第45話 冒険者になる理由
屋敷へ戻ったその日の夕食。いつものように家族全員が食卓を囲む中、俺は手にしていた食器を静かに置いた。
「父上。明日、冒険者ギルドで登録をしてこようと思います」
俺の言葉に、母上の手が止まった。弟のカイルと妹のリリアも、何の話だろうと俺を見つめている。ただ一人、父上だけは驚いた様子を見せなかった。
「そうか。そろそろだと思っていた」
父上は静かにうなずくと、手にしていた杯をテーブルの上へ戻した。
「冒険者になること自体は、あの時すでに許している。あとは、お前がいつ始めるつもりなのか。それだけの問題だったからな」
「はい。今なら、学業や訓練を後回しにせず、冒険者としての活動も続けられると判断しました」
「理由を聞いてもいいか?」
「実戦経験を積むためです。今までは騎士団の方々を相手に訓練してきましたが、決められた場所での訓練だけでは経験できないこともあります。訓練と実戦を並行して行った方が、今後は効率よく強くなれるはずです」
騎士団の者たちとの訓練が役に立っていないわけではない。むしろ、俺がここまで短期間で身体を鍛え直せたのは、彼らの協力があったからだ。しかし、相手が人間である以上、訓練には限界がある。
魔物は人間とは動きも習性も違う。命を奪うことをためらわず、こちらが油断すれば迷いなく襲いかかってくる。これから先の戦いを考えれば、そろそろ実際の魔物を相手に経験を積んでおく必要があった。
「それに、今後は自分で自由に使える資金も必要になります。いつまでも家の金だけに頼るつもりはありません」
「十二歳の子供が口にする言葉とは思えんな」
父上がわずかに笑う。
「だが、言っていることは間違っていない」
もちろん、目的はそれだけではない。冒険者になれば、依頼を理由に屋敷や領都の外へ出られる。
自分の判断で動ける時間が増え、情報も集めやすくなる。今後起きる災厄に備えるためにも、家の人間を通さず自由に動ける立場は必要だった。
だが、それを今ここですべて説明するつもりはない。父上たちに余計な心配をかけるだけだ。父上は俺から視線を外すと、その後ろに控えていたオルドへ目を向けた。少し離れた場所には、食事中に何かあった時のため、トーマも待機している。
「オルド、トーマ」
「はい、旦那様」
「お前たちの目から見て、アレスの学びはどうだ。冒険者として活動を始めても、領主学やその他の勉学に支障はないと思うか?」
これは、父上が今初めて確認しているわけではない。オルドもトーマも、俺の学習状況については定期的に父上へ報告している。おそらく父上は、俺だけでなく家族全員に聞かせるため、あえてこの場で尋ねたのだろう。先に口を開いたのはトーマだった。
「順調という言葉では、とても足りません」
トーマはいつになく真剣な表情で一歩前へ出た。
「率直に申し上げますと、異常でございます」
「異常?」
母上が不安そうに聞き返す。
「も、もちろん、良い意味でございます」
トーマは慌てて付け加えた。
「私が一度説明した内容は、その場ですべて覚えてしまわれます。収入と支出の計算、文書作成、領内の産業、税の仕組み、商人との話し合いについても、同じことを二度お教えした記憶がございません。それどころか、最近では私が用意した例題の間違いまで見つけられるほどです」
トーマの声には、隠しきれない興奮が混じっていた。
「書物を読む速度も尋常ではございません。最初は内容を流し読みしているのではないかと疑いました。しかし、読み終えた後に質問すれば、どのページに何が書かれていたのかまで正確に答えられます。それだけではなく、書かれている内容の問題点や、実際に領地へ取り入れた場合に起きる悪い結果まで説明なさるのです」
「そこまでなのか?」
父上が尋ねると、トーマは勢いよくうなずいた。
「はい。アレス様は、この一か月余りで通常なら三年以上をかけて学ぶ内容を、すでに修めておられます。領主学以外の勉学も含めれば、どれほどになるのか、私にも見当がつきません」
トーマはすっかり俺に心酔しているらしい。普段の冷静さはどこへ行ったのかと思うほど、熱のこもった口調だった。
もっとも、俺が一度見聞きしたことを忘れないのは、《追憶》の力によるものだ。聞いた言葉も、目にした文章も、そのまま記憶へ残る。それだけではない。
滅びた世界で、食料や武器、人手が足りなければ何が起きるのかを嫌というほど経験した。今学んでいる知識をその経験と結びつけることで、実際に領地へ取り入れた先まで考えられる。そのおかげで、今の学びは、やり直す前の十二歳だったころとは比べものにならないほど速い。
「オルドはどうだ?」
「私から申し上げることは、ほとんどトーマに言われてしまいました」
オルドはおだやかにほほ笑んだ。
「礼儀作法、歴史、法、領主としての心得。いずれも年齢からは考えられない水準に達しておられます。何より素晴らしいのは、知識を得ることだけで満足せず、それを領民のためにどう役立てるべきか、常に考えておられることです」
そう語るオルドの目に、薄く涙が浮かんだ。
「かつての坊ちゃまを思えば、これほどご立派になられる日が来ようとは……」
「オルド」
「申し訳ございません。歳を取ると、どうにも涙もろくなってしまいまして」
オルドは懐から取り出した布で、そっと目元を押さえた。俺はどういう顔をすればよいのか分からず、黙って水を口に運ぶ。
俺としては、必要なことを学んでいるだけだ。以前の俺がひどかったせいで、周囲から過剰に感動されてしまう。自業自得とはいえ、居心地が悪い。
「学業については問題ないようだな」
父上は満足そうにうなずいた。
「戦闘についても、騎士団長から報告を受けている。少なくとも、今のアレスが領都周辺の依頼で危険に陥ることはないだろう。私自身も、冒険者として経験を積み始めるには十分な時期だと判断していた」
やはり父上も、俺が冒険者になるには十分だと考えていたらしい。だからこそ、俺が話を切り出しても驚かなかったのだ。
「オルド。あれをアレスに」
「かしこまりました」
オルドは一度頭を下げると、あらかじめ用意していたらしい二枚の書類を俺の前へ差し出した。受け取って内容を確認する。一枚は、俺が冒険者になることを認める保護者同意書。もう一枚は、アークハルト家騎士団長の署名と印が入った推薦状だった。
「これは……」
「冒険者には十二歳からなれるが、十五歳以下の登録には保護者の同意が必要だからな」
父上は当然のことのように言った。
「勘違いするな。今ここで冒険者になる許可を出したわけではない。その許可なら、鑑定の儀式を終えた日にすでに出している。これはギルドでの手続きに必要な書類を用意しただけだ」
「では、こちらの推薦状は?」
「お前の年齢だけを見て、ギルドの者がまともに取り合わない可能性もある。少なくとも、騎士団長が戦闘能力を認めていることを示しておけば、登録手続きは問題なく進むだろう」
どうやら父上は、俺が冒険者になると言い出す前から、必要なものをすべて準備していたらしい。俺が自分で時期を見極めていたように、父上も俺の学びと訓練の様子を見ながら、いつ冒険者として送り出すべきかを考えていたのだろう。その準備のよさには、素直に驚かされた。
「ですが、あなた」
母上が心配そうに父上を見る。
「冒険者になれば、アレスも魔物と戦うことになるのでしょう? 本当に危険はないのですか?」
「登録したばかりの冒険者が、いきなり危険な場所へ行くことはできない」
父上は母上を安心させるように、落ち着いた声で説明する。
「冒険者は全員、Fランクから始まる。魔の森への立ち入りが認められるのはDランクからだが、それも外周部に限られている。森の内部へ入れるのはCランク以上だ。登録直後のアレスが受けられるのは、領都の中やその周辺で終わる簡単な依頼だけだ」
「そうなのですね……」
母上は胸元に手を添え、少しだけ安心したように息を吐いた。
俺は、父上から受け取った推薦状へ、もう一度視線を落とした。
この一枚が開く道は、ただ登録を滞りなく進めるためだけのものではない。
明日、俺は冒険者としての歩みを、父上たちが思い描いているよりも、ずっと先から始めるつもりだった。




