第62話 配下を鍛える
セルジュへ宣言した翌朝。
空には、まだ星が残っていた。俺とニーナが旧石切り場へ着くと、ベッツたちはすでに小屋の前へ集まっていた。ロイド、ゲオルグ、セルジュの姿もある。ベッツ、ミラ、ドラン、ラグ、マーク、ノル、ハイム。武器屋のロイド。大工のゲオルグ。奴隷商のセルジュ。そして、俺の隣に立つニーナ。これから俺の手足として働く者たちだ。
「今日から毎朝、夜明け前にここへ集まれ。朝食の時刻まで、俺が貴様らを鍛える」
「いよいよ、戦い方を教えてくださるんですか、大将」
ベッツが期待を隠さず尋ねた。ドランとマークも口元を緩め、腰に提げた武器へ手を添える。ラグに至っては、何を教わるか仲間と賭けていたらしい。
「いや。まず走れ」
「……走る?」
「石切り場の外周だ。全員、行け」
ベッツたち七人は、しばらく俺を見つめた。戦い方を教わるつもりで来たのに、命じられたのがただの走り込みだったため、聞き間違いではないかと考えているらしい。
やがてロイドとゲオルグが、諦めたように歩き出した。ニーナも元気よく二人の後へ続く。最後までその場に残ったセルジュが、恐る恐る自分の胸へ手を当てた。
「あの……全員というのは、私も含まれているのでしょうか?」
「お前以外に誰が残っている」
「私は奴隷商でございまして、戦闘には最も向いておりません」
「だから鍛える」
「戦わない者まで強くする必要があるのでしょうか?」
「逃げる時に必要だ」
セルジュは一瞬、納得しかけた。
「たしかに、それは大切でございますな」
「それに、有事の時に俺の配下が最初に息切れするのは格好がつかない」
「そうではありますが…」
「話している間に、ほかの者はもう走っているぞ」
「行ってまいります」
セルジュは慌てて後を追った。もっとも、ニーナの元気が続いたのは最初のニ周までだった。セルジュに至っては、半周へ届く前から、何度もこちらを振り返っている。距離を間違えていないか、俺が途中で止めると言い出さないか、わずかな希望を捨て切れないようだ。
俺は初日の動きを見ながら、それぞれの訓練量を決めていった。
ベッツ、ドラン、マークは腕力に頼りすぎている。下半身と持久力を重点的に鍛える。
ミラとラグは身軽だが、身体の軸が安定していない。
ノルはすべて足りないものの、指示した歩幅と呼吸を誰より忠実に守っていた。
ハイムは目立たないが、足運びに無駄がなく、長く動き続けられる。
ロイドは店で働いてきた分だけ足腰が強く、ゲオルグは重い木材を扱ってきたため背中と腰ができている。だが、二人とも身体の使い方に偏りがあった。
ニーナには最低限の体力はある。しかし、戦いの中で動き続けるには、筋力も持久力もまるで足りない。そしてセルジュは――。
「ア、アレス様……」
「何だ?」
「もし私がここで力尽きた場合、店の鍵は机の右側の引き出しにございます……」
「遺言は要らん。まだ一周目だ」
「私にとっては、すでに人生で最も長い道のりでございます」
戦闘以前の問題だった。それでも、地面へ膝をつきかけるたびに踏みとどまり、再び足を前へ出している。自分だけ止まればどうなるのかを恐れているのかもしれないが、走ること自体を投げ出すつもりはないようだ。一通り見終えた俺は、全員を呼び戻した。
「今から、一人ずつ訓練内容を伝える。体力も身体の癖も違う。同じことはさせない」
「それなら、セルジュさんはずいぶんと軽くなりそうですね」
ラグが息を整えながら言った。
「そうだ。セルジュが走る距離は最も短い」
「ありがとうございます、アレス様」
セルジュの顔へ、生気が戻った。
「その代わり、走り終えた後は歩け。朝の訓練が終わるまで、一度も止まるな」
生気はすぐに消えた。
「結局、休めないじゃないですか」
「ラグ。お前は他人を気にする余裕があるようだな。距離を一周増やす」
「今のはセルジュさんを心配しただけです!」
「なら、隣を走って励ましてやれ」
「ラグ殿。お気持ちだけで十分でございます」
「うっ、大丈夫です。セルジュさん」
「話は走りながらしろ」
二人が並んで走り出す。残りの者にも、走る距離、歩きと走りの割合、屈伸、腕立て、腹部と背中を鍛える動き、両手と両膝をついてでの移動、石を抱えて歩く距離を伝えていく。どれも地味なものばかりだ。
「大将。武器を振る訓練は、この後ですかい?」
ベッツが尋ねた。
「早くても半年後だ」
「半年!?」
七人の声がきれいにそろった。
「その身体で技だけ覚えても、実戦ではすぐに動けなくなる。まず半年、徹底的に基礎体力を上げる。武器も技も、その後だ」
「半年も走りと基礎トレーニングばかりで、本当に強くなれるんですか?」
「なれる。俺が保証する」
六十年以上、戦い続けてきた。才能のある者も、ない者も見てきた。初めから強かった者もいれば、地道な訓練によって、それまで勝てなかった相手を越えた者もいた。そのすべてに共通していたのは、最後まで身体を動かせる者が生き残ったということだ。
「ただし、楽になるとは言っていない」
全員の顔から、わずかに希望が消えた。
「安心しろ。途中で動けなくなっても、訓練後には俺が治す。壊れることを恐れず、限界まで鍛えられるぞ」
今度は、残っていた希望まで消えた。
「アレス様。それは安心するところなのでしょうか?」
ニーナが遠慮がちに尋ねる。
「当然だ」
「そうなのですね……」
なぜか、誰も納得していないように見えた。それから半刻。旧石切り場には、苦しそうな息遣いと、時折上がるうめき声だけが響いた。
「セルジュ、数を飛ばすな」
「飛ばしてなど……おりません。三、四、六……」
「五が消えたぞ」
「疲労のあまり、見失ったようでございます」
「見つかるまで五回目を続けろ」
「それは、いつ終わるのでしょうか?」
少し離れた場所では、ベッツが腕立てを続ける仲間たちを励ましていた。
「お前ら、これを終えれば休めるぞ!」
「次は両手をついて坂を上れ。誰が休憩できると言った」
ベッツの声に反応して顔を上げた全員が、今度はそろってベッツをにらんだ。
「大将。今のは聞かなかったことには――」
「ならない」
「皆、すまねえ」
「余計なこと言わないでくださいよ、頭」
「その呼び方も直せ、ラグ」
「大将の前ではベッツ殿でした」
「俺の前でなければ頭と呼んでいるのか?お前らはもうそこらの子悪党ではない」
「……両手と両膝をついて、行ってきます」
ラグが誰よりも早く坂へ向かった。ニーナだけは、苦しそうにしながらも一つ一つの動きを真面目に続けている。
「アレス様。この姿勢には、どのような意味があるのでしょうか?」
「体幹を崩さず、手足を別々に動かすための訓練だ。転んだ状態から立ち上がる時にも役立つ」
「勉強になります」
ニーナがうなずく。その周囲で、説明を聞くふりをして動きを止めていた者たちへ目を向けた。
「答えは聞こえただろう。貴様らは動け」
全員が慌てて手足を動かし始める。
「ニーナさんが質問するたびに休めると思ったのに……」
「ノル。声に出ているぞ」
「申し訳ございません!」
朝日が森の向こうから顔を出すころ、全員が地面へ倒れていた。あお向けになったセルジュが、空を見つめる。
「朝日とは……これほど美しいものだったのですね……」
「普段から見ているだろう」
「今日ほど、生きて迎えられたことへ感謝した日はございません」
「大げさだ」
「若様」
横たわったままのハイムが、静かに口を開いた。
「死者は出ておりません」
「見れば分かる」
「念のための報告です」
こいつは本気で言っているのだろうか。顔を見ても分からなかった。俺はセルジュの肩へ手を置き、《再生》を流した。
乱れた呼吸が整い、疲労で震えていた手足から力が抜けていく。傷ついた筋肉を治し、無理な動きで生じた腫れと熱を消す。ただ訓練前の身体へ戻すのではない。身体が次の負担へ耐えられるよう、わずかに強い状態へ作り直す。
「……痛みが、消えております」
セルジュが自分の腕を動かし、驚いたように身体を起こした。
「あれほど苦しかったことが、うそのようです」
「訓練した事実まで消えたわけではない。身体は使った分だけ、前より強くなっている」
「これなら、明日も何とかなりそうでございます」
「そうか。なら、明日は少し増やせるな」
「今の言葉は取り消させてください」
「遅い」
続けて、全員を一人ずつ治していく。最後にニーナを治し終えた時には、俺の魔力も目に見えて減っていた。
「訓練の後は、必ず食事を取れ。再生した身体を強くするには材料が必要だ。食べずに働くことは許さない」
「かしこまりました」
ロイドが代表するように頭を下げる。
「食事を終えたら、それぞれの仕事へ戻れ。ロイドは店を立て直し、ゲオルグは石切り場の整備。セルジュは店と人の調査を続けろ。ベッツたちはゲオルグの指示に従え」
「へい」
「それから、仕事の合間にもできる訓練を決めた」
立ち上がりかけていた者たちの動きが、一斉に止まった。
「大将。朝の訓練は、今ので終わったんじゃ……」
「終わった。今から伝えるのは日中の訓練だ」
ベッツへ、残る全員の視線が集まる。
「また余計なことを聞いた」と、その目が訴えていた。
「ロイドは荷を運ぶ時、左右へ偏らせるな。棚の整理をするたび、決めた回数だけ屈伸しろ。ゲオルグとベッツたちは、石と木材を運ぶ作業そのものを訓練にする。ラグとハイムは移動する時、決めた足運びを崩すな。ニーナは屋敷の仕事を妨げない範囲で、階段と水おけを使え」
「私には、何をすればよいのでしょうか?」
セルジュが、聞きたくなさそうに尋ねた。
「客がいない間は立て。座る時も立つ時も、腕で机を押すな。背筋を伸ばし、脚だけで動け」
「仕事柄、帳簿を確認する時間が長いのですが……」
「立って読め」
「契約書を書く時は?」
「書く時は座っていい」
「ありがとうございます」
「一枚書き終えるごとに、十回立って座れ」
「やはり、尋ねなければよかったようでございます」
セルジュが肩を落とした。
「本来の仕事を後回しにするな。危険な作業中や客の前で行う必要もない。休むと決めた時間には、きちんと休め。だが、何もせず待っている時間があるなら、身体を鍛えろ」
「はい、アレス様」
返事だけは全員そろっていた。顔はそろってげっそりしている。だが、誰一人として、やらないとは言わなかった。
「初日にしては悪くない」
そう告げると、何人かがわずかに顔を上げた。
「明日も同じ時刻に始める。遅れるな」
上がりかけた顔が、また下を向いた。
「大将は、褒めた直後に心を折るんですね……」
「ラグ。何か言ったか?」
「明日も頑張ります!」
今度の返事は、誰よりも早かった。




