を下ろすと、古い宿舎の二階を見上げる。
割れていた窓は板で塞がれ、そのすき間からわずかな灯りが漏れている。昼まで人の気配一つなかった建物から、今は誰かの寝息が聞こえていた。
「グレイグ」
「何だ?」
「アレス様は、本当に世界中へ行くと思う?」
「行く」
「すぐ答えるんだな」
「主様は、できないことを口にする方ではない」
「でも、まだ十二歳だ」
「だからこそ、時間がある」
そう答えた後、自分の言葉に違和感を覚えた。時間があるはずの主様が、なぜあれほど急いでいるのか。
「フェル。お前は、なぜ主様についていく?」
「俺の腕を治した。セナたちも助けてくれた」
「それだけか?」
フェルは少し考えた。
「アレス様は、俺たちを役に立たないって言わなかった」
「そうだな」
「セナたちには、今は遊べって言った。でも、大きくなったら自分で仕事を選べるって。俺には、魔獣を育てて遠くのことを知らせろって言った」
月を見上げる灰色の耳が、真っすぐ立っている。
「俺たちができないことじゃなくて、これからできることを見てる」
十二歳の少年の言葉が、胸へ深く落ちた。主様は、傷つく前の俺へ戻したのではない。過去よりも先へ進む道を与えた。
王国兵だったころの俺は、目の前の部下を守ることしかできなかった。傭兵となった後も、共に戦う仲間と依頼人を生かすことだけを考えていた。だが、主様は世界中へ道を伸ばし、その先で助けを待つ者まで守れと言う。
「俺も、主様が見ているものを見てみたい」
自然と、言葉がこぼれた。
「世界?」
「その先だ」
主様が、なぜ世界を失うことを恐れているのか。何に備え、何へ間に合わせようとしているのか。今の俺には分からない。
だが、いつかあの方がすべてを話せる日が来た時、何もできないまま聞くだけの配下ではいたくなかった。
「そのために、俺は傭兵団を作る。商会の荷を守り、働く者を守り、遠くで助けを待つ者まで迎えに行ける部隊だ」
「俺も入る?」
「お前は冒険者のチームだろう」
「両方やる」
「まずは、明日の訓練を最後までやり遂げろ」
「やる」
「言っておくが、主様がいる時より楽になるとは思うな」
「思ってない」
迷いのない返事に、思わず笑った。
「なら、もう寝ろ。子供たちが起きる」
「グレイグは?」
「俺も休む。その前に、一つだけ仕事をする」
俺は食堂へ戻り、ロイドが置いていった紙と筆記具を取り出した。右手で筆を握る。指先はまだ震えているが、ゆっくり動かせば文字を書くことはできた。
ベッツ。ドラン。マーク。ミラ。ラグ。ノル。ハイム。
七人の名を、一人ずつ紙へ記す。その横へ、今日見つけた長所と直すべき癖を書き加えた。明日の訓練で何を確かめ、主様から示された量の中でどこまで負担を与えるのか。主様が来られない日にも同じ基準で鍛えられるよう、順番に整理していく。
一行書くたび、右手が震えた。それでも、筆を置くことはしなかった。
この手で、もう一度槍を握る。この脚で、仲間の先頭に立つ。
そして今度は、命令された場所で死ぬための者たちではなく、世界のどこへ出しても生きて戻る者たちを育てる。主様の手が届くまでの道を、俺たちが守る。
取り戻していただいたこの一生を、ただ恩へ報いるだけで終わらせるつもりはない。主様が見据える先へたどり着き、その目が見ているものを、いつか俺も共に見る。
その日まで、一人として使い潰させない。それが、再び人を率いると決めた俺の、最初の誓いだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
これにて第六章 冒険者活動編終了となります。
次章は
『かつての戦友編』になります。
次章もお楽しみください。
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