第5話 五十年ぶりの食事
食堂の扉が開いた。その瞬間、俺は足を止めた。長い食卓の上に、湯気を立てる料理が並んでいる。
焼きたてのパン。鶏肉と根菜を煮込んだスープ。香草をまぶして焼いた肉。色鮮やかな野菜。切り分けられた、みずみずしい果実。漂ってくる匂いだけで、腹の奥が震えた。
食べ物だ。本物の食べ物がある。
「アレス様?」
後ろを歩いていたニーナが、不思議そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや……少し感動していた」
「感動、でございますか?」
「ああ」
食卓に料理が並んでいる。ただ、それだけの光景。だが俺には、信じられないほどまぶしく見えた。滅びた未来。世界樹が崩壊してから、植物は次々と枯れていった。家畜も死んだ。魚も消えた。野生の獣も、瘴気に耐えられず息絶えた。人間が口にできる食材など、ほとんど残らなかった。
最後まで生き残った俺が食べていたのは、瘴気に侵された魔物の肉だ。焼けば黒い煙が出る。煮れば鍋が溶ける。生で食えば舌がしびれる。どのように調理しても、救いようがないほど不味かった。
そもそも、普通の人間は魔物の肉を食べられない。その肉には、人の身体をむしばむ魔毒が含まれているからだ。それでも俺は、《超再生》による適応を繰り返し、完全毒耐性を獲得した。そうすることで、どうにか魔物の肉を食料にできるようになった。生きるためには、食べるしかなかった。
最初の頃は、少しでも美味く食べようと努力した。香草を探した。塩を探した。崩れた建物から調理器具も集めた。だが、俺には料理の才能がなかった。どれほど繰り返しても、最後まで上達しなかった。魔王ヴァルゼインを倒すより、俺が料理を覚える方が難しかったのかもしれない。
「アレス。いつまで立っている。席に着きなさい」
父上の声で、現実へ引き戻された。食卓には、すでに家族がそろっている。父上――ガレス。母上――エレナ。八歳の弟、カイル。六歳の妹、リリア。俺が自分の席へ座ると、ニーナが隣に立ち、器へスープを注いでくれた。
「本日は、鶏肉と根菜のスープでございます」
白い湯気が立ち上る。優しい香りが鼻を抜けた。俺は木のさじを手に取り、スープをすくった。手が震えている。情けない。
魔王を前にしても震えなかった手が、スープを前に震えている。一口、口へ運ぶ。温かい。塩気がある。鶏肉から溶け出した旨味。柔らかく煮込まれた根菜の甘さ。鼻へ抜ける香草の香り。それが喉を通り、胃の奥へ落ちていく。
「……美味い」
声が震えた。視界がにじむ。頬を、一筋の涙が流れた。なんということだ。武王の領域まで達したこの俺が、たった一杯のスープで涙するとは。
「ア、アレス様?」
ニーナの顔が青ざめる。
「申し訳ございません!」
勢いよく頭を下げた。
「すぐに別のものをご用意いたします!」
「なぜだ?」
「お口に合わず、涙が出るほど不味かったのでは……」
「逆だ」
「逆……でございますか?」
「美味いから泣いている」
食堂が静まり返った。カイルが、手にしていたパンを皿の上へ落とす。母上は目を見開いている。父上は眉間を押さえていた。どうやら俺は、また家族を混乱させているらしい。
「アレス」
父上が慎重に尋ねる。
「本当に、美味いから泣いているのか?」
「そう言っています」
「これまでにも、何度も同じ料理を食べているだろう」
俺にとっては、五十年ぶりだ。とは言えない。
「今日になって、ようやくこの料理の価値に気づきました」
「料理の価値?」
「温かい。味がある。毒も入っていない。素晴らしい料理です」
ニーナが困惑している。料理長のハンナが聞けば、毒が入っていないことを褒められても喜ばないだろう。だが、俺にとっては非常に重要な評価項目だ。
「ニーナ」
「は、はい」
「ありがとう」
ニーナの身体が固まった。
「それから、料理長にも伝えてくれ。本当に美味いと」
「……承知いたしました」
ニーナの声が震えていた。泣きたいのは、むしろ彼女の方らしい。俺はもう一口、スープを飲む。また涙が出そうになった。
危ない。七十歳を超えた男が、スープを飲むたびに泣いていては気味が悪い。次に肉を食べた。柔らかい。パンを食べた。香ばしい。野菜を食べた。苦くない。最後に、赤い果実を一切れ口へ入れる。甘い。そうか。甘いとは、こういう味だったか。
「ニーナ。おかわりを頼む」
「かしこまりました」
二杯目。三杯目。四杯目。途中からニーナ一人では間に合わなくなり、別の侍女も料理を運び始めた。
「兄上……」
カイルが心配そうに俺を見る。
「何だ?」
「そんなに食べて、お腹が破裂しませんか?」
「破裂しても治る」
「アレス」
父上の声が低くなった。しまった。《再生》については、まだ食卓で話す予定ではなかった。料理に感動しすぎて、思考が停止していたらしい。
「今のは例えです」
「どのような例えだ」
「そのくらい食べられるという意味です」
苦しい。六十年以上をかけて磨いた戦闘技術も、言い訳には使えないらしい。それにしても、美味い。もしかすると、料理長のハンナは《料理》スキルを持っているのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。
かつての俺は、使用人がどのようなスキルを持っているかなど、まるで興味がなかった。気にしたことすらない。本当に、自分のことしか考えていなかったのだ。
「アレスお兄様」
今度はリリアが俺を見上げた。柔らかな金髪を肩まで伸ばした、小さな少女だ。俺と目が合うと、わずかに身体をこわばらせる。かつての俺を恐れている。当然だ。
「どうした、リリア」
できる限り優しく声をかける。リリアは母上の袖をつかみながら、小さな声で尋ねた。
「お兄様、頭をぶつけたの?」
「ぶつけていない」
「では、病気なの?」
「健康だ」
「悪いものを食べた?」
「今、美味いものを食べている」
リリアは、ますます不思議そうな顔をした。
「では、どうして今日は優しいの?」
その言葉が、胸へ突き刺さった。六歳の妹にとって、兄が優しくすることは、頭をぶつけるか病気になるのと同じくらい不自然らしい。返す言葉がない。
食堂にいる全員が俺を見ていた。父上も。母上も。カイルも。リリアも。ニーナも。今までの俺なら、リリアが失礼なことを言ったと怒鳴っていただろう。だが、失礼なのは俺の方だ。俺はさじを置いた。
「リリア」
「……はい」
「今まで、怖い思いをさせて悪かった」
リリアが目を丸くする。
「カイルも」
弟へ視線を移す。
「何度も八つ当たりをした。悪かった」
「兄上……?」
「母上にも、父上にも、ずっと迷惑をかけてきました」
俺は椅子から下りた。食卓の横へ立ち、家族に向かって深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
誰も何も言わない。鑑定の儀よりも静かではないだろうか。少し不安になり、顔を上げる。母上は口元へ手を当て、涙を浮かべていた。父上は目を閉じている。カイルとリリアは、何が起きているのか分からない顔をしていた。ニーナに至っては、今にも倒れそうである。
「アレス」
母上が席を立った。ゆっくりと俺へ近づき、そのまま小さくなった身体を抱き締める。柔らかい。温かい。懐かしい匂いがした。
「母上?」
「よかった……」
母上の声が震えている。
「本当によかったわ」
何がよかったのか。聞かなくても分かった。母上は、ずっと俺を心配していた。見捨てずに。嫌いにならずに。いつか俺が変わることを願い続けていた。滅びた未来では、その願いに応えることができなかった。
鑑定の儀を境に、俺はさらに荒れた。使用人を怒鳴りつけた。カイルを妬み、リリアを泣かせた。父上の言葉にも耳を貸さず、母上の心配を鬱陶しがった。そして十三歳の終わり。ついに俺は嫡男の座を奪われ、追放同然に領地を出た。
その直後。俺が十四歳を迎えた頃、魔の森から大規模スタンピードが発生した。アークハルト領は壊滅した。父上も。母上も。カイルも。リリアも。多くの使用人や騎士たちも。誰がどこで、どのように死んだのか。当時の俺は、詳しく調べようとすらしなかった。自分を捨てた家など知るものかと、恨み続けていたからだ。愚かだった。本当に、救いようがないほどに。
あの未来では、すべてが手遅れだった。だが、今は違う。残された時間は、およそ二年。今度は必ず守る。俺は小さな腕を伸ばし、母上の背中へ回した。
「今度は、間違えません」
「今度?」
母上がわずかに身体を離す。しまった。
「これからは、という意味です」
「そう……」
母上は不思議そうにしたが、それ以上は追及しなかった。父上だけが、わずかに目を細めている。鋭すぎる。俺の父親には、もう少し鈍感でいてほしい。
「兄上」
カイルが席を立った。少し迷ってから、俺の前まで来る。
「本当に、もう僕をたたかないのですか?」
「たたかない」
「僕の木剣も壊しませんか?」
「壊さない」
「リリアのお菓子も取りませんか?」
「取らない」
「僕のお菓子も?」
「取らない」
カイルは、まだ疑わしそうに俺を見ている。
「本当に?」
「本当だ」
しばらく見つめ合った後、カイルは小さくうなずいた。
「分かりました」
まだ完全には信じていない。当然だ。言葉だけなら、いくらでも口にできる。信頼を失うのは一瞬。取り戻すには、長い時間がかかる。俺は、それを嫌というほど学んできた。リリアが母上の後ろから顔を出す。
「お兄様」
「何だ?」
「では、今日のお菓子は取らない?」
「取らない」
「明日も?」
「取らない」
「ずっと?」
「ずっとだ」
リリアの表情が、少しだけ明るくなった。
「では、少しだけあげる」
「いいのか?」
「はい。お兄様がいい子なら」
六歳の妹に、いい子かどうかを判定されてしまった。武王としては少し複雑である。だが、悪い気はしなかった。
リリアからもらった菓子を口へ入れる。優しい甘さが、ゆっくりと舌に広がった。
何もしなければ、この小さな幸せも、二年後には失われる。
謝罪しただけでは、あの惨劇を止められない。家族を守るには、失った力を一日でも早く取り戻す必要がある。
俺は自分の右眼へそっと触れた。
最初に取り戻す力は、もう決めている。




