第58話 聖女の成長1
聖女リシア・フォン・アルトリア視点
鑑定の儀式から、二か月が過ぎた。
「それでは、始めます」
大神殿の治療室で、私はベッドのそばに立っていた。目の前にいるのは、私より少し幼い少女だ。荷車から落ちた際に右腕を折り、神官によって骨を正しい位置へ戻された後、木の板と布で固定されている。私は少女の腕へ触れないよう、両手をかざした。
「少し温かくなると思います。痛かったら、すぐに教えてください」
「はい、聖女様」
少女の声は震えていた。痛みを恐れているだけではない。女神に選ばれた聖女を前にして、緊張しているのだろう。付き添っている母親も、先ほどから何度も私へ頭を下げている。
「お名前を聞いてもよいですか?」
「ミアです」
「ミアは、腕が治ったら何をしたいですか?」
「お母さんのお手伝いをしたいです。わたし、糸を巻くのが上手なんです」
母親は仕立屋で働いているらしい。
「では、また糸を巻けるように、一緒に頑張りましょう」
「はい」
少女の表情から、わずかに力が抜けた。私は呼吸を整え、《祈祷》によって心を静める。治さなければと焦ってはいけない。折れた骨が正しい位置にあることを確かめ、その周囲を傷つけないよう、必要な場所へ必要な分だけ魔力を届ける。
「女神ルミエラよ。どうか、この者の痛みを和らげ、傷ついた身体を癒やす力をお貸しください」
手のひらから、白い光が零れた。二か月前は、ほんの一瞬で消えてしまった光だ。今は揺らぐことなく少女の右腕を包み、折れた骨と傷ついた筋肉へゆっくりと染み込んでいく。魔力を込めすぎないように注意しながら、治っていく状態を感じ取る。やがて、腕の中にあった小さな引っ掛かりが消えた。
「終わりました」
光を収めると、傍で見守っていた老神官が固定具を外した。少女の腕へ触れ、骨の状態を丁寧に確かめていく。
「指を、ゆっくりと動かしてみてください」
少女が恐る恐る指を曲げる。一度、二度と手を握り、今度は右腕を少し持ち上げた。
「痛くない……」
驚いたように自分の腕を見つめた後、少女の顔に大きな笑顔が広がった。
「お母さん、痛くないよ!」
「ああ……ありがとうございます。聖女様、本当に、ありがとうございます……」
母親がその場へ膝をつき、額が床へ触れそうなほど深く頭を下げた。
「立ってください」
「ですが、このご恩を、どうお返しすれば……」
「ミアが元気になったことが、何よりのお返しです」
そう伝えても、母親は何度も感謝の言葉を口にした。治療室を出ていく直前、ミアが振り返る。
「聖女様」
「はい」
「わたし、大きくなったら、聖女様のお洋服を作ります」
「楽しみにしています」
「絶対です!」
少女は母親に手を引かれ、元気よく部屋を出ていった。扉が閉まるまで見送った後、私は小さく息を吐いた。治療を始める前より、身体が重くなっている。
「本日の治療は、ここまでにいたしましょう」
老神官が告げた。
「まだ、もう一人くらいなら治せます」
「先ほど、最後の方で光がわずかに弱まりました」
「ですが、魔力は残っています」
「残っていることと、安全に治療できることは別です。完全に治せる自信がない状態で次の方をお呼びすることは、患者に対して誠実とは申せません」
言い返すことができなかった。二か月前の私なら、それでも続けると言ったかもしれない。魔力が尽きて倒れるまで祈り、それが聖女として正しいことだと思っていた。
けれど、無理に治療を続けて失敗すれば、苦しむのは目の前の患者だ。私が倒れれば、明日治せるはずだった人まで待たせることになる。
「……分かりました」
「よろしい」
老神官が満足そうにうなずいた。
「ミア殿の骨折を、これほどきれいに治せるようになられました。二か月前とは比べものにならない進歩です」
「それでも、一日に治せるのは三人だけです」
治療室の外には、今日も大勢の人が待っている。大神殿へ届く手紙は、二か月前よりさらに増えていた。病に苦しむ者。魔物に襲われ、重い傷を負った者。治療費を払えず、神殿へ来ることさえできない者。
私の魔力では、すべての人を治すことはできない。治療を受けられる者は、神官や治癒師が容体を確認し、緊急性と、今の私の力で治せるかどうかを考えて決めている。その判断が必要なことは理解していた。それでも、扉の向こうにいる人々を残して帰るたび、胸の奥に痛みが残る。
「力を得れば、もっと多くの方を救えると思っていました」
「実際に、救っておられます」
「ですが、救えない方の方が、ずっと多いです」
老神官は、すぐには答えなかった。
「力を持たぬころは、救えない者の姿さえ見えぬことがございます」
「見えるようになったから、苦しくなるのですか?」
「はい。力を得れば得るほど、自分にできないことも、よりはっきりと見えるようになります」
「では、いつか何でもできるようになれば、この苦しさはなくなりますか?」
「そのような日は、おそらく参りません」
おだやかだが、迷いのない答えだった。
「聖女であろうと、一人の人間です。すべての場所へ同時に行き、すべての苦しみを取り除くことはできません」
「それでも、諦めたくありません」
「諦める必要はございません。今日は三人を救われました。明日も三人を救い、その間に学び続ける。いずれ同じ魔力で四人、五人を治せるようになるかもしれません」
老神官が、ミアの出ていった扉へ目を向ける。
「できぬことの多さではなく、今日手を伸ばせた方をお忘れになりませぬよう」
「はい」
私はうなずいた。治療室を出ると、廊下にいた神官や見習いたちが一斉に頭を下げる。
「お疲れさまでございました、聖女様」
「聖女様。本日も尊き奇跡を、ありがとうございました」
聖女様。二か月が過ぎても、その呼び方に慣れることはなかった。王宮でも、大神殿でも、今では誰もがまず聖女様と呼ぶ。以前のようにリシア様や王女殿下と呼ぶ者さえ、ほとんどいない。
何の肩書もつけず、ただリシアと呼ぶのは、父と母、ユリウスお兄様、そしてセレスくらいだ。皆が私へ敬意を向けてくれていることは分かっている。けれど時々、その言葉の下へ、私自身の名前まで隠れてしまったように感じることがあった。
◇
王宮へ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。午後は母と昼食を取り、その後、王女として歴史と政務について学ぶ予定になっている。
聖女になったことで、神学と魔法の授業は増えた。けれど、母は王女として学ぶ時間も減らさなかった。忙しくはあるものの、私はそのことをうれしく思っていた。聖女になる前の自分まで、消えてしまわずに済む気がしたからだ。ところが、母の部屋へ向かう途中、待っていた侍女から予定が変わったと告げられた。
「陛下が、リシア様をお呼びでございます」
「お父様が?」
「はい。第二王妃様も、すでに小会議室へお越しです」
「何かあったのですか?」
「王都の冒険者ギルド本部から、異例の報告が届いたと伺っております」
冒険者ギルド。王国各地に支部を置き、魔物の退治や素材の採取、護衛などの依頼を管理する組織だ。王家から独立した組織ではあるが、街や村の安全に深く関わるため、重要な情報は王宮へも報告される。
魔の森で、何か大きな異変が起きたのだろうか。不安を覚えながら小会議室へ入ると、父と母のほかに、宰相と数人の重臣が席についていた。机の中央には、冒険者ギルドの印が押された手紙が広げられている。
「お呼びでしょうか」
「ああ。治療を終えたばかりのところ、すまない」
父の表情に、国難を前にしたような緊張はなかった。少しだけ安心する。
「リシアにも、聞いておいてほしい報告が届いた」
「わたくしにも、ですか?」
「お前やセレスティアと同じ十二歳の子どもに関するものだ」
父に勧められ、母の隣へ座る。宰相が手紙を手に取り、最初の一文を読み上げた。
「アークハルト男爵家跡継ぎ、アレス・アークハルト。十二歳。職業は武闘家」
聞いたことのない名前だった。アークハルト男爵家については知っている。グランベル辺境伯領と隣り合い、広大な魔の森から人々を守り続けてきた武芸を重んじる家だ。
当主であるガレス・アークハルト男爵は、領民を第一に考える誠実な人物として、父からも厚く信頼されている。
「アレス・アークハルトは、騎士団長の推薦を受け、Cランク登録のための特別試験を受験。知識、判断力、実戦能力のすべてに合格し、条件付きでCランク冒険者として登録されました」
「十二歳で、Cランクですか?」
思わず聞き返した。Cランクが、一人前と認められた者に与えられる階級であることは知っている。登録したばかりの十二歳の子どもが得たというだけで、それがどれほど異例なのかは十分に分かった。




