第53話 若様を語る夜
トーマ・リード視点
その日の夜。屋敷の者たちが寝静まるころになっても、使用人棟の食堂には明かりが灯っていた。
長いテーブルを囲んでいるのは、執事長のオルド殿、侍女長のエマ殿、料理長のハンナ殿、家付き治癒師のエド殿。そして、私とニーナだ。
普段なら、一日の仕事を終えた者から自室へ戻っている時間である。それにもかかわらず、今夜は誰一人として席を立とうとしない。理由は分かっていた。皆、今日のアレス様について聞きたいのだ。
「それでは、トーマ」
オルド殿が、テーブルの上で両手を組んだ。
「冒険者ギルドで何があったのか、初めから話してもらえますかな」
「承知いたしました」
私は背筋を伸ばし、皆の顔を見渡した。
「まず結論から申し上げます。アレス様は本日、Cランク冒険者として登録されました」
「Cランク?」
ハンナ殿が、ひどく大きな声を上げた。
「ちょっと待ちな。冒険者は皆、Fランクから始めるんじゃなかったのかい?」
「通常は、そのとおりです」
「では、どうしてアレス様がCランクになられたのです?」
エマ殿の鋭い視線が私へ向けられる。
「特別試験を受けられたからです」
食堂が静まり返った。オルド殿だけは事情をある程度知っているので、驚きを表へ出さなかった。
「旦那様は、そのことをご存じだったのですか?」
「いいえ。旦那様は、アレス様がFランクから始められるものとお考えでした」
「では、アレス様は黙って特別試験を?」
エマ殿がまゆの間にしわを寄せる。私はどう答えるべきか迷い、隣に座るニーナを見た。
「アレス様は、黙っていたわけではないとおっしゃっていました」
ニーナが控えめに口を開く。
「聞かれなかったから、答えなかっただけだと」
「それを世間では、黙っていたと言うのですよ」
「私も、そのように申し上げました」
「それで、アレス様は何と?」
「そうとも言うな、と……」
ハンナ殿が吹き出し、口元を押さえた。エド殿も眼鏡の奥で目を細めている。厳しい表情を崩していないエマ殿でさえ、わずかに肩の力が抜けたように見えた。
「何とも、アレス様らしい答えですな」
オルド殿が小さく笑う。
「ですが、特別試験は望めば誰でも受けられるものではないはずです」
「はい。Cランク以上の冒険者、領内騎士団長、あるいはギルドが実力を認めた者からの推薦が必要となります。アレス様は、旦那様から受け取ったダリオ様の推薦状を提出されました」
「なるほど。旦那様は手続きを問題なく進めるために用意なさったのでしょうが、アレス様は初めからそのおつもりだったのですな」
「そのようです」
昨日の夕食で、アレス様は推薦状を受け取った時に驚いた表情を見せていた。だが、今になって思えば、あの時すでに特別試験を受けることまで考えていたのだろう。
「それで、その試験というのは何をするんだい?」
ハンナ殿が身を乗り出す。
「知識、判断力、実戦能力。その三つを確かめる試験でした。最初は、ギルド長から様々な状況を示され、どのように対処するかを問われました」
「アレス様は、お答えになれたのですか?」
エマ殿の問いに、私は思わず笑みを浮かべた。
「はい。知識と判断力については、その場で合格を告げられました」
依頼中に情報のない上位種と出会った場合。毒を受けた仲間がいる場合。守る相手から危険な道を進むよう命じられた場合。仲間がとても珍しい素材を隠して持ち帰ろうとした場合。
どの問いに対しても、アレス様は一度も迷われなかった。常に人命を優先し、依頼の本来の目的を見失わず、失敗すれば誰にどのような被害が及ぶのかまで考えて答えておられた。
「中でも、勝てない魔物と遭遇し、けがをした仲間を連れて逃げなければならないという問いがございました」
私がそう告げると、皆の表情がわずかにこわばった。
「アレス様は、誰かを見捨てることも、ご自分一人が犠牲になることも選ばれませんでした。周囲にあるものをすべて使い、最後まで全員で生きて戻る方法を考えるとお答えになったのです」
「アレス様らしいお答えです」
ニーナが胸の前で両手を重ねる。その声には、隠しきれない誇りが込められていた。
「力を持つ者が、自分だけでなく、共にいる者の命まで背負い、なお諦めぬ。アレス様は、すでに人の上に立つ者としての覚悟をお持ちなのでしょうな」
オルド殿はそう言うと、これまでを思い返すように目を細めた。
「ということは、その後に実戦試験があったのですね」
エマ殿の言葉に、私は今日の光景を思い出した。
訓練場の中央に立つ、小さな背中。向かいには、アレス様の倍近い体重がありそうな大男。周囲には何十人もの冒険者が集まり、誰もが勝ち目はないとささやいていた。
あの時の胸の高鳴りがよみがえり、私は思わず立ち上がった。
「実戦試験の相手は、グラント殿という元Bランク冒険者でした!」
「元Bランク?」
「はい! 五年前に左膝を傷めて前線を退かれたそうですが、今でもCランク冒険者では相手にならないほどの実力者です。背丈はダリオ様ほどもあり、腕など私の胴ほどもあるのではないかと思える大男でした!」
「トーマ。声を抑えなさい」
「も、申し訳ございません」
またしてもオルド殿に注意され、私は腰を下ろした。だが、声を抑えることはできても、あの光景を淡々と話すことなどできそうにない。
「アレス様の合格条件は、グラント殿を相手に五分間持ちこたえるか、有効な攻撃を一度でも入れることでした」
「それで、アレス様は五分間を?」
「いいえ、エド殿」
私は首を横へ振った。
「試験は、三呼吸もかからずに終わりました」
「三呼吸?」
「アレス様は、グラント殿を倒してしまわれたのです」
皆の目が見開かれた。
「ちょっと待ちな」
ハンナ殿が両手を上げ、私の話を止めた。
「その人は、けがをして前線を退いたんだろう? それに、相手は十二歳のアレス様だ。ずいぶんと手加減したんじゃないのかい?」
「手加減などしておりません。ギルド長は、年齢を理由に手加減する方がアレス様へ失礼だと、試験前にはっきり告げておりました」
「それでも、三呼吸というのは……」
「事実です」
答えたのは、ニーナだった。皆の視線がニーナへ集まる。
「グラント様が長剣を振り下ろし、アレス様が半歩だけ避けられました。グラント様はすぐに剣を横へ振ろうとなさいましたが、アレス様は後ろへ退かず、その懐へ入られたのです」
ニーナは、自ら確かめるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「手首と肘へ手を添え、足を一歩置かれました。その直後には、グラント様の大きな身体が宙へ浮いていました。地面へ倒された時には、長剣を奪われ、アレス様の拳がのど元で止まっていたのです」
「大の男を、投げたのですか?」
エマ殿が尋ねる。
「はい」
「魔法か、闘気を使われたのでは?」
「いいえ。見ていた冒険者の方々も、誰一人として闘気の気配を感じなかったとおっしゃっていました」
「闘気を使わずに、元Bランク冒険者を一瞬で?」
エド殿は眼鏡を外し、布で何度も拭いた。眼鏡の曇りが原因で、聞いた話まで変わるわけではない。それでも、何かをせずにはいられなかったのだろう。
「グラント殿は、アレス様が自分の力を利用したのだとおっしゃっていました」
「では、力ではなく技で倒されたのですな」
オルド殿の言葉に、私はうなずく。
「それだけではございません。グラント殿は、自分が受け身さえ取れなかったことに驚いておりました。アレス様は、取らせなかったと一言だけお答えになりました」
「取らせなかった……」
「さらに、グラント殿の左膝が悪いことも、歩き方を見ただけで気づいておられました。もっとも、悪い足を狙ったわけではなく、反対側へ仕掛けても結果は変わらなかったとおっしゃっていましたが」
あの時のグラント殿の顔を思い出す。敗れたことを恥じてはいなかった。自分よりはるかに小さなアレス様へ、完全に実力を認めた者の顔だった。
「グラント殿は、ご自分が現役だったころに出会ったAランク冒険者でも、アレス様ほどの技術は持っていなかったと断言されました」
「Aランク……」
食堂の隅で話を聞いていた若い使用人たちから、抑えきれない声が漏れた。
皆、アレス様が騎士たちと訓練していることは知っている。何人もの騎士を相手に勝ったことも、屋敷の者なら一度は耳にしているだろう。
だが、騎士団とは関係のない元Bランク冒険者が、アレス様の技術をAランク以上だと認めた。その事実は、これまでの話とは意味が違った。
「ニーナ」
ハンナ殿が、ニーナへ心配そうな目を向けた。
「怖くなかったのかい?」
「……怖かったです」
ニーナは正直に答えた。
「長剣が振り下ろされた時には、目を閉じそうになりました。もしアレス様がおけがをされたらと考えると、今すぐ試験を止めてほしいと叫びたくなりました」
「それなら、どうして止めなかったんだい?」
「アレス様が、負けるつもりはないとおっしゃったからです」
ニーナのこはく色の瞳に、強い光が宿る。
「この一か月余り、私は毎朝、アレス様が訓練なさる姿を拝見してまいりました。昨日より一周でも多く走り、拳を一度でも多く振るえるように、毎日欠かさず努力しておられました。苦しくても続け、休むべき時には必ず休み、お食事も一度も残されませんでした」
ニーナは重ねていた手を、そっと握り締めた。
「ですから、心配ではありました。それでも、アレス様が負けるとは思いませんでした。私がこの一か月余り、一番近くで見てきたものは、間違っていないと信じておりました」
ハンナ殿が、優しく目を細める。
「あんたも変わったね、ニーナ」
「私が、ですか?」
「少し前までのあんたなら、自分が誰かを信じているなんて、皆の前ではっきり言えなかっただろうさ」
ニーナは驚いたように瞬きをした後、わずかに頬を赤くした。
「アレス様が、私の考えを聞いてくださるようになったからだと思います」
「そうかい」
ハンナ殿はそれ以上何も言わず、大きな手でニーナの頭を一度だけなでた。その隣では、エマ殿もニーナを見つめていた。厳しい侍女長の顔ではなく、めいの成長を喜ぶ叔母の表情だった。




