第74話 もう一度、働ける身体で
グレイグ視点
右手が、太い角材をつかんでいる。
たったそれだけのことが、いまだに信じられなかった。
「グレイグさん。そいつは、こっちでいいんですかい?」
声をかけられ、俺は角材から顔を上げた。少し離れた場所で、ベッツと呼ばれる男が同じ長さの角材を肩へ担いでいる。その後ろには、朝の訓練で共に地面へ倒れていた六人がいた。
「ああ。傷んだ柱の横へ置いてくれ。まだ古い柱は抜くな。先に屋根を支える」
「承知しました」
ベッツが仲間へ合図を送り、三人が角材を運んでいく。俺も右手でつかんだ角材を持ち上げようとしたが、すぐに腕が震え始めた。
傷が残っているわけではない。神経が傷つき、何年もまともに動かせなかった右腕は、筋肉がすっかり衰えている。主様は、傷つく前の身体へ戻したわけではない。もう一度鍛えれば、以前と同じように使える身体へ治してくださったのだ。今の俺には、この角材一つでも十分に重い。
「そっちは二人で運べ」
屋根の上から、ゲオルグが声を飛ばした。
「一本くらいなら運べる」
「運べるかどうかじゃない。落として床まで壊されたら、俺の仕事が増えるんだ」
「……分かった」
反論できず、近くにいたマークを呼んだ。二人で角材を持ち上げると、驚くほど楽に運べた。
「グレイグさんでも、ゲオルグの親方には逆らえないんですね」
ラグが笑う。
「建物を直す間は、ゲオルグが指揮を執る。それぞれの役目に従うのは当然だ」
「俺たちを鍛える時は、グレイグさんの言うことを聞けと大将もおっしゃってましたからね。てっきり、今日から一番偉いのかと」
「一番上は主様だ。俺たちは、任された役目が違うだけだ」
「じゃあ、仕事が終われば全員同じってことですかい?」
「いや。お前はまず、朝から何度も楽な持ち方へ逃げている癖を直せ」
ラグの笑みが消えた。
「……見てたんですか?」
「人を鍛えろと任されたからな。角材を担ぐ時は左右を替えろ。右肩だけを使い続けるな」
「大将だけじゃなく、グレイグさんにまで仕事中の動きを見られるようになるとは……」
「嫌なら早く正しい動きを身につけろ。そうすれば言われなくなる」
「言われなくなるだけで、楽にはならないんですよね?」
「当然だ」
「聞く相手を間違えました」
肩を落としたラグに、近くで壁板を外していたドランたちが笑った。
領都の南門近くにある古い宿舎は、セルジュから聞いていた以上に傷んでいた。二階建ての大きな建物で、炊事場と井戸、中庭、小さな倉まである。部屋数も多く、詰めれば二十人ほど暮らせるという話にうそはない。
だが、長く使われていなかったため、至るところにほこりが積もり、窓の半分は割れていた。屋根から雨の入った跡があり、壁板も数か所腐っている。炊事場のかまどは灰とすすに埋まり、井戸のおけには縄すらついていなかった。それでも、ゲオルグは建物を一周すると、使えると断言した。
「土台と太い柱は生きている。傷んだところを替えれば、まだ何十年でも保つ」
その言葉を聞いた時、なぜか自分たちのことを言われているような気がした。壊れた箇所があり、長く放置され、誰にも必要とされなくなった。だが、すべてが失われたわけではない。傷んだ場所を取り除き、足りないものを補えば、もう一度役目を持てる。
古い宿舎も、俺たちも同じだった。
「グレイグ」
呼ばれて振り向くと、フェルが新しいおけを両手で抱えていた。戻った左腕は、まだ右腕より細い。それでも、二本の腕でおけを持てることがうれしいのか、頼んでいない分まで井戸から水を運んでいる。
「次は、どこを掃除する?」
「今運んだ水で十分だ。左腕が震えている。少し休め」
「まだ運べる」
「今朝、主様から何を言われた?」
フェルが不満そうに灰色の耳を伏せた。
「痛みが出たら言え。苦しいだけなら続けろ」
「今はどちらだ?」
「……苦しいだけ」
「なら、おけではなく布を持て。左右の手を同じように使って窓を拭け。それも立派な訓練になる」
「分かった」
「返事は?」
「はい」
素直におけを置いたフェルの後ろを、三人の子供たちが走り抜けていった。
「セナ、待って!」
「カイが遅いんだよ!」
「ルゥも、まってえ!」
三人は中庭を何周も駆け回っている。主様から与えられた仕事を、誰より真面目に果たしているらしい。小さな足で地面を蹴り、灰色の耳と尻尾を揺らしながら、何度も楽しそうな声を上げていた。
俺はあの年ごろの子供が、あれほど無防備に笑う姿を久しく見ていなかった。奴隷商の店で初めて見た時、三人は物音がするたびに身体を寄せ合っていた。腹が減っても自分から食べたいと言えず、眠る時も誰かに連れていかれないよう、フェルの服を握り締めていた。
それが今は、追いつかれまいと互いを押し退け、転びそうになれば笑いながら立ち上がっている。
「グレイグさん!」
セナに呼ばれ、顔を向けた。その横を駆けていたルゥの足が、わずかな段差へ引っかかる。小さな身体が前へ傾いた。
考えるより先に、右脚が地面を蹴っていた。一歩踏み込み、倒れる寸前のルゥを右腕で抱き止める。腕へ柔らかな重みがかかり、弱った筋肉が震えた。それでも、指先まで確かに力が入り、小さな身体を落とさず支えている。
「大丈夫か?」
「うん」
ルゥは驚いたように目を丸くした後、俺の腕の中で笑った。
「ありがとう、グレイグ」
「次からは、足元も見て走れ」
「はい!」
地面へ下ろすと、ルゥは何事もなかったように二人を追って走り出した。
俺は、その場に立ったまま右腕を見つめた。かつては槍を握り、何人もの仲間を守った腕だ。魔物のつめに引き裂かれてからは、指一本、自分の意思では動かせなかった。誰かを支えるどころか、服を着るにも食事をするにも、左手だけで長い時間をかけなければならなかった。
その腕で今、転びかけた子供を抱き止めた。
「本当に、治ったんだな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
「だから、昨日から何度もそう言っています」
いつの間にか、ティアナが隣へ立っていた。口元に柔らかな笑みを浮かべ、胸いっぱいに空気を吸い込んでいる。
「頭では分かっている」
「身体が、まだ信じられないのですね」
「お前も同じか?」
「はい。朝、目を覚ますたび、最初に息を吸って確かめてしまいます。胸が痛くない。せきも出ない。どれだけ吸っても苦しくならない。それだけで、夢ではなかったと思えるのです」
ティアナは両手で抱えていた布を見下ろした。
「でも、アレス様は喜ぶ時間すら、あまり与えてくださいませんね」
「昨日治して、今朝には限界まで走らせたからな」
「午前中は宿舎の掃除で、午後はセルジュさんと薬を作る場所を探します。明日からは、薬草の整理と調合も始めろと言われました」
「不満か?」
「いいえ」
ティアナは迷わず首を横へ振った。
「もう働けないと思っていた私に、こんなにたくさんの仕事があるのです。不思議なくらい、うれしいのです」
「俺も同じだ」
使えない腕と脚を抱えていたころは、役に立たないと言われることが何よりつらかった。借金を返すために働けと言われても、満足に歩けず、荷物一つ持てない。
元王国兵も、元傭兵も、傷を負って動けなくなれば、ただの役立たずだった。奴隷商の店で俺を見た客は、身体の大きさへ一度は目を留めても、右腕と右脚を見ればすぐに興味を失った。
主様だけが違った。動かない身体ではなく、その奥に残っていたものを見た。人を鍛え、まとめ、死なせずに動かす力があると、俺自身が諦めたものを言い切った。
そして、再び働ける身体を与えた翌朝には、本当に役目を任せた。
「グレイグさん、ティアナさん! 悪いが、思い出に浸るなら手を動かしながらにしてくれ!」
ゲオルグの声が屋根から落ちてきた。
「聞こえている」
「でしたら、そこの窓枠を外してくれ! 日が暮れるまでに、寝る部屋だけは使えるようにしたい!」
「分かった」
ティアナと顔を見合わせ、わずかに笑った。どうやら主様の配下には、感傷へ浸る暇のない者がそろっているらしい。
だが、それでいい。動く身体があり、果たすべき役目がある。そして今度は俺が、道を踏み外した者たちを、人を守れる者へ鍛える番だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
私事ではございますが、本日9月2日は誕生日の為、4話投稿したいと思います。
7:10、12:10、17:10、20:10
投稿予定です(多少前倒しがある可能性あります)
引き続きどうぞよろしくお願い致します!




