第76話 主様と呼ぶ理由
グレイグ視点
それでも、胸から離れない言葉がある。世界が失われないようにするためだ。
あの瞬間、主様の目は十二歳の子供のものではなかった。世界を手に入れたい者の目でもない。まるで一度すべてを失い、その重さを知っている者の目だった。
「グレイグさん、食事ができました」
ティアナに呼ばれ、考えるのを止めた。
炊事場の大鍋では、野菜と干し肉を煮込んだスープが湯気を立てていた。料理をしたのはティアナとニーナ、ミラだという。古い長机を並べ、欠けた椅子と木箱を集めても全員分には足りず、何人かは床へ座った。それでも、不満を口にする者はいなかった。
セナ、カイ、ルゥは、湯気の立つ器を前に目を輝かせている。食べてもよいと言われると、三人は夢中でスープを口へ運び始めた。途中で何度も顔を上げ、本当に次もあるのかと大鍋を確かめている。
「慌てなくていい。おかわりもあります」
ティアナが声をかけると、セナが手を止めた。
「フェル兄も、おかわりできる?」
「もちろんです」
「じゃあ、フェル兄の分も残してね」
「大鍋いっぱいに作りましたから、全員が食べてもなくなりません」
その言葉を聞き、三人はようやく安心して食事へ戻った。
フェルは自分の器を左手で持ち、右手のスプーンでスープを飲んでいる。途中でわざわざ持ち替え、今度は戻った左腕でスプーンを握った。こぼしそうになりながらも、左手でスプーンを口へ運ぶ。
「食べづらくないか?」
「左手にも、早く覚えさせる」
「焦る必要はない」
「でも、アレス様が働けと言った」
「食事をこぼすことは、働くことではない」
フェルのスプーンから落ちた野菜が、机の上へ転がった。
「……明日には、こぼさない」
「まずは右手で食べろ。左手は窓拭きで十分に使った」
渋々、スプーンを右手へ戻す。隣で見ていたルゥが、自分も左手へスプーンを持ち替え、同じように野菜を落とした。
「ルゥは、真似しなくていい」
「ぼくも、れんしゅうする」
「なら、明日の昼にしろ。今は食べろ」
「はい」
素直に右手へ戻したルゥを見て、食卓に笑いが広がった。
俺も器へ手を伸ばす。右手で木の器をつかみ、左手のスプーンでスープを口へ運ぶ。
温かかった。
奴隷商の店でも食事は出た。死なれて価値を失わない程度には、腹を満たすことができた。だが、誰かと同じ鍋を囲み、明日の仕事を話しながら食べる食事は、あまりにも久しぶりだった。
「グレイグ殿」
向かいに座ったロイドが声をかける。
「アレス様から、皆へ読み書きと計算を教えるよう任されました。グレイグ殿は、どこまでできますか?」
「軍で報告書を書いていた。簡単な帳簿も読める」
「それは助かります。私一人では、子供たちと大人を同時に教えるのは難しいと思っておりました」
「俺にも教えろということか?」
「できる方には、教える側をお願いしたいのです」
「人へ教えるのは、俺の役目でもある。必要なら手伝う」
「ありがとうございます」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ラグがスプーンを置いた。
「まさか、朝は大将とグレイグ教官に身体を鍛えられ、昼は修理と仕事、夜はロイドさんとグレイグ教官に文字を教えられるんですか?」
「そうなるな」
「俺たち、寝る時間はありますよね?」
「主様は、よく食べ、休む時は休めと言っている。睡眠を削るつもりはない」
ラグが安心する。
「だが、酒場で無駄に過ごす時間はなくなる」
「俺の楽しみが……」
「字を覚えれば、酒場の看板以外も読めるようになるぞ」
「それで酒を飲む時間がなくなるなら、今のままでも……」
「ラグ」
「学ばせていただきます」
返事だけは、朝より早くなっていた。
「グレイグさんは、なぜ主様と呼ぶんです?」
今度はノルが尋ねた。
「ベッツさんとマークさんは大将、ドランさんは親分、ラグさんとゲオルグさんは坊ちゃん、ハイムさんは若様。ミラさんや俺、セルジュさんたちはアレス様です。ですが、主様と呼ぶのはグレイグさんだけでしょう」
食卓にいる者たちが、俺へ目を向けた。
「俺の主と決めたからだ」
「身体を治してもらったからですか?」
「それだけではない」
右腕と右脚を返していただいた恩は、何をしても返し切れない。だが、奇跡を起こせることだけが、忠誠を誓った理由ではなかった。
「俺は以前、命令に従う者だけを求める上官の下にいた。兵を人ではなく、使い潰してよい駒だと考える男だった」
食卓から笑いが消えた。
「俺はその命令に逆らい、部下を退かせた。部下は生き残ったが、俺は責任を押しつけられて軍を追われた」
「間違っていないと思います」
ティアナが言った。
「俺も、そう思っている。その後は傭兵となり、護衛の仕事で仲間を逃がすために殿を務めた。そこで右腕と右脚の自由を失った」
あの時も、選んだことに後悔はなかった。迫る魔物を食い止めなければ、傷ついた仲間も、護衛していた商人たちも逃げ切れなかった。右膝を砕かれ、槍を握る右腕まで引き裂かれた時、自分の役目は終わったと思った。死なずに済んだことが幸運だとは、その後一度も思えなかった。
「動けない俺には、もう誰かを守ることも、人を率いることもできなかった。治療費と生活費の借金が増え、最後には奴隷として売られた」
三十六年生きてきて、何も残らなかったと思っていた。
「主様は、そんな俺を先に奴隷契約から解放した。俺が断れば、払った金を失うと分かっていながらだ」
「私たちにも、自由になってから決めさせてくださいました」
ティアナが静かに続ける。
「そうだ。主様が欲しいのは、縛られた奴隷ではない。自分の意思で考え、働く者だ。そして、厳しく働けとは言っても、無駄に死ねとは決して言わない」
今朝の訓練。宿舎を拠点に変える計画。四つの働きをつなぎ、世界中から異変を集め、実際に人を守るという構想。
主様は、他人の命を使って自分の名を上げようとしているのではない。
「あの方は、自分が何を作るのか、そのために俺たちをどう使うのかを知っている。同時に、働いた者へ報い、使う者の命を守る責任も知っている」
「だから、主様ですか」
「ああ」
「十二歳なのに?」
カイが不思議そうに尋ねた。
「年は関係ない」
「ぼくより、三つしか大きくないよ?」
「俺より二十六も若い」
「それでも、主様なの?」
「それでもだ」
カイはしばらく考えた後、よく分からないままうなずいた。
「アレス様は、すごいからね」
「そうだな」
子供の一言へ答えながら、胸の奥でわずかな違和感が残った。すごいという言葉だけでは、主様を言い表せない。あの方は、何かを急いでいる。
世界中へ組織を広げるなど、一代をかけても成し遂げられるか分からない。それでも主様は、いつかできればよいとは考えていなかった。誰より早く知り、起きる前に備えると、何度も口にしていた。まるで、遠くない未来に何かが起きると知っているように。
主従契約には、主様の秘密を守ることが定められている。ならば、俺がするべきことは、無理に秘密を暴くことではない。主様が必要だと判断した時、すぐに動ける者を一人でも多く育てることだ。
まずは、この七人からだ。
俺は器を置き、何も知らずに食事を続けるベッツたちへ向き直った。




