第52話 父から受け取ったもの
「ただし、母上へ説明する責任だけは、お前一人のものだ」
「そこは分けていただけないのですか?」
「分けるつもりはない」
父上が即答した。ダリオは窓の外へ顔を向け、オルドは何も聞いていないように目を伏せる。トーマまで、急に手元のかばんを確認し始めた。どうやら全員、母上へ説明する責任だけは引き受けたくないらしい。
「……承知しました」
元Bランク冒険者を倒すより、こちらの方が難しい仕事になるかもしれない。
「それで、条件付きのCランクだと聞いた。ギルド長と何を決めた?」
俺はバルガスと交わした条件を、最初から説明した。当面の間、単独で入れる場所は魔の森の浅層まで。森へ入る前と戻った後には必ずギルドへ報告する。異常を発見した場合は、退治できたかどうかにかかわらず知らせる。
Cランクの依頼を五件、問題なく達成するまでは、その条件を守る。日没までに戻れなかった場合は理由を説明し、うその報告をした時や、許可なく浅層より奥へ入った時は、Cランク資格を停止する。父上は一度も口を挟まず、最後まで聞いた。
「お前が自分で示した条件なのだな?」
「はい」
「ならば、必ず守れ。アークハルト家の者が、自ら交わした約束を軽く扱うことは許さない」
「承知しています」
「それから、森で何か異変を見つけた時は、ギルドだけではなく、こちらへも報告しろ。魔の森から領民を守るのは、我が家の務めだ。ギルドより先に騎士団を動かす必要がある場合もある」
「分かりました」
「無理はするな」
「はい。必要のない危険は避けます」
うそではない。強くなるために必要なことまで避けるとは言っていないが、目的もなく危険へ飛び込むつもりはなかった。
父上は俺の顔をじっと見た。何かを言いかけたものの、最後には諦めたように首を横へ振る。
「止めたところで、お前は納得するまで学び、鍛え、最後には私を説得して森へ向かうのだろうな」
「無断で向かうつもりはありません」
「そこだけは、以前より成長したと思うことにしよう」
父上は椅子から立ち上がると、執務机の後ろにある書棚へ向かった。並んだ書物の一角へ手を伸ばし、奥に隠されていた小さな金具を押す。
乾いた音とともに、書棚の一部が手前へ開いた。中から父上が取り出したのは、黒に近い濃紺の革袋だった。銀色の糸で複雑な紋様が縫い込まれ、口元には魔石を加工した留め具がついている。見た目だけなら、少し上等な腰袋にしか見えない。だが、そこに流れている魔力を見れば、ただの袋ではないことはすぐに分かった。
「お館様。それは……」
ダリオが初めて驚きを表へ出した。
「ああ。私が若いころに使っていたマジックバッグだ」
父上は執務机へ戻り、濃紺の袋を俺の前へ置いた。
「中は、荷馬車一台分の荷台と同じほどの広さがある。見た目以上の物を入れられ、収納している間は重さもほとんど感じない。食料、水、着替え、薬、野営道具。必要だと思う物は、できる限り持っていけ。倒した魔物から回収した素材を運ぶ時にも使える」
俺は袋へ触れ、魔力をわずかに流した。意識の先に、何も入っていない広い空間が浮かぶ。間違いなく、本物のマジックバッグだ。マジックバッグを作れる空間魔法の使い手は、現在では世界中でもほぼいない。素材にも高価な魔石と特殊な魔獣の革を使うため、金だけを積めば簡単に手に入る物でもなかった。
「これほど貴重な物を、よろしいのですか?」
「使わずに書棚の奥へしまっておく方が、よほど無駄だ」
「旦那様は、先代様と初めて魔の森の奥へ入られた際にも、その袋をお持ちでした」
オルドが懐かしそうに目を細める。
「領主となられてからは、ご自身で長く森へ入られる機会も減り、こうして保管なさっていたのです」
「勘違いするな、アレス」
父上が、俺の目をまっすぐに見つめた。
「やるのではない。まだ貸すだけだ」
「はい」
「必ず、私へ返せ」
マジックバッグのことだけを言っているのではない。父上が何を求めているのか、考えるまでもなかった。
「必ずお返しします」
俺もまた、袋のことだけを答えたのではない。父上は短くうなずくと、それ以上何も言わなかった。
「では、持たせる前に確認しておこう」
父上が椅子へ座り直す。
「魔の森に生息する魔物と、回収すべき素材については学んでいるのだな?」
「はい。浅層に生息する魔物であれば、すべて」
「すべて、か」
父上の隣で、ダリオがわずかにまゆを上げる。トーマは、当然ですと言いたげな顔をしていた。
「では、浅層の外側から順に答えてみろ」
「人の通る街道や伐採地に近い場所では、ホーンラビット、グリーンスライム、フォレストウルフが多く確認されています」
俺は頭の中にある魔の森の地図を思い浮かべながら答える。
「ホーンラビットは額の角を使って直線的に突進します。角と毛皮が素材になります。グリーンスライムは動きこそ遅いですが、酸性の粘液を吐くため、素手で触れてはいけません。核と粘液は、薬師や革職人が買い取ります。フォレストウルフは単体より群れを警戒すべきです。牙、つめ、毛皮に価値があります」
「その三種だけなら、新人冒険者でも戦えると言われている。何が最も危険だ?」
「フォレストウルフです。見えている個体だけを群れのすべてだと思えば、背後から襲われます。ただし、最も多くの新人が傷を負うのはホーンラビットです。小さく見えるため油断し、角を受ける者が多いからです」
父上が満足そうにうなずいた。
「もう少し奥へ入れば?」
「アイアンボア、ポイズントード、スリープモス。さらに、フレイムリザード、ロックビートル、スパークラット、青緑色の羽を持つ鳥型の魔物《翠羽鳥》が確認されています」
「それぞれの特徴は?」
「アイアンボアは硬い皮膚と強い突進を持ちます。牙と皮が主な素材です。ポイズントードは毒液と毒霧を使い、毒袋と長い舌が薬や解毒剤の材料になります。毒袋を傷つけると、ほかの素材まで使えなくなるため、解体には注意が必要です」
「スリープモスは?」
「翅から睡眠のうろこ粉をまきます。単体で人を殺す力は高くありませんが、眠ったところをほかの魔物に襲われるため、実際の危険度は見た目より高い。うろこ粉と傷のない翅が素材になります」
ダリオの目が細められた。
「魔法を使う種はどうだ?」
「フレイムリザードは火球と短い火炎を吐き、火炎袋と耐火性のうろこに価値があります。ロックビートルは硬い甲殻に加え、土魔法で足元を崩したり、小石を飛ばしたりします。甲殻と土属性の魔石が素材です」
頭の中に、それぞれの姿と動きが鮮明に浮かぶ。
「スパークラットは身体に雷を蓄え、近づいた相手へ放電します。尾毛と雷属性の魔石。翠羽鳥は上空から風の刃を放ちます。風切羽、曲がった鋭いつめ、風属性の魔石が回収対象です」
「翠羽鳥の肉は?」
父上の問いに、俺は一度だけ言葉を止めた。
「通常は食用にしません。魔物の肉には魔毒が含まれているためです。解体後は、ほかの魔物を呼び寄せないよう焼くか、深く埋めるべきです」
知識としては、それが正しい答えだ。だが、俺は翠羽鳥の肉を食べたことがある。滅びた未来では、食べられる物を選べるような状況ではなかった。
魔物の肉であろうと、毒草であろうと、口にしなければ次の戦いまで身体が持たない。瘴気にさらされ続けた翠羽鳥の肉は、舌がしびれ、吐きそうになるほど――はっきり言えば、くそ不味かった。
それでも、食べた後は、はっきりと分かるほど魔力の戻りが早くなり、身体の疲労も軽くなった。肉そのものには、身体を作るための豊富な栄養と、魔力を補う力があったのだろう。
今の時代の魔の森は、まだ濃い瘴気に覆われていない。魔毒さえ乗り越えられれば、味も違う可能性がある。料理の技術に関しては、俺よりニーナの方がはるかに上だ。あの肉をニーナに調理させれば、食べられるどころか、絶品の料理に変わる可能性さえある。最初は、一口食べるたびに魔毒へ侵されるだろう。
だが、毒を受け、《再生》で治し、また食べる。それを繰り返せば、いずれ《魔毒耐性》を得られるはずだ。耐性を得るまでは、肉から回復する魔力より、毒を治すために使う魔力の方が多い。それでも、耐えられるようになれば、翠羽鳥の肉は訓練後の食事として大きな価値を持つ。もちろん、その計画を父上へ話すつもりはない。
「どうした?」
「いえ。翠羽鳥の風切羽は、矢羽や風属性の魔道具にも使われると、付け加えようと思っただけです」
「そこまで分かっていれば十分だ」
父上は俺の沈黙を疑わず、話を続けた。
「では、森の異変を何で判断する?」
「生息域に合わない魔物の跡。浅層にいるはずのない上位種の足跡。魔物の死体が不自然に放置されている場合や、逆に、普段いるはずの小動物や鳥の気配が消えている場合も警戒します」
「ほかには?」
「季節に合わない繁殖、群れの異常な移動、複数の魔物が同じ方向から逃げてくること。木々の変色や、水場の濁りも確認します。一つだけなら偶然でも、複数が重なっていれば、浅層より奥で何かが起きている可能性があります」
「よい」
父上の声から、最後の警戒がわずかに薄れた。
「知識だけなら、初めて森へ入る者とは思えんな。だが、書物で得た知識と、森の中で起きることは同じではない。分かっているな?」
「はい。だからこそ、実際に自分の目で確かめます」
魔物の動きも、攻撃の癖も、滅びた世界で何度も戦い、すべて知っている。
それでも、今の身体でどこまで避けられ、どこまで受けられるのかは、実際に戦わなければ分からない。
魔の森へ入る目的は、依頼を達成し、金と実戦経験を得ることだけではなかった。今のうちに、できるだけ多くの耐性を獲得する。
《超再生》があっても、俺は無敵ではない。傷が深ければ、それだけ治すための魔力を使う。強敵との戦いで何度も致命傷を負えば、傷より先に魔力が尽きる。再生できるから攻撃を受けてもよいのではない。
再生に頼らず戦い続けるために、受ける傷そのものを減らす必要がある。そのための耐性だ。
毒液。酸。炎。土。雷。風。睡眠のうろこ粉。浅層には、今の俺でも危険を制御しながら受けられる攻撃がそろっている。一体ずつ孤立させ、致命傷にならない範囲で攻撃を受ける。傷つけば再生し、同じ攻撃をもう一度受ける。弱い刺激で効果が薄くなれば、少しずつ威力を上げる。
帰るころには、身体も服もボロボロになっているかもしれない。だが、森を出る前に、すべて《超再生》で元へ戻せばいい。父上と母上へ余計な心配をかけるつもりはない。必要のない危険は避けると約束した。耐性を得るために必要な攻撃を受けることは、必要のない危険ではない。何も問題はなかった。
「アレス様」
トーマが、どこか感動したような声を出す。
「これほど魔の森について学んでおられたとは、さすがでございます」
「今度は何だ?」
父上が警戒するようにトーマを見る。
「いえ。アレス様であれば、魔の森でも必ずや――」
「余計な自信を与えるな」
「……かしこまりました」
トーマが残念そうに口を閉じる。父上とダリオが、また同時にため息をついた。
「ですが、お館様。私も感心いたしました」
ダリオが俺へ向き直る。その目に、先ほどまでの試すような色はない。
「魔物の名や素材を覚えるだけなら、書物を読めばできます。しかし、何を警戒し、どこに異変が現れるかまで答えられる者は多くありません。アレス様は、森へ入るための備えを十分になさっています」
「お前までトーマの側につくのか」
「事実を申し上げたまでです」
ダリオは表情を変えずに答えた。だが、その声には確かな感嘆がにじんでいた。
父上はしばらく俺を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……行ってこい、アレス。書物では得られないものを、お前自身の目で見てこい」
その視線が、俺の手にある濃紺の袋へ落ちる。
「ただし、必ず帰れ。何を学び、何を持ち帰ったのか―私に聞かせてくれ」
「はい。必ず」
滅びた世界では、あまりにも多くを失った。帰りたいと願った時には、もう帰る場所さえ残っていなかった。
だが、今度は違う。
滅びた世界と同じ歴史なら、二年後に魔の森から約一万の魔物達が溢れ出す。
その災厄から、家族、仲間、そしてアークハルト領の人々を必ず守ると俺は改めて誓った。




